7:Door Mat
その自覚から二日間は、とりあえず何事もなく過ぎていった。
いや、何事もなくと言えば少々語弊があるだろう。実際には室内での勝一郎の生活環境における諸問題、たとえばトイレの問題などはこの二日間の間に避けようのない問題として直面することになった。
何しろ外の森の中で一晩を過ごした時にはまだ外だったからいいが、今勝一郎が潜んでいるのはマントという衣類の中である。いくら扉の力といういくらでも空間を作ることができる力を持っているとしても、流石に衣類の表面に作った部屋の中で用を足すのは気が引ける。ランレイもさすがにそれは嫌だったようで、結局この問題は外から持ち込んだ大き目の木の皮に用を足して、その木の皮をランレイがこっそり森に捨てに行く形で決着を見た。
とはいえこの問題によって、勝一郎が隠れて生活するという行為が本人たちの思っていた以上に大変なものだという認識が生まれ始めたのも確かである。確かに見つかる確率の低い素晴らしい隠し場所を得られるという点においては、扉の力は非常に便利なものではあるのだが、だからと言ってそれだけですべてが解決するというわけでは決してない。
弓の的の問題こそ壁に作った扉ではなく、床に作った開いた扉を立てて、撃たれると後ろに倒れて閉じる的として機能させる形で解決したが、結局この二日間で解決したのはトイレと的の二つの問題だけで、そのほかの、たとえば風呂の問題などは結局解決していなかった。いくら勝一郎が男でも、流石に何日も風呂に入れないというのは精神的にきつかったし、この数日で無精髭もやたらと伸びきた。もっともこの世界では風呂というものがそもそも存在しているのかどうか、勝一郎はいまだ知らないままなのだが。
とはいえ、である。これらの勝一郎たちを悩ました諸問題も、しかしこの日の、ランレイが部屋の中に入るなり放った一言に比べればあまりにも些細なものであった。
「ねえショウイチロウ。今日うちの村に神様が来たのだけど、どう思う?」
用心深く周囲に警戒しながら入ってきたその後、彼女は真剣な表情で勝一郎にそう尋ねたのだ。
時はこの日の朝方に遡る。勝一郎が潜み、ランレイが住むこの小さな村では、数日前から騒がれていた一つの問題に、とりあえずの決着をつけようという動きが生まれていた。
その問題と言うのが、先日勝一郎とランレイが密かに遭遇し、特に勝一郎の心にトラウマを刻み付けるきっかけとなった【咬顎竜】の存在である。
本来であれば【咬顎竜】はもっと村から離れた場所を縄張りとし、さらにはこの時期もっと暖かい地方に群れで移動してしまう魔獣であるはずなのだが、数日前から村の男たちがこの魔獣の足跡を森のあちこちで目撃しており、どうやら群れからはぐれた【咬顎竜】が一匹、このあたりをうろついているのではと、村の各所でささやかれていた。女であるがゆえに森に入ることのないと思われていたランレイが、ひそかにこの魔獣に遭遇して命を落としかけていたことはまだ誰にも知られていないが、それとは別問題として村の安全のためにこの竜を駆除しなければならないという意見は、村の中ではだれも反対するものがいない当り前のような判断だった。
一応、もうすぐ冬が近いのだという認識もあるにはあった。【咬顎竜】お世辞にも寒さに強い生き物ではなく、冬が来れば勝手に死んでいくだろうということは村の男たちならだれもが予想できていた。
それでもレキハ村の男たちが【咬顎竜】の駆除に踏み切ったのは、ひとえにそうすることによって村が得られる利益の大きさゆえだ。いくら冬になり始めたこの時期とは言え、村の男達が森に入る用事は尽きないし、そのためには【咬顎竜の存在はどうしても邪魔になってくる。
それに何より、“食糧”が手に入る。
今年の村の食糧事情はそこまでひっ迫しているわけではないが、それでもいつもより“楽に”狩れそうな獲物がいる状態でそれを逃す意味はない。特に今回の【咬顎竜】は群れからはぐれてたったの一匹、しかも足跡から見てもあまり大きい方とは言えない個体だ。しかも地の利もあると考えればこれほど楽にかれる食料は滅多にいない。
と、そんな思惑の元、いくつかの組に分かれて標的の【咬顎竜】を探していた男たちは、しかし【咬顎竜】と遭遇する前に出会ってしまったのだ。
何もないところから水を、火を、光を、様々なものを自在に生み出す、まさに神と呼ぶべき存在に。
「……ちょっと待って、その話に入る前に一つ聞いていい……?」
「なによ? 今の話に何か気になるようなものがあったの?」
「いやあったっていうか、俺が食ってたあの肉、あの化け物の肉だったの?」
「そんなこと今はどうでもいいでしょう。そもそも、いつ食べた肉が何の肉かなんていちいち覚えていないわよ」
勝一郎の心配など気にも留めず、ランレイはあっさりとそう言い放つ。
ここ最近勝一郎が口にするものは、何の肉かいまいちわからない干し肉と、甘みのないクッキー、そして何かの葉っぱ(野菜なのだと信じたい)が主だった。やけに肉の比重が高いなとは思っていたが、あの手の化け物を狩って肉を得ているとすればあの量も多少は納得できる。もしかするとこの世界の人間は、勝一郎が考えているよりも生態として肉食なのかもしれない。
