4:Out Door

 部屋を出て村へと向かうには、やはりそれなりに準備が必要だった。

 時刻まではわからないが、どうやらランレイは夜中に村を抜け出してこちらに来たらしく、部屋の外は完全な暗闇だ。都会育ちではない物の、夜でも普通に明りのある日本育ちの勝一郎にとってはその暗闇はなかなかに空恐ろしいものがある。

 ただ、明かり自体はとりあえず何とかなった。勝一郎は元から携帯電話を持ってきていたし、意外なことにこれだけ暗くともわずかな明かりで意外に足元は識別できる。ランレイの方も夜こうして抜け出すのには慣れているらしく、夜道に関しては問題なく進めるとのことだった。

 ランレイがマントのような防寒具を着込むのを待ち、勝一郎自身も脱いでいた学校のダッフルコートを着なおして外に出る。ただ予想外だったのは、勝一郎が部屋を出て、さらに岩山に作られた小屋の中から出ようとした際にランレイに呼び止められたということだ。


「ちょっと待ちなさい。あんたまさかそのまま外に出る気?」


「え? そのつもりだけど、なんで?」


「……はぁ、あんたの“世界”っていったいどんなところだったのよ。丸腰で森をうろつこうなんて正気なの? そうね……、これ、持っていきなさい」


 そういってランレイは部屋の中をうろつくと、棚から一つの長い包みを掴んで棒立ちになる勝一郎へと投げつける。

 勝一郎があわててそれを受け止め、表面を包む布をはがしてみると、それは勝一郎が実験用に部屋に持ち込んだのより若干きれいな一本の槍だった。


「いくら冬とはいっても森を歩くのよ。なにが出てもいいようにそれくらい持っていきなさい。ここは今はあまり使われてないところだから、一番状態がいいのは多分それだと思うから」


「な、何が出てもって……」


猛獣でも出るのだろうか。それとも異世界のお約束でモンスターとか?

 そんな思考が頭をよぎり、さすがの勝一郎も少し背筋に寒気を覚える。

 だがそんな勝一郎の小さな肝っ玉を、ランレイは待ってくれる気がないようだった。


「さあ、さっさと村に向かうわよ。グズグズしてて夜が明けたら、さすがにあんたみたいなのを村に入れられないわ」


「えっ、ちょっ、待ってくれ」


 辛辣に言うだけ言ってどんどん歩き出すランレイの後ろ姿に、勝一郎はあわてて槍を抱え、肩掛けのカバンを担ぎなおして後を追う。

 頭を先ほどまでよぎっていた不安は、とりあえず深く考えずに放置することにした。

 何しろ目の前の少女はここを頻繁に訪れている節さえあるのだ。普通に歩く分には特に問題なく行き来ができるのだろう。

 そして何より、今の勝一郎には『隠し扉』というトクベツは力がある。


(まあ、なんとかなるだろう。いざとなれば部屋を作ってその中に立てこもればいいし……)


 鋭い槍にも臆することなく、何の警戒心も抱くことなくそう考え、勝一郎は何の覚悟もなく少女の後を追っていく。

 自分がことを甘く考えていることなど、毛ほども気づくことがないままに。







 森に入ってからのランレイは、ひたすらに無言だった。

 しゃべったのは出発する直前に勝一郎が携帯電話の明かりを示した時の『あんた便利なもの持ってんのね』という一言が最後。そのあとはひたすら無言で勝一郎の先を歩き、先にあるという村を目指し続ける。

 正直勝一郎としては気まずいことこの上ない。歩きにくい足場についに杖代わりにし始めた槍を握りしめ、とうとう勝一郎はランレイに話しかける決断を下した。


「な、なあ――」


「なに?」


 声に瞬時に反応してくるランレイに、勝一郎は面食らい、同時に気づく。

 考えてみれば話しかけたはいいが、特に話題があったわけではない。


「なに? 要件は早めに話してほしいんだけど」


「ああ、いやその、あとどれくらいかかるのかなと思ってさ」


 言葉に詰まった末にどうにか思い付きで無難な答えを返し、勝一郎はどうにか目の前の少女との会話を発展させようとする。現実問題としてこう暗い中で無言でい続けるというのは気まずい以上に憂鬱だ。相手がいるのなら会話は弾んだ方がいい。


