幸福を呪う者 - Communication breakdown

 扉の鍵を開け、彼女は暗闇の中へ声をかけた。

「ただいまあ」

 部屋の向こうから小さな鳴き声が聴こえる。

「はいはい、待っててね」

 上着を玄関脇のフックにかけ、居間の扉を開くと小さな猫が足にじゃれついてきた。

 彼女──リュシュカ=ミラーが住んでいるのは勤務地から程近い女性専用のアパルトマンだ。

 ほぼ寝に帰るだけの部屋としては広めだけど、セキュリティがしっかりしているしペットを飼うすることも許可されている。その分家賃も高めに設定されていたりするが。

 専用の皿にペットフードの缶の中身を盛りつけ、待ち構えている猫の目の前に置く。一生懸命に食事にかぶりつく姿を確認して、リュシュカは自分の食事の支度を始めた。

「ロビン、お腹すいていたのね。遅くなってごめん」

 タイマー式のフードサーバーも用意してはあるが、出来うる限りは自分で食べさせてやりたいと思うのだ。今日は運良く間に合った。

 リュシュカは薬缶をコンロにかけ、ソファに座り愛猫の姿を眺めていたが──ふっと身体の力を抜いて背もたれに沈み込んだ。



   ***



 技術部の一員に過ぎない自分が臨時職員の面倒を見るように言い渡された時は、何故自分が──と内心反発した。

 けれど、その臨時職員の業務が『Kittenの監視』と知って、思わず納得する。……ずっと、あの子達の面倒を見てきたのは私だもの。

「それにね、リュシィ」

 先輩の言葉もある。

「もう5年もラボにいるのよ。……こういうことは順送りだから」

 そう言われれば、もう反論の言葉など出てこようはずもない。

 ただ、自分の後任に男性を据えることには途惑いがあった。

 あの子達は私にしか懐かなかったし、そもそも先輩からの紹介とはいえ単なる就職先候補の1つに過ぎないはずの今の勤務先に籍を置くことになったのも、二次面接でラボを訪れた私が駄々をこねてたあの子達をあっさり説得したからだったし。

 あとで、あんなにあっさりとあの子達を御したのは私が初めてだったと聞かされた。

 そう。きっと既に私はそこでつまづいていたんだわ。

 あの子達と出逢ったことで、私は自分の存在についての疑惑を強め──確信するに至ったのだから。



   ***



 台所からけたたましい音が聞こえる。

 ──いけない。薬缶、かけっぱなしだった。

 慌ててコンロのスイッチを切る。薬缶は中身をふきこぼしながら、しゅんしゅんと自己主張を続けていた。

 そのまま正面の棚からポットと紅茶の葉を取り出す。紅茶は沸かしたてのお湯で淹れるのが一番美味しい。

 帰宅途中にデリカテッセンで購入したミートローフとサラダ、厚めに切った買い置きのバタールをそれぞれお皿に盛って。

「──」

 簡単に祈りの言葉を述べてから、食事にする。

 独りきりの食事も5年も経つととくに感慨は覚えない。そもそも両親は2人とも不在がちで、子供の頃から家族全員での食事なんて数える程しか思い出せない。

 猫が、鼻を鳴らしながら足許に寄ってくる。

 ロビンは乳母の家から貰ってきた子だ。

 一人暮らしを決めたとき、一番心配してくれたのは乳母のドロテアだった。

 父は国際的な賞を取ったこともある遺伝学の権威。そのせいもあってか業務は多忙を極め──数年前の母の臨終にすら立ち会えなかった──放っとかれっぱなしだった私を見かねたのか、自分の娘のように可愛がってくれた。

 ドロテアに家を出ることを相談したとき、彼女は驚いたようだったが──最後には快く送り出してくれた。

 その時にくれたのがロビン。名前は『ロビン・フッドの冒険』からとった。温厚で人懐こい男の子。

 その時以来、週に一度は実家に顔を出すがそれもどちらかというと父親に会いにいくというよりはドロテアに会いにいっていると言ったほうが正しい。



   ***



 ともかく、私は覚悟を決め──初めての「主任」としての仕事に必死に取り組んだ。

 職員探しを開始し、大量の履歴書と格闘しているうちに……ふと一枚の写真に目が留まる。

 私より2歳下とは思えない幼い容貌。なのに書かれた経歴は、軍についての知識は聞きかじり程度の私から見ても飛び抜けて優秀だった。

 とはいえ、業務の内容が内容だ。直感で採用を決定する訳にもいかず、私は彼の推薦者の話を聞いてみることにした。

「──シーヴァーズですか?」

 総務部のシュミット氏は私が人事課を訪ねたことをひどく驚き──あとで彼自身この推薦をいわゆる『ダメ元』で送りつけてきた、と知った──快く面談を承知してくれた。

「悪くない奴ですよ。生真面目だし」

 シュミット氏は彼──マティアス=シーヴァーズという人間が自分の同期であることや、最前線で重傷を負って本国に戻された、などということを話してくれた。

 私は、その信頼を置いた語り方に安心感を覚え──何人かの候補者の中に彼の書類を混ぜ、人事に提出した。

 それだけのことだった……はずだった。

 ──あ。また腹立ってきた。

 一体どうしてこんなことになってしまったんだろう。

 だんっ! フォークをサラダに突き立てる……そのまま皿に突き刺さる。

 背中に冷や汗が流れた。

 この一見陶器に見える皿は、実は硬化プラスチックでできている。

 数年前USFEとGKを含むEUFOが戦端を開いた際、アジア諸国はあくまで中立の立場を貫き──結果『アジア連合』なる共同体ができた。それとて一枚岩ではないようだが。