「そんなことより、今は神様の話よ」
「いや、そうかもしれないけどさ。そもそもの話、その神様って本物なのか?」
「そう、それよ!! 今問題なのはそこなのよ!!」
床に胡坐をかき、頬をかきながら困惑する勝一郎に対し、正面で正座していたランレイがそう言って詰め寄ってくる。
ランレイは何となく視線を合わせられずにいた勝一郎が自分の方に注目したのを見ると、改めて居住まいを正し、腕組みをして考え込みながら話し始めた。
「なんていうかその神様、それらしくないのよ。見つけた男たちの何人かが、彼は神様に違いないって言ってるんだけど、ほかの人たちもいまいち判断に困っているみたいだし」
「それらしくないってのはどういう部分だ?」
「なんていうか、態度がね。酷く困惑してるみたいで、確かにすごい力があるのはわかったんだけど、そもそもすごい力を持っているやつっていうなら……」
そう言うとランレイは、落としていた視線を再びあげて勝一郎にジッと焦点を合わせる。たったそれだけの動作でも、勝一郎には彼女が言わんとしていることが何となくわかった。
「……そっか。考えてみれば俺の扉の力も確かに神がかった力だもんな」
「今だから正直に言うけど、実は私もあんたのこの力について知った後、もしかして私は神様に出会ったんじゃないかって思ったの。……まあ、あんたの様子とか話とかで、そうじゃないだろうってのは何となくわかったけど」
言葉の中にわずかながらも棘を仕込みながら、ランレイはそんな自身の心情を勝一郎に吐露してくる。
確かに、出会った直後の勝一郎の態度など見ていたら、とても神様とは思えないだろう。何しろ正気に返って振り返ってみれば自分でも目を覆いたくなるような言動の数々だ。思い出しただけで今すぐにでも地面に扉を作って閉じこもってしまいたくなる。
もっともそんなこと、今目の前にいる少女が許す訳もないが。
「……つまりあれか? お前は要するに、その神様ってのが俺と同じように異世界から来た人間で、その神様の使う力ってのが俺の扉の力と同じように、こっちに来てから何かのきっかけで手に入れた力なんじゃないかって疑ってんのか?」
「相変わらず突飛な発想への理解だけは早くて助かるわね。要するにそういうことよ。
それで、ここからが本題なんだけど」
「本題?」
「ええ。あなたにその神様が本物かどうか見破って欲しいのよ」
「ハァッ!?」
部屋の外の話が思わぬ形で自分に関わってきたことに、勝一郎が驚きの声を上げる。それに対するランレイは何を驚いているのだと言わんばかりの不服そうな表情だ。
「何を驚いているのよ。もしもその神様があんたと同じ境遇の人間なら、同郷のあんたが見れば一発で分かるでしょう」
「いや、それはそうかもしれないけど、そもそもの話、俺って迂闊に村ん中を歩き回れない人間じゃないか」
「それについては問題ないわ」
勝一郎のささやかな抵抗に、ランレイは立ち上がってこの部屋唯一の出入り口である扉を指さして胸を張る。勝一郎がつられて扉を見て、それによってランレイの言わんとすることを何となくだが理解した。
「あの扉、一応穴から外の様子が見えるんでしょ。だったら私がこの外套を着て、あんたが部屋からそいつの様子を覗けばいいわ」
もちろんそういう訳にはいかなかった。
まあ、これに関してはランレイも窺い知らぬことではあったので、作戦に欠陥があったとしても彼女を責めるのは筋違いという物なのだが、そもそもの話このマントに勝一郎が作った玄関扉では外を見るのにあまり向いていなかったのである。
確かに、彼女の言う通り扉には外を除くためののぞき穴が付いている。
ただそれは、あくまで扉の外に立つ人間の顔を見るための物であって、扉から離れた場所にいる人間を見るためのものではない。もし部屋の中から外を覗こうと思うなら、まず扉のつくり自体にそれなりの準備が必要になってくる。
「……よし、とりあえず外は見えるな」
窓から外の様子を覗き、それなりの準備として新たに作り上げた部屋の中で、勝一郎は満足そうに息を吐いた。
夜が明けるのを待って、勝一郎が外を覗くための準備として新たに行ったのは、まず部屋の外から予備のマントを室内へと持ち込み、そのマントに外を覗ける扉を備えた新しい部屋を用意するというものだった。
これまでの経験上、扉のデザインや形、さらには大きさが、ある程度勝一郎の思う通りの形で作ることができるというのは証明されていたため、“そういう扉”を作ることができるという点に関しては勝一郎もまるで疑いを持っていなかった。
新たなマントを用意して、そこに部屋を作ることに関してはランレイもわずかに難色を示したが、今まで使っていたマントは外側を完全に今までの部屋の扉に占拠されている。後になって思えばその扉の上に新たな扉を作るということもできたかもしれないが、その時の勝一郎は新しくマントを調達して、そこにのぞき見用の部屋を作る方法を採用していた。