「なんだそんなこと? 大丈夫よ、もう半分は来たから」


「え、まだ半分? さっきからもう三十分、正確には三十四分も歩いてるぞ」


「サンジュウヨンプン? ああ、もしかしてあんたのところの時間のこと? っていうか三十四って随分細かく時間を計れるのね」


「いや、ケータイの時計を見てたから」


 言いながら、同時に勝一郎はこの少女との間にある時間認識の違いに気づく。どうやら彼女の時間感覚は相当にアバウトなものらしい。もしかすると時計という道具そのものがこの世界にはないのかもしれない。

 勝一郎がそんな認識を新たにしていると、当の少女は再び勝一郎に背を向け歩き始める。それに気づいた勝一郎も慌てた後を追い、同時にここで会話を途切れさせまいと、頭の中から次の話題を紡ぎだした。


「っていうかよく考えてみれば片道一時間って結構遠いんだな。ちょっとしたハイキング並じゃねぇか」


「その『はいきんぐ』ってのがいったい何なのかは知らないけど、遠くて当たり前でしょう。あれは『狩宿所』なんだもの、村の近くにあったって意味ないわ」


「そういや前にもその『狩宿所』って言葉使ってたな。いったいなんなんだそれ、あの岩山の部屋のことなんだよな?」


「……ハァ、あんたの世界って、ほんとどんな世界なのかしら。

 狩宿所っていうのはね、狩に出た時に拠点にできるように作られた場所よ。予備の武器や装備類も置いてあるし、たとえ手におえない魔獣に襲われても、あそこに入って閂をかければ、とりあえず中の人間は外の魔獣から身を守れるってわけ。一応人並みの知能があれば外からでも開けられるようになってるけど、そんな知恵のまわる魔獣はこの森にはいないしね」


「……ま、魔獣?」


 いきなり出てきた不穏な言葉に、勝一郎の頬が思わずひきつる。

 とはいえ、勝一郎もこの森に何かが出る可能性をまったく考えていなかったわけではないのだ。そもそも森に入る際に槍などという物騒なものを渡されている時点で、何かあるのかという不安くらいは抱いている。

 問題なのは、それが出てきた際どうにかできるような相手なのかということだ。


「えっと、ランレイさん? その魔獣っていったい何なのかな? あれかな、よくあるスライムとかそんな感じの奴?」


「よくあるって言われても、そもそもその『すらいむ』って何なのよ?」


「いや、スライムって言ったらあれだよ。なんかお決まりのプヨプヨした半液状っぽい生き物で……。あれ? あれって生き物だったっけ?」


「とにかく、魔獣は魔獣よ。神に仇なし、天へと追いやった化け物たち。私たちが刈りつくすべき獣のこと」


「へ、へぇ……」


 『神に仇名す……』というランレイの説明に、勝一郎は内心でその魔獣と呼ばれる存在を悪魔のような何かと予想する。勝一郎が何となく背に翼、頭に角を持ち、手には三又の槍を持った悪魔をイメージしていると、まったく予想外の言葉によってそのイメージは崩されることとなった。


「まあ、でも心配ないわ。この時期であれば大概の魔獣は南に移動するか、どこかで冬眠に入っているはずだから」


「は? 悪魔って冬眠するの?」


「悪魔? まあ、そう呼ばれてる魔獣もいるけど……。むしろ寒い時期に活動を活発化させる生き物なんてそうはいないでしょう」


 『さすがにそうでもなくちゃ私も森の中に入ろうなんて思わないわよ』と、この世界の常識に照らして考えるならもっともらしいことを言い、ランレイは勝一郎の先をずんずん進んでいく。

 勝一郎の中で先ほどまで存在していた現実味のない悪魔のイメージが、急速にまだ現実味のあるクマのそれへと変わっていった。

 もっとも、勝一郎とて本物のクマなど動物園でしか見たことがないのだが。


(まあ、冬眠してるっていうのなら出会うこともないだろう。たとえ出会ったとしてもそれこそ部屋を作って逃げ込めばいいし)


 危険な猛獣のいる可能性を知っても、勝一郎の抱く感覚はその程度だった。そもそも自分が、不運にも冬眠しているはずの魔獣などという存在と出会うなど起きるはずもないと高をくくっていた。


 だがそんな勝一郎の楽観的思考は、そのあとたった三分で粉々に砕け散る。


「止まって!!」


「んぉ!?」


 鋭い声とともに目の前に突き出されたランレイの腕に面食らい、勝一郎があわててその足を止めたのは魔獣についての説明を受けてからたったの三分後のことだった。景色の見えない暗闇の中のハイキングに、いい加減うんざりし始めたころの話である。


