第9話 夏の終わりと月明かりの幻想

 最後の手がかりが失われ、俺の捜索範囲は無限に広がった。子どもたちがどこで遊んでいるかなど、分かったものではない。

 それらしい場所がないかと街道筋をうろうろ歩いていると、背後から俺を呼び止める声がした。

 振り向くと、梢がいた。

「見つかった?」

「辞書はまだ」

 俺は梢に背中を向けて歩き続けた。

 幹也は? と聞きながら、梢が追い縋ってくる。 

 神社で見たってさ、と答える俺は、梢の顔を見ている余裕などなかった。

 梢は、俺の前に回りこんで、器用に後ろ歩きをする。

「なら、行ってみればいいじゃない」

「秘密基地に持ってかれた」

 ふうん、と梢は立ち止まって考え始めた。俺はそのまま歩き続けたが、しばらくして、後ろに置いてきた梢に追い抜かれた。

「おい、どこ行くんだよ」

 梢は振り向きもせずに答えた。

「秘密基地!」

 そう叫んで、梢が俺を連れて行ったのは、もとの神社だった。

「ヌスビトハギ、覚えてる?」

 俺は、幹也の服から小さな草の実を楽しそうに剥ぎ取っていた沢宮さんの姿を思い出した。

「そういえば沢宮さんが……」

「そっちじゃない!」

 梢が俺を睨みつけた。何を怒ってるんだかさっぱり分からない。

「アタシと、ほら!」

 梢は拝殿の方向を指差した。かつて俺の秘密基地があった場所だが、それを梢が知るはずがない。

 俺と、梢と、この神社と、ヌスビトハギ。

「あ……」

 俺はようやく思い出した。

 裏山の丘で、ヌスビトハギの実を服にびっしりつけて梢と遊びまわった子どもの頃。

 幹也が同じ場所で秘密基地を作って遊んでいても不思議はない。

 俺と梢は、10年近く離れていた丘に、再び登った。

 だが、そこには大人たちがいた。高速道路の工事が始まっていたのだ。

 作業員たちは草むらを電動の円鋸で刈り払い、土台工事の準備を始めていた。

 幹也たちが秘密基地に入り込めたところを見ると、工事は午後からだったのだろう。

 俺たちは作業員に言われるままに、その場を離れた。

 とぼとぼと街道を帰りながら、俺は梢に言った。

「沢宮さん帰ったら、教えてくれよ。謝りに行く」

「そうね」


 家に帰った俺は、夕方になって梢から意外な連絡を受けた。

 沢宮さんは、俺たちが秘密基地を探している間に大槻家に戻っており、日本を発つため、そのまま行ってしまったのだという。

 俺に宜しくという伝言だけを残して、詳しいことは何も言わず、梢の携帯は切れた。

 その夜、俺はあまりに呆気ない別れに気が抜けたようになって、夜更けまで眠れずにいた。

 俺はたまらず、外へ出た。

 あの晩と同じ満月だった。俺はその下を、渓流に沿って歩きだした。

 足元の草むらで、虫たちが鳴いていた。夏が終わり、もう、秋が来ているのだと感じた。

 川から吹き上げる風は冷たかった。夕方から熱かった俺の頭の熱は、次第に引いていった。

 考えてみれば、何もかも出来すぎた話だった。

 沢宮さんとの出会い。朝の個人授業。何もかもがうまく行き過ぎたのだ。この上、夏の終わりに告白なんて、ムシが良すぎる。

 もう、何もかも忘れよう。辞書は返せなかったが、それでよかったのだ。格好悪くて会わす顔がないのだから、むしろ諦めがつく。

 いろいろ考えながら歩いていると、木々の間に大きな岩が見えてきた。あの岩だ。

 あの日、あの青白い幻を見た、あの淵である。

 沢宮さんと重なって仕方がなかったあの幻とも、もうお別れだ。もう縛られているわけにはいかない。

 俺は現実を見ようと、再び木の幹で身体を支えながら、渓流を覗き込んだ。

 岩の上には、何もなかった。誰もいなかった。当然である。同じ光景が、再び見られるわけがない。

 秋の冷たい月光が、荒々しい岩肌を明るく照らしていた。かつてそこをよじ登っていた、濡れた髪のからみつく裸身はもう、そこにはない。

 俺は淵を覗き込んだ。暗い色の水満々とたたえた淵の底は、夜見ると引きずり込まれそうなほど深く見える。

 なんだかぞくっとするものを感じて、俺はそこを離れたくなった。

 淵から目をそらして、家に向かって歩き出す。

 その時だった。

 視界の隅で、何かが光った。気のせいかとも思ったが、俺の肌は冷たい水飛沫を感じていた。

 目が醒めたような、それでいて夢の中にいるような不思議な心持ちで、俺は再び淵に目をやった。

 何もなかった。誰もいなかった。しかし、ほんの一瞬だったが、俺の目は淵の中にぼんやりと光るものを捉えていた。

 長い黒髪の女だった。その青白く輝く肢体は、たゆとう淵の水にゆらめきながら、底へ底へと沈んでいった……。

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