冴えない彼女と交わらないβルート
太陽の日差しが徐々にビルやマンションの谷間から出始めた頃、新聞配達の為にそのシャッターは開かれる。
その光景は何度見てもさながらコミケ開幕の瞬間のようで。
だからもちろん、走ってはいけないし、立ち止まってもいけない。配達先という名のサークルを周るのが俺たちの務め。
「よーしっ、じゃあおじさん、行ってきます」
カゴに束ねた新聞を突っ込んで、ペダルに足を下ろす。
「倫也くん、朝から精が出るね。今度は何のアニメにハマったんだい?」
俺は配達所の所長の言葉に向かって、笑顔と共にその〝運命の作品〟の名を告げる。
「ライトノベルなんですけど、『恋するメトロノーム』っていうんです」
※ ※ ※
坂を下る自転車の軋む音とともに自分の息遣いが鳴り響く早朝。
自分のオタクグッズ購入費に充てるための新聞配達。
それに加えて冬の番組最終回の録画視聴と感想ブログの更新……。年に四回だけリアルもフィクションも忙しくなるこのイベントは、肉体的に疲労は溜まるけれど、精神的には泣いたり笑ったり……あ、やっぱり疲れるわ。
この坂は通称・探偵坂。興信所の看板があるという単純な理由から名付けられたそれは名前とは裏腹に爽やかな風が桜の木を靡く。急勾配の坂は自転車には酷だが、配達先のルートを考慮するとこの探偵坂は外せない。
「でも、下ってからまた違う坂を登るのって効率的か?」
いつもの癖でどのように周るのが効率的なのか考えてみる。いつも気さくなあのおじさんの家、いつも待ってるおばあさんの家、そして外交官と仮面お嬢様の豪邸。
「こりゃ家でもう一回地図とにらめっこだな」
一度答えを保留にして、俺こと安芸倫也は再びペダルを回す。
「オタク活動のためなら坂道の一つや二つ……」
そこ、俺はクライマーじゃないからケイデンス上げれないから。
「おおおおおおおぉぉぉぉぉぉ~っ!」
大声を出して、坂を下り、交差点を左へ。配達先にどんどん朝刊を差していっては、最終目的地としているあの場所へ近づいてゆく。
路地を何本か入った先を左折すると、問題の〝もう一つの坂〟が見えてくる。その頂上には仮面お嬢様の豪邸が現れる。
「さて、もうひと踏ん張り」
ペダルに力を込めて坂道の頂上を目指す。その途中で何件かに朝刊を差すのも忘れない。
急勾配の坂を超えるとそこには澤村家がそびえ立つ。
その見るからにドラキュラが住んでるとか、屍鬼のボスが控えていそうな豪邸にはイギリス外交官であるレナード・スペンサーとその夫人である澤村小百合、そしてその二人の愛娘である澤村・スペンサー・英梨々が住んでいた。
その豪邸の、見るからに高級そうな格調高いポストに俺は朝刊を差しこむ。
そして、そのついでに豪邸の二階にある窓を見上げるが、そこにはカーテンが閉じられていた。
※ ※ ※
「よう、倫也。今年も一年よろしくな……って、また変なことやってんな? 今度は何だ? 春アニメの第1話レビューとか、冬アニメの総評か?」
クラスメートの上郷喜彦が話しかけてきたのは、進級式も終わり本格的に新学期の訪れを告げた午後三時半のことだった。窓からは春の光を届けてくれるかのような優しい風が吹いている。
ここは私立豊ヶ崎学園。都心からちょっと離れた場所に位置するけれど、電車ですぐに聖地に行ける場所にある新しめの学校。
決して学園異能アクションが始まる気配もなく、浮気ラブストーリーが繰り広げられるわけでもなく、かといって学生が企業の一員としてロケットを作っているわけでもないどこにでもあるような普遍的な学校だ。
「おう、喜彦。レビューは第1話放送後すぐに書いているし総評も放送後すぐにやってるのをお前は知ってるだろ」
「まぁ、それもそうだな。……じゃあ今お前が大学ノートに向かって書き綴ってるそれは何なんだ」
俺はそんな教室の窓際に配置された自分の席で、大学ノートに向かいあるものを書いていた。それは……。
「なになに……『恋するメトロノーム』に続く新作がどうなるのかの予想……?」
「俺が書いているものを口にするな! こっ恥ずかしくなるだろうが!」
ほら、何か真剣にやっていても、黒歴史を朗読されたかのような気持ちになるよね、こういうの……
「恥ずかしいなら家帰って書け!」
「いや、そうは言うけどな? もういても立ってもいられないんだよ! 考えてみろ、大好きな作家の新シリーズが5月号の見開き特集ページで発表されて、それが『小学○年生』に掲載された『ド○えもん』の予告並みに何も分からないんだぞ!? 『恋メト』に次ぐラブストーリーであること、それくらいしか分からないんだぞ!? どうすればいいんだよ、この高ぶる気持ちはよぉ!」
俺の高揚感をそのまま伝えるも喜彦はやれやれ、と言いたげな表情を向けてくる。
「結局、答えは作者のみぞ知るんだから、予想しても意味ないこと分かってるくせに」
「分かってる、分かってるんだけどな……」
喜彦の言葉は確かに理解できる。
俺は物語の本質を捉えてブヒってるだけの単なる萌豚だ。霞詩子のように天才でもないし、神でもない。シャッター前に行ってアニメ化で儲けて高額納税したいような欲望もないただの萌豚だ。
「でも、俺を突き動かす〝何か〟があるんだよ、この本には」