「どうしたんだよいったい」


「シッ!! あんたのその光、そこの地面照らせる?」


 声をできうる限り絞ったランレイの様子に流石にただならぬものを感じ、あわてて勝一郎は携帯電話の明かりをランレイの指さす方向へと向けなおす。

 だがビクビクしながら照らしたその場所には、地面の奇妙なへこみがあるくらいで特に変わったものは見当たらない。


「……ん? いや待てこのくぼみって……?」


 何もない。そう判断しかけた勝一郎の思考に、しかし微かながらも違和感のノイズが走る。その感覚を疑問に思い改めてその窪みを見直していると、隣に立つランレイによって携帯電話を掴まれ、その明かりを遮られた。


「あっ、ちょっ、何すんだよ」


「いいから明りを消して。すぐに部屋を作って。早く!!」


「ちょっ、いったいどうしたってんだよ」


 状況が分からず、焦った勝一郎は思わず携帯電話を掴むランレイの手を振り払う。

 とにかく先ほどの違和感を解消しようと携帯電話の明かりを取り戻した勝一郎は、ふと、振り払った拍子に照らされた場所に、何やら気になるものがあったように感じた。

 特に恐れることもなく、ほとんど直観に任せて振り向き、携帯電話の明かりで照らす。

 すると視線を上げた五メートルほど先の、見慣れない一つの目玉と目が合った。


「……ん?」


 最初にそれを見た時、勝一郎はその姿をどこかで見たなという既視感に見舞われた。とはいえ、それをいつ見たのかを思い出したのはもっとずっと後のことだ。ただの一目で、小学生のころに遠足で言った博物館の模型のことなど思い出せるわけもない。


 そこにいたのは、ただただ大きな爬虫類。


 体高にしておよそ八メートル。全身にびっしりと生えた羽毛に身を包み、発達した後ろ足で巨体を支える巨大な生物が、照らす光の先でじっとこちらを見つめている。


「……あ、……あ――」


 ティラノサウルス。そんな生き物の絵を図鑑で見たことがある。恐竜という古代生物の中でも最も有名な太古の肉食生物。多少の違いはあるものの、目の前に存在するその生き物はティラノサウルスのイメージにピッタリだった。

 同時に、勝一郎は足りなく思える脳みそでいくつものことを理解する。先ほどの地面の窪みがいったい何によってつけられたのかも、ランレイの言っていた魔獣の正体が何であったのかも、そして何より、先ほどまでの自身の危機感の圧倒的不足にも。

 考えてみれば馬鹿にもほどがある。たとえこれがもっと常識的なクマやオオカミの類であったとしても、そういった猛獣に遭ったこともない勝一郎にとっては決してなめてかかっていい相手ではなかったはずなのだ。


「……す、すいません……。調子、こいてました……」


 なぜか謝罪の言葉が口から洩れた。それくらいしかできることが思いつかなかった。

 目をそらすことを許されている気がしない。その体を動かすことを許されている気がしない。圧倒的状の生物に見咎められ、謝る以外の選択肢を選ぶこと以外に勝一郎には何も思いつくことができなかった。


「ごめんなさい。ほんと、ごめんな――」


「――ショウイチロウ!!」


 言いかけたその言葉が背後から叩きつけられる声に遮られ、それと同時に逸らせない視線の先でその生き物が動き出す。

 迫る巨体が五メートルほどあった距離という名の壁を一瞬で蹂躙し、横倒しにされたその顎がその中に並ぶ牙を晒し、ギロチンと化して勝一郎へと迫る。

 勝一郎の体は全く反応しない。

 それどころか目の前まで迫る脅威に対して全く理解もできぬまま、自身が噛み砕かれる未来をただ茫然と待っている。


「――の、馬鹿!!」


 噛み砕かれる寸前、背後からの怒声とともに勝一郎の体が背後へと引っ張られる。襟首を掴まれてあらん限りの力で引き倒され、その直後、倒れる勝一郎の動きについていけなかった肩掛けの鞄が、勝一郎の胸板の数センチ先で巨大な牙によって滅茶苦茶に噛み潰された。


「うぁ、あぁ――」


「荷物を放して!!」


 悲鳴を上げる暇さえなく、勝一郎の鞄が目前の巨大な牙によって引っ張られる。

 金縛りにあったように動けない勝一郎が、それでも鞄を手放すことができたのは、単なる運の問題だった。

 肩にかかっていたカバンが勝一郎から抜けて、持ちあがりかけた体が背後の地面へと転げ落ちる。身代わりとなった鞄が牙によって宙へと投げ出され、その直後には巨竜の口内へと投げ込まれる。


