第7話 もう一つのトラブル
「私は急いでバイト先に行かないと行けなくなっちゃたから適当に場を繋いでくれない?」
『私』は突然、目の前の私に状況の説明も何もなくそう言われた。理由はわからないし、そのうえ記憶が曖昧で頭の中がもやがかかったようになっていた。
「あの……えっ……」
「じゃあ、お願いね」
私はその場を『私』に託して、物音や足音を立てないように気をつけながら去っていった。
「えっと……なんだっけ?場を繋げだっけ……」
とりあえず、ここが加奈の部屋の前だというのは分かる。何をどうすればいいか分からないけれども、こういうときはいつものように場の空気に合わせて、困ったらニコニコしたりして曖昧に適当にやり過ごせばいい。そう『私』は結論を出した。
部屋に入ると加奈がよく分からないが笑い転げていた。私は加奈のではない飲みかけのカップが置かれているテーブルの前に座った。
「ねえ、さっきの電話なんだったの?」
『私』には身に覚えのない質問だった。さっき廊下にいたのは私が電話をするためだったのかと今更理解した。それも相手はおそらくバイトがらみの人だ。しかし、『私』の返事は決まっていた。
「ううん。なんでもないよ」
いつものように笑顔で返すだけだった。
「そうなの?ならいいんだけどさ」
『私』はひとまずほっとして、紅茶に口をつける。
「で、麻衣さ……さっきまであんなに自分を増やせるってムキになってたけどあれはもういいの?」
加奈は笑いをこらえながら話しているようだった。
「えっ!?そんなこと普通できるわけないじゃない」
『私』は笑って適当に誤魔化した。
「いやいやいや。さっきまでと全然反応違うじゃん!何?結局はタチの悪い冗談でからかいたかっただけ?」
「えへへ、ごめんね」
加奈はあっさり謝った『私』の顔を怪訝そうにジロジロと見る。
「なんかさ、麻衣。来たときと雰囲気違わない?」
ドキッとしたが笑顔を崩さずに返事をする。
「そんなことないって。きっと何かの思い違いだよ」
「そうなのかな……?まあ、いいんだけどさ」
居心地の悪い沈黙が続いた。『私』は気まずさを誤魔化すために紅茶をすする。加奈は追求をするのを諦めたのか、脇に置いてあった本を読み始めた。『私』もテーブルの明らかに私が置いたであろう本を手に取り、読んでいるフリだけすることにした。
それから三十分くらい経ち、加奈のほうから突然お腹の鳴る音が聞こえた。静かな部屋に思った以上の音量で鳴り響き思わず二人同時に吹き出した。
「そういや、お腹空いたね」
部屋の時計を見ると夜の7時半過ぎでお菓子をつまんでいたにしろ、お腹が空いてくる頃合だった。
「もういい時間だしね」
「今からピザでも頼んじゃう?」
「加奈、太るよ?」
「麻衣に半分食べてもらうから、太るなら麻衣も道連れにするよ」
加奈はいたずらっぽく言う。
「私、お腹そんなに空いてないんだけどなあ」
「そう言わずにここは割り勘でピザにしませんか?ねえ、麻衣さん?」
『私』は本当にお腹が空いていなかったし、全く欲しいとは思わなかったけれど、これ以上断るのも加奈に悪いと思った。
「わかりましたよ。加奈さん」
「やった!じゃあ、注文するね」
加奈は部屋の脇に積んである雑誌の隙間からピザ屋のチラシを持ってくる。たまにポスティングされてるのを適当に置いていたのだろう。加奈はチラシの一番オーソドックスなピザを指差しながら、「これでいい?」と聞いてきたので首を縦に振った。
加奈は鞄から携帯を取り出し、ピザ屋に電話をかけ注文をする。
それと同時に『私』ははっとした。私の鞄がないのだ。財布や携帯は鞄に大体入れている。服のポケットに手を入れて確認するも何も入っていなかった。
『私』は私が抜け出して行ったときに鞄を持っていったことを思い出した。変な汗が流れるのを感じた。加奈は注文を終え、電話を切ると心配そうに顔を覗き込んできた。
「大丈夫?なんか汗すごいよ」
「う……うん。大丈夫。ちょっとトイレ借りるね」
「うん、わかった」