 ともかく、アジアの各国とは国交こそ絶えていないものの、それらの国から輸入していた製品に関しては関税がみるみる間に跳ね上がり──安かった量産の陶器は一気に高級品となってしまった。

 無論今までも欧州産の陶器は細々と生産されていたが、どちらかと言えば『芸術品』の範疇に入るそれを一般家庭でそうそう日常的に使用できる訳もなく、庶民の食器は急遽開発された『陶器風』の硬化プラスチック製品に塗り替えられていった。日常の使用には十分耐えうるが、艶や音が本物の陶器に比べて若干劣る。あと、上から強い力を加えられた場合──皿は割れず、へこむ。鋭利な道具の場合このフォークのように突き刺さったりする。


 ……彼を選んだことを後悔しているわけではないのだ。やり方に問題こそあれ、人的被害が出なかったのは彼の功績であることは間違いない──

 施設のセキュリティの脆弱性に気付くこともできた。

 だからこそ、彼の処遇が決定されたとき局長に抗議を行なった。……勝算があるわけではなかったが、恩人に恩を着せる形で、ということに強い抵抗があったのだ。

 彼に含むところがあるわけではない、と思う。

 ──けれど。

 どうも彼を目の前にすると、怒りの感情が湧いてくる。

 何でこんなにイライラするんだろう。

 この間の食事の席のことも気になる。

 彼は「何もなかったですよ」の一点張りだし、先輩は何か含むところがあるようだが決して教えてはくれない。


「……ごちそうさま」

 食器を台所に運ぶ。

 穴の4つ空いた皿を見つめ──洗ってから感謝を述べた上で廃棄処分にした。

 お皿の数もだいぶ少なくなってきた。今度、まとめ買いしてこないとね。



   ***



 翌日。

 私は朝一番、総務部の扉の前で深呼吸をしていた。

 彼に対する人事権限は先輩に移ったものの、実際に事務処理を行なうのは私だったりする。

 通常ならこういった業務は各セクションに分かれるものだが、施設に勤めている私たちは取り扱っているものの特殊性から全ての技術員が何らかの職務を兼任している。

 扉をノックする。返事が聞こえたので、私は扉を開いた。

「失礼します」

 中に入って、人事課のシュミット氏を内線電話で呼び出す。

 程なくして、彼は現れた。

「お待たせしました」

「いえ」

 答えるとシュミット氏は腕時計を見る。

「──こちらへどうぞ」

「? はい」

 部屋を出て、廊下を突っ切り──フロアの片隅に案内される。

 小さな机と椅子が並ぶ小部屋。壁に並ぶ飲み物の自動販売機。

「こんなところで申し訳ありません。できればあまり無関係の人間に聞かれたくないものですから」

「……けれど、特に『秘密』と言った雰囲気は出したくない訳ですね」

 そう言うとシュミット氏は苦笑いした。

「何がよろしいですか?」

 飲み物のリクエストを聞かれたのだと気がつき、コーヒーをお願いする。

「どうぞ」

 紙コップのコーヒーを受け取り、御礼を言う。

「書類だけでいいものを、我儘を言ってご足労戴いて申し訳ありません」

 沈黙が流れる。

「──この度はあのバカが面倒をかけたようで……」

 先に切り出したのはシュミット氏だった。

 「いえ」とも「はい」とも言えず、私は別の言葉で応える。

「……人的損害を出さなくて済んだのは彼の功績ですから」

 私が局長に詰め寄っていた頃、彼は軍上層部からこの人事の手続きを命じられ困惑したのだという。

「……当人にもどういうことか聞いたんですがね……はぐらかされるばかりで」

 言い捨てるようにそういうと、シュミット氏はコーヒーに口をつけた。

「それで貴方から連絡が来たことを幸いに、こうして訪ねてきていただいたという訳です」

 薬指に銀の指輪が光る。彼は軍の中でも愛妻家であること有名だ。

「……そう尋ねられても、私がこの件に関しては話ができない立場だということはお分かりですよね?」

 私はシュミット氏の顔を正面から見据えて問う。彼は真顔になって言った。

「貴方からお電話を頂戴した際、おいでいただくようお願いしたときは『あわよくば』でした」

「……」

「だが、貴方は承知してくださった。『書類だけで済むこと』であるにもかかわらず。──ということは、きっと貴方も私に聞きたいことがあるんだろうと推測しました」

 答えを誤魔化すかのように、買ってもらったコーヒーに口をつける。

 ……あれ?

