第15話
西大寺千秋は極めて短い脚で老猿の首を締めながら川を流れていた。川と言えども学校の地下であり、このような瘴気の立ち込む隠れた名所は校内に数存在する。それ以上に彼女と老猿、二人を包むのは死合の空気である。
戦いはどちらか死ぬまで続く。まるで地下の雰囲気が闘争心を煽るようだ。
千秋が命を省みず決闘を挑んだ理由は明白。リスクの排除だ。老猿の計画は政治に疎い女子高生でもデスマッチを挑む程にヤバイ。ヤバイくらいリスクが高い。
現に学校の校舎は壊れた。このままでは学校とか街まで理不尽に巻き込まれてサイボーグ化するかもしれない。そういった漠然とした不安が刺激されたからだ。
それは政府の責任を老猿に転嫁しているのでは?ともあれ、千秋は老猿を排除し任務の主導権を握る行動が肝要だと結論した。彼女にとってはそれが全てだ。
「ごぼぼぼぼ」
老猿は口から血の泡を噴き出す。如何なる作用か、千秋の肉体は水中に沈むのに対して老猿の身体は水面に張り付きつつ流れている。
「待て女、ワシの話を聞いてくれーっ!」
「問答無用」
千秋は首の骨を折らんとする。だが老猿も只の人ではなく甲賀忍者。首の位置を絶妙に調整し、また千秋の太腿との間に右手を挟む事により辛うじで呼吸は保っていた。つまり発話が可能である。
老猿がサイボーグの攻撃に対処するには話術に頼らざるを得ない。だが老化により思考能力が低下し危険思想が先鋭化した後期高齢者に思春期真っ只中の女子高生を説得できるのか?
おそらく人間の価値観とは時代それぞれであり、二世代程歳の離れた相手に倫理を解く事は不可能と言える。
このような隔絶は千秋も感じていた。
千秋にとって学校は交流の場であり、何か素晴らしい事を体験したりとか学びたいと思っていたからだ。それを危険に晒す老猿はここで討たねばならない。
「金や!美味い話があるんや!殺さんといてくれぇ~!」
千秋は脚の力を弱めた。
それは老猿への譲歩に他ならない。古今東西、他者間の交渉を成立せしめるのは諸行無常の心などではなく、普遍的な人の欲であり業であった。
「…金か?」
千秋は無表情だった。
「経済観念を無視し破壊を望む破綻者の貴様が金か?」
次第に装甲車等の兵器が多くなる。このまま流れて行けば通信妨害装置がある筈だ。決着は近い。
老猿は血塗れの口から言葉を発した。
「お、お前にとっても良い話や…」
「信じられんな。」
千秋はチョップを構えた。
「金求めるんは人の本能や。意思の力でどうこうできるもんでもない。」
老猿の顔に浮かぶのは笑顔だった。
「それが人間の業や…社会に経済が存在する以上、儂も金無しで生きられん…」
「意味がわからん。」
「わかるやろ、仕事ゆうんは信頼あってこそや。何も儂は全部一人でやろうとしとるわけやないで。」
「敵は普通にやって勝てる相手やないねんで、そんなもんお前。な、儂やりたい放題やからて、すぐ学校潰すんは無理や。返り討ちなるわ。お前、せやからな、ほら金の力が要んねん。人雇て時間かけて攻撃続けるんがええとちゃうんか、言うとんねん。さっきからお前。」
「では殺す」
千秋は両脚の力を強めた。
「待てや待て待て。儂が悪かった。取引や。あんた日常に安全が欲しいやろ?そらそうや。脳みそ弄られたいうて一般人や。本音いうたらお前、元の生活に戻りたい思とるやろ?」
「人には戦わねばならない時がある。」
「せや。やったら尚更金は大事や。」
「何事も一人でやるには限界がある。せやろ?協力し合うべきや。その為には何が必要や?金や。日常生活なんてのは所詮金のおかげで成り立っとんねや。」
「薄汚い命乞いだ。」