「あ、あ……」


 使い慣れた手荷物が辿る運命を目の当たりにし、勝一郎の体内にようやく絶大な恐怖が駆け巡る。なにしろ、もしも鞄の肩掛けベルトが抜けずに、あるいは抜けるのが遅れていたならば、勝一郎の五体はあの鞄とまったく同じ運命をたどっていたのだ。


「む、無理だ……!! こんなの、無理だ……!!」


 さっきまでの自分がどれだけ愚かだったか、危機に陥った今になってようやくわかる。

ちょっと超能力じみた力を手に入れたくらいで何をいい気になっていたのか。

そもそも勝一郎の手にした扉を開く力はこんな化け物に勝てる能力ではないのだ。せいぜい部屋に逃げ込んで隠れるのが関の山で、恐竜はおろか野犬に勝てるかどうかも疑わしい。

 頭を抱えて蹲りたいという衝動が、勝一郎の中でどんどん肥え太って大きくなる。目の前の、自身の命を奪う絶対的な脅威から目をそらしたい、そんな欲求にしかし、体は全く動いてくれない。弱いということはそれすら許されない罪なのだと教え込まれるように、ただただ目の前の怪物が自分の荷物を租借し続けるのを見ていることしかできない。

 だが絶望を見るその視線は、横から襲う強烈な衝撃によって無理やり別の場所へと逸らされた。


「何を呆けてるのっ!!」


 続けて胸倉をつかまれ、勝一郎はようやく自身がランレイに頬を張られたことを理解する。同時にだんだんと自身の感覚として襲ってきた頬の痛みが、ようやく勝一郎を現実へと引き戻し始めた。


「早く部屋を作って!! 逃げ込むわよ早く!!」


「あ、ああっ……!!」


 無理やり立たされながらそう言われ、ようやく自身がするべきことに思いが行き着き、勝一郎はあわてて周囲へと視線を向ける。


(面……!! どっかドアを作れる面はないか……!!)


 周囲のデコボコとした地形を恨む余裕すらなく、勝一郎はパニックの抜けきらない思考で周囲の風景を急いで見渡す。勝一郎たちに逃げるだけの余裕があるとしたら、目の前の恐竜が食いついた鞄に意識を向けている今しかない。


(あった、あの木!!)


 目を付けたのは、少し先にある太い大樹だった。幹の部分はそれなり太さがあり、人が通れる扉を作るだけの面がある。


「走って!!」


 勝一郎が目標を定めたのを感じ取ったのだろう。ランレイに再び叱咤されて、あわてて勝一郎は見つけた樹へと走り出す。部屋を作る必要上、樹へは勝一郎が先につかなければならない。ランレイだけが先についても全くもって意味がないのだ。

 だが走り出したその瞬間、後ろから何かが地面に吐き出されるような、少々の湿り気のある音が耳に届いた。


「振り返らずに走って!!」


 思わず振り返りそうになった体が背後からの声に押しとどめられ、勝一郎は言われるがままに無心に樹に向かって疾走する。

 実際、ここでたとえ振り返っていたとしても、音の正体が鞄を食べ物ではないと判断した恐竜が、それを口の中から吐き出した音だと気づくのには数秒以上を要しただろう。そしてそれだけあれば、このティラノサウルスに似た恐竜は目の前の二人の矮小な人間をその牙によって噛み砕いてしまう。この状況で振り返るなど、ほとんど自殺行為でしかない。


「――、ひ、『開けぇ!!』」


 樹の幹へとたどり着き、気を流した右手で勢いよくその表面をたたくと、手に刻まれた烙印もどきは勝一郎の悲鳴にこたえるようにすぐさまその面に一つの扉を作り出す。

 この状況で勝一郎が烙印の力をうまく使えたことも幸運なら、現れた扉が勝一郎が開けようとする前に勢いよく内側に向かって開いたのも幸運だった。どうやらこの扉、触れていれば勝一郎の意思に応じて勝手に開く機能もあるらしい。


