タイジ
クダラレイタロウ
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暮れなずむ町の光と影の中を縫うように、俺は自転車で下り坂を疾走する。ぽつ、ぽつと疎らに建つ住宅のせいで、顔に落ちそうな西陽がかぶったりかぶらなかったりする。せっかく下り坂のお陰で、風が気持ちいいのに、点滅するような日の光が焼くように暑い。
坂を下りきると、坂上センセイが泣きそうな顔で俺を待ち構えていた。
子どものすることなのだから、そんな顔しなくていいのに。責任を感じているのか、見ていて気の毒に過ぎた。
「
ここの保母さんは誰々くんのお父さんとかって言い方をしてくれない。何かの冗談のような苗字なので、そうしてくれた方がありがたいのに。自転車を停めた俺は、姿勢を正し頭を下げる。
「この度は息子がご迷惑おかけしています」
タイジくんの姿が見えなくなってしまいました、とやはり泣きそうな声で坂上センセイが連絡をくれた時は、流石に頭がくらくらした。
「とんでもないです! 私が、私が悪いんです!」
頭を下げられるなんて思わなかったのかもしれない。センセイの女らしい柔らかみのある掌が俺の両肩に触れる。若い女に触れられたのなんて、いつぶりだろう。
そんな場合じゃないから緩みそうな頬を引き締め直した。
「今日はさっきまで、お絵かきをしていたんですが」
顔を上げると、センセイは聞いてもいないのに唐突に語り始めた。軽く面食らったがセンセイは気付かない。どうやら保身の為に弁解しているのではなく、こちらのことなどお構い無しに自分のヒロイズムに酔って、懺悔をしなければならないと信じて疑っていない様子だ。俺は黙って耳を傾ける。
「その時にタイジくんが、あの、こんな絵を描いていて」
唐突に語り始めた割に口ごもるのが早い。見た方が早いと言うことのようなので、タイジが描いたと言う絵を見る。それは殆ど完成していた。
幼稚園児の絵にしては、なかなかの出来だと思う。目を細めてやりたいところだったが、俺は違う意味でそうした。何だ、これは。牙を生やした男が、盛大に血飛沫をあげているように見える。それより明らかに小さく書かれた子どもが、剣を振り上げている。頬の部分に、明らかに汚れではなく、意思を持ってぐりぐりと押し付けられた黒い点がある。
これはタイジ自身なのだろう。泣きぼくろだ。友達にからかわれて泣いてしまい、なおからかわれてしまったタイジの、後ろめたいトレードマーク。どんな気持ちであの子はこの点をぐりぐりと打ちつけたのか。何とも子どもらしくない自虐的な表現だった。
しかし、それ以上にやはりこの血飛沫は子どもらしくない。タイジが描いた武器の色や形からして、これはこの間、買い与えたゲームでも模写したつもりなのかもしれない。全年齢モノなので血が噴き出すようなゲームではないから、少し空恐ろしい。
子どもはどこで何を学習して、既存の知識と紐付けするかは、親でもまるで予測が出来ない。子育ての楽しいところであり、難しいところでもある。
「パッと見で私、軽率だったかも知れないんですけど、怖いなぁって言って、何の絵かタイジくんに聞いたんです」
俺が何も言わないうちからセンセイが喋り出す。顔を見るとずいぶん思い詰めているみたいだった。何か、こちらが悪いことをしている気分になったけど、 流石に黙っておいた。
「そしたら、タイジくんが、その、」
これ、パパって。
ずいぶん、言いにくそうだった。残念ながら、予感はしていたけど。つまりは、この牙を生やし、斬られて盛大に血を噴き上げている男は、父親である俺だと言うことだ。
「私、怖くなってしまって」
そんな風に書いてはいけないと、叱ったのだと言う。混乱したように泣き出したタイジは、センセイを振り切って園の外へ飛び出していってしまったと。本当にごめんなさい、ともう何度目になるか分からない謝罪を、話し終わったセンセイはした。
「そう、ですか」
流石に複雑だけど、今は探す方に気持ちを傾けた方がいい。センセイから聞いておくべきことはこれくらいか。
さて、あのバカ息子、どこへ消えたのだと、そちらに意識を切り替える。