「なら儂を殺してみい。できへんやろ?せやな、儂殺したら、金の在り処わからんもぶっ。」
千秋は老猿を殴った。
千秋は老猿を殴った。サイボーグ有機腹筋の力で蛇の如く上体を起こし、拳を射程圏内に持ってきたのである。体が水面から離れ、両脚で締め付ける老猿の首に全体重が必然的にかかる形となる。千秋は老猿を殴った。
「ああああー!!」
千秋は老猿を殴った。千秋は老猿を殴った。
「金を出せ!出せば殴るのをやめてやろう!」
千秋は極めて冷静だった…そんな目をしていた。老猿は己の浅はかさに後悔していた。千秋の思考を理解出来ない。やはり女子高生を説得するのは無理だ…そんな思いが駆け巡った。殴られる毎に老猿の体は水面を跳ね返る。異常である。
「ああううううー!!」
老猿が苦しそうに悶え、窒息している。口から何か漏れ出している。吐き出している。
「ううっ、べっ!」
老猿は水面に何かを吐き捨てた。それはやはり異常な跳ね返りをした後、沈まずに水面に落ちた。
それは透明な小袋だった。中に入ってるのは粉だ。
「ドラッグや。」
老猿は言った。
「うまく市場でサバいたら結構な額なる。」
「いくらくらい?」
「凡そ3億。」
「3億。」
あまりの額に千秋の脳は一瞬停止した。
「その金は全部やる。」
「全部。」
「ただしこれは取引や。儂はお前を買う。」
「身請け。」
千秋は正直迷った。
「お前を戦力として雇いたい。」
千秋は老猿を殴った。
「でも貴様は学校に破壊活動を働きかける気だろう。」
「うぼあっー!そ、そうや。何が悪い!儂はやりたい様にやるだけや。ええか、政府の監視無しに話すんのは通信の途絶えた今しか無いぞ。よう聞け。」
装置は既に目の先。
「儂はケチな総理では校長に勝てんと思とる。校長は神や。でも奴でも学校が無うなったらやる気無くす。だから時間をかけて学校を潰す。」
「返り討ちね。それに街や学校を戦闘に巻き込みたくない。」
「それはお前が自分の縄張りを荒らされたくないだけや。」
老猿は叫んだ。
「学校はお前の生活圏や。お前の物や。お前が壊して何が悪い。もっと身勝手なれ。」
千秋は沈黙した。
「お前は独善的や!政府に従順なフリして味方を殺そうとしよる。ええや無いかい。どないしようがお前の勝手や、なあ。若いねんから。」
千秋は拳を止めた。
「身勝手、成る程な。」
「そうや。自分の物は壊そうが何しようが勝手や。」
千秋は目からビームを発射した。ビームは数メートル先にある巨大アンテナ付車両5台をなぞる様に撃ち抜いた。この車両こそが最新鋭の通信妨害機能を搭載した秘密車だ。洞窟内からでも校内全域に効果有。
「なっ…」
車5台は爆発炎上。熱が波と共に押し寄せ、二人に浴びせられる。老猿は体制を崩し転倒。千秋は老猿の背後に回り込み右腕で首を拘束した。
「全てを我が物としよう。学生らしく。お前の取引にも応じよう。」
「せ、せやな。お前くらいの年頃ってみんな我儘やしな。」
千秋は腕の力を強めた。老猿が苦しそうにもがく。
「装置が破壊されたので、間もなく通信は回復するだろう。その前に言っておく。私の方が立場が上だ。」
全裸の男が此方に向かって走ってくるのが見える。千秋はふと八右衛門達の安否が気になった。無事だろうか。
「立場や…と?」
老猿が辛うじて喋る。千秋は再び老猿に意識を向ける。
「取引には応じる。だが、お前が私を雇うのではない。私がお前を使ってやるから、お前は3億で私に投資しろ。」
「なんやて」
「暗黒律?とかいうので契約しろ」
千秋はその辺の知識があやふやだった。
「つまり契約は絶対だ。わかったか。」
千秋は苦しそうな老猿に構わず拘束を強める。