「飛び込んで!!」


 言葉とは裏腹に、部屋へと飛び込むその前に体に強烈な衝撃が襲い掛かり、勝一郎は背後からタックルしてきたランレイとともに勢いよく部屋の中へと転がり込む。

 だがそれがなければ間違いなく命はなかっただろう。なぜなら部屋に飛び込んだ次の瞬間、二人の後を追うように恐竜の牙もまた部屋の中へと入りこんできたのだから。


「う、うああああああっ!!」


「奥に来るの早く!!」


 部屋の中へと追ってきた恐竜の牙がつま先をかすめるのを感じながら、勝一郎はランレイに引っ張られて何とか部屋の奥へと這いずって逃れる。

 作り上げた部屋は、ちょうど自宅にある勝一郎の自室と同じくらいの大きさだった。

 大きさにして大体六畳ほど。普段広いとまでは感じないものの、逆に狭いと感じたこともないその部屋は、しかし今だけは恐ろしく狭く見えた。

 何しろその部屋の中にいま、勢いよくその牙を鳴らしながら、巨竜の頭が何度も侵入を試みているのだから。


「ひぃ……、ひぃぃ……」


 情けない声が漏れるのにも構わず、勝一郎は部屋の壁まで必死に引き下がって何とか目の前の巨竜から遠ざかろうと努力する。

 この巨大な生物が入るには、この部屋の扉はあまりにも小さい。それ自体は今の勝一郎にも何とか理解はできている。実際今もこの恐竜は部屋に入ろうと恐ろしいうなり声をあげてもがいているが、胴体が引っ掛かってこれ以上部屋の中に侵入できずにいるのだ。

だが問題なのはこの部屋がちゃんと壊れずにこの巨竜の侵入を阻み続けられるかということだ。昨日から先ほどまでにかけて様々な実験を行い、部屋の内装や扉、そしてその枠などはどう頑張っても傷つけられないということはわかっているが、それでも実験したのは非力な人間の力での話だ。断じてこんな化け物の力を想定していたわけではない。

 だが、そんな勝一郎の恐れを、さらに上の恐怖が吹き飛ばす。


「槍を使って、追い出すわよ。早く!!」


「は、はぁっ!? 槍ぃ!?」


 言われ、初めて勝一郎は気が付いた。先ほど出発する際に渡された物々しい槍を、いまだに勝一郎自身が後生大事に握りしめているという事実に。


「で、でも、追い出すって……」


 渡された時と同様、布のようなものでくるまれた槍を見つめて、勝一郎は余計に混乱する。否、本当はわかってはいるのだ。目の前の少女が、槍を持つ少年に何を求めているかなど。


「今ならあの【咬顎竜】は首以外動けないわ。目でもどこでも狙ってぶっ刺してやればいくらなんでも逃げていくはず」


「刺すって、俺が、あいつをか?」


 言われた言葉の意味を受け入れられず、勝一郎はどうにか立ち上がりながら目の前の刺せと言われた標的に恐怖に満ちた視線を向ける。

 いまだ続く、恐ろしい唸り声と牙による攻撃。少女に『咬顎竜』と呼ばれたティラノサウルスもどきは、今も執念深く勝一郎たちを腹に収めようとあがいている。たとえ反撃できないとわかっていても、たとえ追い出すためだといわれても、これに近づくなど勝一郎は一ミリたりともしたくなかった。


「……嫌だ、嫌だ嫌だ無理だぁっ!!」


「なっ、あんた何言ってんの!? あんた男でしょうが!!」


「無理だぁ!! 無理だ無理だ無理ぃぃぃぃぃいい!!」


「ああっ!! もういい!!」


 駄々をこねるように壁に張り付き泣きわめく勝一郎に見切りをつけ、ランレイはその手に握られたままになっている槍を力ずくでひったくる。

 森に入っているというのに包みすら説いていない勝一郎に呆れと憤慨を覚えながらもすぐさま包みを解き、どうにか槍が使えるようになったところで、


「……あ、ああ……。行った……。行っちまった……」


 諦めたのか、それとも危険を察知したのか、巨竜がその頭を扉から引き抜き、その巨体に見合わぬ静かな足音と共にどこかへと去っていく。

 生きた心地のしなかったあまりにも長い数分間から解放され、襲ってきた安心感から今度こそ勝一郎が腰を抜かしてへたり込む。


「……ハハ、アハハ……。助かった。助かった……」


 恥も外聞もなく笑いながら、勝一郎はどうにか今の自分に命があることを噛みしめる。他のなにもかもがどうでもいい。今の勝一郎には生き延びることができたということがとにかくうれしかった。


「……最低。最っ低……!!」


 笑う勝一郎の隣で、槍を構えた少女がそんな言葉を吐き捨てる。その声を最後に、甘い考えを砕かれた少年の乾いた笑いだけが、部屋の中でただ一つの声となっていた。

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