「ああ」

 シュミット氏がくすっと笑う。

「あのバカが教えてくれたんですよ。『あの人は信じ難いほどの甘党だ』って」

 ……

 何だその『信じ難い』ってのは。

 そんなところで気を遣わなくったっていいのに。

 ともかく、私は毒気をすっかり抜かれ──

「どうでしょう。お互いに手の内をさらす、ということで合意しませんか」

 シュミット氏の提案に、『他言無用』の条件をつけて乗ることにしたのだった。



   ***



「……という訳なんですけれども」

 私が例の事件について話し終えた時。

 シュミット氏は頭を抱え気味にうつむいていた。

「あの……」

 声をかけると、シュミット氏は軽く頭を振って姿勢を正した。

「いえ、大丈夫です」

 ……あまり大丈夫そうに見えない。

「いや……本当にご面倒をおかけしました……」

 シュミット氏が深々と頭を下げる。ついつい慌てて、立ち上がった。

「……シュミットさんが謝ることじゃないんです。頭を上げてください」

 そう言うと、困ったままの顔でシュミット氏はあなたも座ってください、と言った。

「成程、それで施設の面子の問題とも絡まってあの措置になったわけか……」

 ぶつぶつと呟くシュミット氏。

「……あの……?」

「いや……人の最悪の予想を裏切らないやつだなと……」

 ……とりあえずコメントは差し控える。

「……ひとまず戦場じゃない場所なら大丈夫だと思ったんですが」

 ……?

 その言葉に引っ掛かりを感じて私は問い返す。

「それは……どういう……」

「ああ」

 シュミット氏は顔を上げ、深く息を吐いた。

「あいつは、病気持ちなんですよ」

「……え……でも」

 そんなことは履歴書にも備考欄にも書かれていなかったはず。

「精神の部分の問題です」

 そう言うとシュミット氏は黙り込み──言葉を慎重に選ぶかのように、ゆっくりと話す。

「あいつは優秀な奴です。目の前にある事態に対しては最善を尽くすし、関わった人達を守ろうとする」

「……はい」

「けれど、あいつの中で、その守るべき対象にあいつ自身は入っていません」

「……え?」

 意味をつかみそこねて、反射的に問い返す。

「──あいつは、自分自身のことはどうでもいいと思っているんですよ」

 悔しそうに言い捨てるシュミット氏。

「それがあいつの病──『死に至る病』って奴です」

 『死に至る病』。

「キルケゴールですか」

「さすが、詳しいですね。私は哲学に関しては門外漢なのでうまく説明できないんですが……心理学の本を漁っていたときにその単語を見つけましてね」

「私も授業で軽く触れた程度ですけれど……」

「いやいや。あのエリート揃いのラボの中でも、なかなかの才媛とお伺いしていますよ。あの遺伝学の権威の」

「とにかく」

 寄り道を始めた会話を修正すべく、言葉を割り込ませる。……父に関する言葉は聞きたくない。

「私は、自分の手の内を晒しました。今度は貴方が情報を提供してください」

 シュミット氏は私が言葉をさえぎったのに面食らったようだったが、やがて一呼吸置いて話し始めた。

「……貴方が提供してくれたものには及ばないかもしれませんが」

「構いません。不足と思うなら後払いも受け付けますから」

 確認するような言葉に私は続きを促す。

 シュミット氏は椅子に座り直した。

「──私がその単語を見つけたのは心理学の本の中で、という話はしましたね。何故そんな本を読んでいたかといえば……あいつが変わった理由を知りたかったからです」

「変わった……」

「ある戦役から帰ってきたとき……あいつはまるで別人になっていた」

 シュミット氏のあせるような言葉を黙って聞く。

「その戦役の帰還した下士官は、あいつ1人だけです」

「──1人だけ?」

 そんな馬鹿な。

「何が起きたのかは奴も奴の上官も教えてくれませんでした。本来提出されるべき報告書も届けられず、その戦役自体が握り潰された」

 あまりのことに言葉を失う。

「それ以来です。あいつは自分の幸せを呪っているかのようだ」

「……幸せを、呪う」

 オウム返しに呟く。あまりに生物として、不自然な言葉。

「ええ。しかも、無自覚なのが厄介だ。……私は何とかしてやりたくて、心理学にまですがった。その時に見つけたのが件の言葉です」

 ──『死に至る病』──か。

「ずっと親友だと思って、それを公言してきました。けれど──その言葉を見つけた途端、私ではあいつを救えないかもしれない。そう思えて──それ以上何もできなくなってしまった」

 シュミット氏が唇を噛む。

「無論、親友だからって何でもしていい訳ではない。それは承知の上です。だが、放っておくのはもっと耐えがたい。──私があのラボにあいつを紹介したのは、もうこれ以上戦場に立たないほうがいいと思ったからです」

「……」


 ──そのあと。私は時間を理由にして総務部を後にした。

 秋の日は高く、眩しい。

 だが外の涼しいはずの空気さえ、私の気持ちを穏やかにしてはくれなかった。

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