第6話 ラテン語講習の始まり
そんなわけで、俺が梢の家に行く用はなくなった。
当然、沢宮さんに会う機会もなくなったわけで、俺の心の整理も……つくわけがなかった。
寝ても醒めても、夢かうつつかも分からないあの女性の幻が目にちらつき、宿題もままならなかったのである。確かに、今まで宿題などは8月25日ぐらいになってからしかやらなか
った。しかし俺は沢宮さんに会ってから、真剣に勉強しようという気になっていたのである。梢なんぞが聞くと言い訳だと一蹴するかもしれないが……。
ところで、8月25日といえば世間一般にはまだ準備がいいように聞こえるが、この辺は寒冷地である。夏休みは、8月下旬に終わってしまう。2学期の三者懇談は目前だ。俺は将来についても考える時期に来ていることに目覚めされられてもいたのだった。
そんなときに、勉強が手につかないのはまずい。
俺は沢宮さんの言ったとおりにしようとして、朝早く起きては机に向かってはみたが、なんとなくボケッと教科書を開いては日が昇るのを待つというパターンを繰り返していた。
そんなある日のことだった。
いつものように朝早く起きて、机に向かってぼんやりと座っていると、目の前に置いた携帯電話がけたたましく鳴った。
両親はまだ寝ている。俺は慌てて携帯を取り、外へ出た。
日はまだ山の向こうだが、空は既に冷え冷えと青い。
鳴り続ける携帯を見ると、梢からだった。
俺が電話に出ると、梢はいきなり自分の用件を述べた。
「神社に来いよ。いいもの見せてやる」
言うなり、電話は切れた。
いいものってなんだ?
首を傾げないではいられなかったが、一つだけ間違いなく言えることがあった。
沢宮さんに会えるかもしれない……。
俺は急いで服を着替え、神社に急いだ。
神社の境内に着くと、まず梢の罵声が飛んだ。
「遅い!」
朝早いのに来てやったんだぞ、とぼやきながら辺りを見渡すと、沢宮さんは拝殿の縁側に腰掛けていた。
おはよう、の声に、俺はへどもどしながら、おはようございます、とうつむいて答えた。
「おい、こっち見ろ」
急かす梢に、へいへいとそっちを見ると、竹刀が飛んできた。慌てて受け止める。
「何だよ、急に」
「打ち込んでみな」
「え?」
俺の前で、梢は竹刀を構えていた。
「剣道なんて知らんぞ」
「いいから」
何がなんだか分からないが、とりあえず竹刀を振り下ろしてみた。
たちまちのうちに、パン、と跳ね上げられる。
「もっと速く、思いっきり!」
そんなこと言われたって、と思う。こっちは素人だ。オマケに相手は女の子である。まがりなりにも……。
「さっさとしないと、こっちから行くぞ」
ちょっと待て! 県ベスト8の実力者が、防具もつけない素人を竹刀で打つか普通!
だけど……。
梢がつい、と一歩出る。目の前に突きつけられた竹刀に、梢の姿が隠れる。
慌てて一歩下がると、竹刀を下げた梢がにやにや笑っている。
この女!
そこで沢宮さんの声がかかった。
「大丈夫よ! 打っても!」
それならと、俺は素人なりに思いっきり竹刀を振って踏み込んだ。
梢の姿が消える!