『私』はとりあえず部屋を抜け出してトイレに逃げ込んだ。どうしようもない状況だけれども、もしかしたらピザが届く前に私が用事を済ませて帰ってくるかもしれないという一縷の望みに賭けることにした。
『私』はトイレから出て部屋に戻り、祈るようにして過ごした。そして、家の中をチャイムの音が鳴り響いた。
加奈は、「はーい。どちら様ですか?」と玄関に向かい、ドアを開ける。どうやらピザの配達だったようで、一旦部屋に戻って財布を片手に玄関に戻っていく。『私』の淡い期待は届かず、どうしようもない現実が迫ってくる。加奈はピザを持って部屋に戻ってきて、テーブルに広げた。
「二千五百円だったし、千円でいいよ」
加奈はピザを一切れ取り、ほおばりながら言う。
「ん?麻衣?どうしたの?食べないの?」
「あっ、うん。お腹空いてないから」
「そんなこと言わないで食べなよ」
加奈はピザを『私』のほうに寄せながら勧めてくる。加奈は動かない『私』をじとっとした目で見てくる。
「もしかして、本当に食べないで私を太らせるつもり?」
「まさか、そんなことはないよ」
「じゃあ、食べなかったらお金払わないでいいとか思っちゃてる?割り勘にしようって言ったよね?」
ドキッとして言葉に詰まる。加奈はそれを見逃してくれなかった。
「なんか図星って顔した。注文して届いた後にそれはひどくない?」
『私』は何か言い訳をしないといけないと思い必死に考える。
「えっとさ、今お金なくってさ……注文したあとに気付いた……のよね」
目が泳いでいるのが自分でも分かった。
「なんかすごい嘘っぽいよね?ねえ、財布見せて?」
加奈の声から冗談交じりのような雰囲気が消えた。
「なんか財布なくしちゃったみたいでさ……」
「はあ?どういうこと?家に来る前コンビニでお金払ってるときは財布持ってたよね?遠目だったけど鞄にしまうの見えてたよ」
「ごめんなさい。本当に今は持ち合わせがないの。明日ちゃんと払うから」
『私』は頭を下げる。誤魔化しきれるなんて思っていないが、今はこれしか思いつかなかった。
加奈はしばらく『私』をにらみつけるように観察する。この場にいることが辛くて逃げ出していまいたいと本気で思った。
「はあ……まじで信じらんない」
『私』は顔を上げ、加奈のほうを見る。
「あんたさ、いつもならこういうとき携帯にメモったりして忘れないようにするけど、それもしないってことは返す気もないってことよね?」
「ちがっ……」
「何が違うの?なら今からでも携帯取り出してメモすれば?」
『私』は固まる。メモをしたくても携帯がないのだ。さすがに携帯を忘れたなんて言い訳は出来ない。『私』と入れ替わる寸前まで私が廊下に出て携帯で電話をしていたからだ。
「あんた最悪だね。今日はもう顔を見たくないから帰ってくれない?」
今までに聞いたことのないくらい冷たい声だった。加奈を怒らせてしまったことと、事の大きさから腰が抜けてしまったかのように足腰にうまく力が伝わらず、動こうにも動けなかった。
そんな『私』の腕を加奈は乱暴に掴んで立ち上がらせ、玄関に連れて行く。『私』は突然のことで驚いたが、私の持ってきたであろう《二つの手紙》という本だけはなんとか持ってこれた。これだけは置いてきてはダメだと感じたからだ。
「じゃあね。さよなら!」
加奈は『私』を追い出し、ドアを閉め鍵をかける。『私』は加奈に何か言わなきゃとドアの前で声をあげようとしたが、何も言葉は出てこなかった。これ以上何か言ってもこじれるだけなのは目に見えていた。
しばらく加奈の家の前で立ち尽くしていた。そして、このままの状況で家に帰るわけにもいかないと思った。だから、『私』は人に見つからないように物陰に潜んで私を待つことにした。
孤独と寂しさに押しつぶされそうになりながら足音がするたびに私じゃないかと顔を確認した。もう帰ってしまおうか、そう諦めかけたときに肩を落としてうつむき加減で歩いてくる私を見かけ、物陰から飛び出し声をかけた。
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