「出てく直前、あいつ、何か言ってましたか」
センセイにもそれが伝わったらしく、佇まいを整えて答える。
「いえ、手がかりになりそうなことは全く。パパはありがとうって言ったのに、とか何とかよく分からないこと言って、駆け出していってしまって」
探しに行こうとしていた気持ちが、その言葉で一瞬崩れる。記憶が引き戻され途端に合点がいく。絵を再度見たら、俺の手にも小さく刃物のようなものが見てとれた。
これは、もしかして。
「あいつ」
気持ちを新たに、駆け出す。
てっきり覚えていないと思った。覚えていてほしくないと言う祈りが、自意識にばかり投影されていたのかも知れない。
各馬一斉にスタートしたかのように思い触れた記憶は、ぎくりと身体のどこかを緊張させた。
妻が事故死してすぐのことだった。今から三年前、と思うと驚く。三年か。まだ三年、なのか。不思議なのだが、つい最近の出来事のようにも思えるのに、どれだけ経ったのか指折り数え上げると、まだそれだけしか経っていないのか、とも思ってしまう。妻の死がもたらしたものが大きい証拠なのかも知れない。
妻を亡くして、程無くしてからのこと。四十九日を終え、ようやくある程度、生活が回るようになってきた頃のことだった。生活が回る。それを実感するたびにこの身が引き裂かれるようだった。妻がいないことで起こる不養生、不便さ。それを感じる時にも感じる痛みは、まるで逆の状況の時にも、不意に襲いかかる。いや、不意だからこそ傷は更なる深さに達してしまう。その時は、まだ小さいタイジのご飯を作っていたらやって来た。
あ、と思った時にはふえ、と赤子の慟哭の序章のように血が滲む。包丁で、指を切った。まだ二ヶ月も経たない頃だ。そんなにすぐ、料理だってうまくなれない。
自分だけならまだしも、まだまだ小さいタイジがいる。不味いものは論外だし、栄養も偏ってはならない。そんな中で、今日もまた至らぬ自分にぶち当たり、途方に暮れてしまう。
あちらで、三人仲良く暮らせないか。
そんなことが至極、当たり前のことのように、この時もよぎった。キャベツを切っていた指から、血液が伝染するように、キャベツが帯びていた水滴に吸い込まれていく。
あぁ。声が漏れる。切れて血を流している指は、痺れたように痛みを覚えない。指を切った事実ばかりが、自分を痛めつける。
二人で、妻のもとへ行けないか。思い病み、俯くと、そこに視線があった。Rayのようなあまりにもまっすぐな視線。子どもにしか、こんな目はできない、と何故か強く思った記憶がある。
いつからそこにいたのだろう、タイジが俺を見上げていた。
どれくらい、見つめあったか定かじゃない。俺が早まって包丁を降り下ろす前に、タイジが動く。
俺は、切られていた。
ボール紙でできたおもちゃの剣。タイジがそれを振りかざして俺の腰をびしりと叩いたのだ。
「ありがとう」
確かに言った。あの後、すぐに。
段ボールの剣で斬られた俺は、いつもタイジと遊んでいる時は、大袈裟にやられたーっと言って倒れるのだが、この時はもう何と言うか、心の底から、やられた。それ以外、声も出なかった。
あの絵に描かれていた、牙を生やす、明らかに悪者の姿。きっとそれは、あの時の俺が発していたもの。それが、きっとそのまま描かれていた。まだ満足に言葉も話せなかったあいつにとってすら、あんな風に映っていた。魔が差しそうになった俺の、その一瞬を見抜いて、あいつは剣を振ったのだ。
俺だったらここに隠れるかな。そう思った場所に、あいつはいた。振り向いたあいつは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに険しい目に変わり、そっぽを向く。
ああもう、また俺がすっかり悪者になっているようだ。だけどもう、あの時あいつが退治してくれたお陰で、俺の中に悪者はいないつもりだ。
だから、大丈夫。俺は手を差し出す。
タイジ クダラレイタロウ @kudarareitarou
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