「わ、わかった。わかっ…」
老猿は気絶した。
「よし、契約成立だな。」
全裸の男が千秋に駆け寄ってきた。
「嬢ちゃん、お巡りさんに通報したぜ。」
全裸の男は言った。
「いいのか。」
千秋は目を背けつつ言った。
「多分逮捕されるぞお前が。」
「いいのさ。元々こうなる予定だったんだ。なるべくしてなる。それが人生という物さ。」
「そういうものなの?」
「そういうものさ。お嬢さんも暫く見ない内に随分顔付きが変わったが…まあ、女子高生なんてのはその方がイイぜ。
嬢ちゃんはこれからどうするんだ。」
「ここの兵器を押収する。それで学校を支配する。」
「えっ…それは引くわ。」
「それじゃあ戻ろう。」
八右衛門達の居る地点に戻るのにそう時間はかからなかった。川を流れていたので距離感がわからなくなっていたのだろうか。
八右衛門は死んでいた。トレンディは責任を感じていたが、だが存外、千秋は八右衛門の死に興味を持ち得なかった。これは千秋の脳にそういう改造がされているからである。
とにかく、地上に戻る事にした。
死人や意識不明者を抱え、一歩踏み出したその時、不思議な事が起こった。
何時の間にか一行はトイレまで戻っていた。
「これは一体!?」
「空間が…歪んでいるのか。私達は今まで何処にいたんだ。あの洞窟は一体何なんだ。」
千秋は混乱した。トイレの床に開けた筈の穴も無くなっている。
ふと、千秋は老猿の言葉を思い出した。
「校長は神」
校長?この学校に校長がいるなんてそういえば始めて聞いた。教頭の上に更なる役職が存在するのか?あの洞窟は何か関係があるのか?
体育館の外からエンジン音がした。外に出てみると、黒塗りの外車が停止していた。外車の窓が開いた。
「警察は来ないよ。」
左前の窓から覗いたのは初老の紳士然とした男だ。だがその身に纏うのは忍者装束。忍者だ。
「私は百面刑部。甲賀組の長官だ。」
「はじめまして長官。八右衛門が死んだわ。」
「そうか残念だ。」
長官は興味なさげに言った。
「タクシーだ。ドアは自分で開けて乗りたまえ。」
千秋は後部ドアを開けた。
「トレンディ君だったかな?この事は黙っててくれないか。」
トレンディは頷いた。
「お春殿と八右衛門と老猿…は乗ったか。トレンディ君と山田寺さんは何か適当に言い訳しといて。」
「あれっ?全裸の男は?」
「何の事を言ってるんだ?」
トレンディが訝しんだ表情をした。
「えっだって全裸の男いたじゃん。」
「いなかったけど。」
トレンディはそんな顔付きになった。
「お嬢ちゃん、ここで全裸の男を見たのか。」
一糸纏わぬおっさんが現れた。
「それはおっさんの親友だ。」
「は?」
千秋は状況が理解できなかった。
「おっさんはかつてこの辺で暮らしててな。あな懐かしや。おっさんには親友がいたんだよ。だが、親友は麻薬取引の現場を目撃してしまってな、シャブ漬けにされたんだ。」
「そんな、酷い。」
「おっさんの親友は麻薬の過剰摂取で死んだそうだ。」
あの全裸の男にそんな過去があったというのか。一糸纏わぬおっさんは話を続ける。
「警察の通報記録によると親友は死の直前に麻薬の事を自供しようとしてたそうだ。だが、親友はその前に死んだ。それで、親友はまだ自分の死が理解できないんだろうね。今でもこの学校に親友の霊が現れるんだ。」
「君が見たのは、彼だよ…」
一糸纏わぬおっさんは言った。
「え…?じゃあ私が今まで話してたのはお化け?いやあああああ」
「とりあえず警察に通報しておくね。」
長官は言った。
つづく
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