あれ、と思ったとき、俺の頭でパン、と高らかに竹刀が鳴った。
「痛え!」
「悪い!」
いつの間にか側面に回りこんでいた梢が、背伸びして俺の頭をなでなでしていた。よせよ、と手を払いのける。
「沢宮さんに習ったんだ、体捌き」
「執念深いな、今年負けておしまいなんだから諦めろよ」
「大学でも剣道やるもん」
大学か、と思ったとき、鳥居の方から幹也の声が聞こえた。
「下の淵で泳いできたんだぜ。ウナギ針の仕掛け見てきた」
この「下の淵」とは、立待橋の少し下流にある深い淵である。沢宮さんが縁側から降りて、小走りにやってきた。
「どれどれ?」
オトリ缶を開けて、自慢げに大きなウナギを見せる幹也に、沢宮さんは尋ねた。
「幹也君の家の近くにも淵があるよね」
うん、と答える幹也に、沢宮さんは畳みかけた。
「その淵と、下の淵、つながってるんだって?」
梢が割って入った。
「あ、私、その話、知ってます」
そんなことばっかり詳しいんだよな、とまぜっかえす俺の横腹を竹刀の柄で小突いて、梢は話しはじめた。
……上の淵があった。下の淵があった。二つの淵はつながっており、その間には竜宮がある。その竜宮には美しい姫がいる。
村の冠婚葬祭で大きな席を設けなければならなくなると、膳椀を揃えられない者は上の淵にある大きな岩の上に登り、竜宮の姫に祈った。
すると次の日の朝には、下の淵に必要な数の膳椀が浮かんでいる。
村人が使った膳椀を一つ残らずきれいに洗い、その日のうちに上の淵の岩に揃えて返すと、次の朝にはなくなっていたという。
ところが、村の長者に長男が生まれて、その宴会を開いた後、それが止んだ。
長者が膳椀を返さなかったにちがいないと、皆が噂しあった。
その長者の息子は、六つになっても立てなかった。ある日長者は、息子に、「米俵を二つ持てたらお前にやる」と言った。
すると息子は立ち上がって、蔵の中から米俵を六つも抱えて走り出した。
長者は喜んで後を追ったが、その足の速いこと、とても追いつけない。
道すがら大声を上げて村の者を呼び集め、皆で追いかけると、息子は山の洞穴へ消えた。
気味悪がって誰も踏み込めずにいると、中から、こんな声が聞こえてきたという。
「膳椀の代金は貰ったか?」
「おお、これで元だけは取ってきたわい」と……。
「これが、
長い話を真剣に聞いていた幹也が、おそるおそるオトリ缶のふたを閉めた。
沢宮さんが手を叩いて褒めた。
「それも、大槻先生から?」
はい、と答える梢から、沢宮さんは目をそらした。遠い空の彼方を見つめる。俺も同じ空を見つめた。夏の朝の空は、相変わらず青く冷え切っていた。
よし、と沢宮さんはつぶやく。俺は尋ねた。
「何が、ですか?」
「富山県の『元取山』系の話が、ここにも伝わっているってこと。ただし、竜宮とのつながりは独自で興味深いわ。この山も歩いてみようかな」
「なるほど」
俺が相槌を打つと、また梢が俺の横腹を小突いた。
「本当は分かってないだろ、勉強しろ」
「分かるさ。勉強もしてるよ」
「嘘つけ」
沢宮さんがくすっと笑った。
「心配してたのよ、梢さん」
してないしてない、と梢が必死で打ち消した。沢宮さんはその笑顔を俺に真っ直ぐ向けて言った。
「教えてあげてもいいわよ、英語」
え、と梢が声をあげた。
「梢さん、どうしたの?」
「いや、英語なら、また私が……ほら、沢宮さん、研究、朝から晩まで忙しいし」
「あら、この時間にみんなでここに来るなら」
夢のような申し出だったが、俺はそこで少し考えた。
確かに英語を教えてもらえるのは嬉しい。
だが……。
「じゃあ、アタシも……」
梢が口を開きかけた。
そうなのだ。
梢が割り込んできたら、沢宮さんは無視できないだろう。どの教科も梢は得意だから、何を教えてもらっても同じ結果になる。
何とか梢に邪魔されないで、沢宮さんと一対一で教えてもらえることはないか……。
そう考えたとき、俺の頭の中に、追試の問題と、梢の昔話に沢宮さんが付け加えたあの話が閃いた。
学生の教養といえば……。
「ラテン語できますか、沢宮さん」
咄嗟の思いつきだった。梢はきょとんとしている。
沢宮さんも驚いたようだったが、ええ、まあ、と言った。俺は間髪入れずに頼んだ。
「教えてください!」
俺は思いっきり頭を下げた。沢宮さんは戸惑いがちに、「ええ」とだけ答えた。
梢の深い溜息が聞こえたが、俺は全く気にしていなかった。
幹也が鳥居の方へ歩きだした。
「淵に返してくる、このウナギ」
遠くから、重機とトラックのエンジン音が微かに聞こえ始めた。
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