こうして、新たな潜入マントがこの世界に誕生する。
作る扉の形に関しては勝一郎の中にいくつか候補があったものの、一番イメージしやすいという理由で、扉の上部分が廊下の見えるガラスでできている高校の教室扉を採用することにした。閉まっているときには外から見えないという扉の力の特性を考えれば、全面ガラス張りの商店やビルなどの出入り口扉を使ってもよかったのだが、そこはまあ、気分の問題である。
ただ、作ってみてから一つ気づいたこともあった。
「あれ? よく考えたら教室扉って二枚一組じゃなかったっけ?」
目の前になぜか“一枚だけで”存在している教室扉を眺めながら、勝一郎はそういって首をかしげる。
作るときにはあまり意識していなかったが、普通教室の扉というやつは二枚の扉が互い違いになるように作られているものである。ところが目の前にあるこの扉はただの一枚だけで存在し、横には純白の壁があるのみだ。どうやらこの扉のデザインは、記憶している常識よりも勝一郎のイメージの方に引きずられる傾向にあるらしい。
「ねぇ、準備できたの? 準備できたならそろそろ行くけど」
「ん、ああ。そうしてくれ」
ランレイの声に扉をわずかにあけてそう応じると、扉を閉めた直後にランレイがマントを拾い上げたのか、窓の外の景色が急激に動き出す。
扉越しに外を見ているとは思えない、外の景色の動きとまるで連動しない室内の静けさ。やがてランレイがマントを着込んで準備を終えると、すぐさま外にあるマント部屋の出口に向けて窓の景色が近づいていく。
「っと、そういや扉はこっちが開けなくちゃいけないのか」
扉を開けて隙間から手を伸ばし、目前に迫る扉のドアノブをひねる。部屋の上からランレイの『結構不気味な光景ね』というぼやきが聞こえてきたが、だからと言っていちいち勝一郎が外に出ていくわけにもいかない。わずかな隙間を開けたところで再び腕をひっこめ、扉を閉めると、ランレイがゆっくり扉を開いて扉の外へと顔を出した。
窓の外に初めて見る、この村の建物の様子が垣間見れる。
(……思ってたよりもしっかりした作りの建物だな)
しいて言うならログハウスに近いだろうか。考えてみればずっと部屋の中にこもりきりだった勝一郎はじっくりと村の様子を見るのも初めての経験だ。
(考えてみれば俺って、この世界のことも村のことも結局よくわかってないんだよな)
ランレイからいろいろと話を聞いてはいるものの、言ってしまえば勝一郎の知識は彼女から聞いたものだけだ。しかも彼女から聞ける知識はあの森とこの村に関することがほとんどで、この世界については多少の推測ができても、ここがどんな国のどういった位置にあるのかもよくわかっていないのだ。
(まあ、村どころか部屋からも出てない俺には何も言えないか……)
「ねぇ、聞こえてる?」
勝一郎が一人自嘲していると、外でランレイがこちらに声をかけているのが聞こえてくる。慌てて外の様子を探り、扉を開いて『なんだ?』と返事を返すと、ランレイは要件の代わりに何やら布を部屋の中へと突っ込んできた。
どうやら先ほどまで勝一郎が部屋を作って潜んでいたあのマントらしい。開いてみるとその表面に勝一郎にしか見えない扉が見て取れる。
「預かってて、一応」
「いいけど、何の意味があるんだ?」
「とくにある訳じゃないわ。しいて言うならあんたって存在の手がかりをほったらかしておきたくないのよ」
「……さいですか」
差し出されたマントを受け取りながら、勝一郎はランレイのそっけない態度にこっそりと嘆息する。
とはいえ、勝一郎自身はその態度を不満に思っているわけではない。そもそも勝一郎がランレイのそうした態度に気づいたのはつい二日前で、気づくまでの勝一郎は少女の態度になどまったく配慮していなかった。
そして、気づいてしまった後はその理由にも察しが付いていた。
おそらくランレイは、勝一郎を信頼しても、そして頼ってもいないのだろう。一応勝一郎の持つ扉の力については、彼女も一定の価値を見出しているようだが、それは言ってしまえば『扉の力』の価値を評価しているだけであって、それを持つ勝一郎に対しては、彼女の評価は恐らく低い。
勝一郎も、それを不当な評価だとは思わない。
少し前の、それこそ最高に思い上がっていた勝一郎だったならば、ランレイの態度に気づけばそれを不満にも思っていただろう。
だが自分の身の丈を知り、身の程を思い知った今の勝一郎には、むしろ身の丈に合わない不相応な評価を与えられていないだけましだと思えた。
自分の負け犬根性を自覚してしまった今、その本性からかけ離れた評価など恐らく苦痛でしかありえないだろう。
だが、と、だからこそ勝一郎は思ってしまう。だとしたら。その神様とやらになっているその人物は、いったいどういう気分なのだろうか、と。
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