そうして俺は視線を大学ノートから隣に置いてあった『恋メト』全5巻に移す。
松原穂積先生のイラストによって鮮やかに、カラフルに表現された世界は俺をよりいっそう『恋メト』の世界に誘った。
「俺も図書室にお前が強引に入れたそれを読んだけど、確かに面白かったがな」
「だろ!? そうだろ!? 強引に、とか突っ込みたい部分はあるけど、これから『恋メト』を初めて読んだときの感動と衝撃が味わえるんだろ!? 羨ましいな、全く!」
図書室に俺は「将来の直木賞作家の作品だからあって当然だ」と言って『恋するメトロノーム』を推薦、俺の尽力の甲斐あって全巻が所収された。今では多数の生徒が借りる優良図書となっているらしい。
「本当に羨ましいよ、これからあの霞詩子ワールドに浸れるなんて……」
「倫也、お前の霞詩子信者っぷりはよく分かったから」
興奮を抑えられた俺は大学ノートと『恋メト』を鞄にしまう。
喜彦、お前絶対霞詩子ワールドに染めてやるから。覚悟しておけ。
「で、喜彦。元々何の要件だ? どうせ何か用事があって俺に話をしたんだろ?」
「あぁ、そうだった……なぁ倫也、お前、『琥珀色コンチェルト』持ってるよな?」
「『琥珀色コンチェルト』……だと?」
俺は少し冷や汗を掻きつつ、その作品名を反芻する。
喜彦、タイミングが悪かったな……『琥珀色』は今日、アイツに貸したからもう無いはずなんだ……。
「あぁ、ちょっとネットサーフィンしてたら傑作だって書いてあってな。ストーリーを読んでいたら面白そうだなぁと思ったから、お前なら持ってるだろうと」
「それでも俺は貸さないぞ? ちゃんと買ってメーカーや製作側に還元しろ。お前みたいに買わないでファンとか名乗る奴がいると、次回作への製作費が出ないから倒産したりするんだぞ!? 返してくれよ、俺はあの会社大好きなんだぞ!?」
あの作品とかあの作品の続編はもう出ることはなくなるんだぞ? 俺は好きだったんだからね、ホントに。いいから劇場作品、ちゃんと完成させてくれよ……?
「俺はお金がお前と違ってそんなに無いから頻繁に買えないんだよ、だから貸してくれ」
「いや、お前のプレイペース的に『琥珀色』一本くらい大丈夫だろ……ほら、『ホーム・ア○―ン2 幸せの向こう側へ』で三ヶ月くらい掛かったし」
「まぁそうだな……じゃあ今からアキバに行って探しに行こうぜ」
「あぁ……あ」
ノリで行くと答えてしまった俺の言動を悔やむ。この後はさっき中断していた霞詩子次回作の予想と、新番組の録画視聴をしなければならないのに……。
「あ、いたいた! 安芸くん、蓮見先生がまた安芸くんのこと探してたけど? 視聴覚室の機材で聞きたいことがあるって」
喜彦との話を中断して介入してきたのはクラスメートの女子だった。要件はまた、視聴覚室の機材の件。相手はやや美人教師として豊ヶ崎の男子生徒を魅了している蓮見佳代子女史だった。
「またか……教えてくれてサンキュな」
「うん。じゃあね」
「おう、じゃあな」
クラスメートの女子と共に喜彦が俺の元を去ろうとしていた。さっきまでアキバに一緒に行こうとか言ってたのに蓮見先生案件になった途端それですかそうですか。
「おい、ちゃんと付き合ってくれるよな?」
※ ※ ※ ※ ※
2年B組から視聴覚室へ向かうまでには渡り廊下を歩かなければならない。そこは冬にはすごく冷えるし、夏はすごく蒸すという生徒からは大不評の場所であるが春は心地良いスポットでもある。
そこを俺と逆方向から歩いてきた黒髪ストレートの先輩の姿を確認する。
相手も俺を一瞥してからその場を去ってゆく。
「霞ヶ丘先輩だ」
「……そうだな」
霞ヶ丘詩羽。
現役高校生にして『恋するメトロノーム』でデビューを果たしたライトノベル作家。全五巻で完結し、今は新シリーズ『純情ヘクトパスカル』を執筆中だ。
その端麗な容姿や、学校内での秀才とか「東の霞ヶ丘、西の澤村」みたいな評判からは想像が出来ないような毒舌が得意で、度々俺も攻撃されている。
とはいえ、霞詩子としての一面はこの校内でも知っているのはほんの一握りの人間だけだ。俺が知る限り、俺と、英梨々くらい。
すれ違いざまに俺のポケットに入れていたスマホが振動し、メールの受信を知らせてくる。
送信者はもちろん――さっきすれ違った人なわけで。
「喜彦、すまんちょっと先に行っててくれ」
「あ、あぁ。先に視聴覚室に行って蓮見先生と話してるぜ!」
嬉しそうに蓮見先生の下に喜彦が駆けてゆく。
喜彦、あぁ見えてあの人腐女子だからな? 機械使えないか弱い系美人教師の面を被ってるけど、そういう――俺たちと同じ人種だからな?
まぁ、それはさておき。
俺は視聴覚室と逆の方向へ向かう。そう、霞ヶ丘詩羽先輩の方向へ。
「詩羽先輩!」
俺の呼ぶ声に詩羽先輩は足を止める。黒く輝く長い髪が宙を靡き、その姿をこちらに見せる。
一見は才色兼備の美女で、さっきの進級式でも学校代表の座を生徒会長を差し置いて掴み取った。とはいえ、本人には責任感もへったくれもなく、眠たげな表情を浮かべながらシナリオ通りに棒読みで読んでいただけだけど。
「あら、倫理君じゃない。気が付かなかったわ」
「さっきこっちの方に向いたよね!? それに俺の名前は倫也だって!」
ほら、こうだ。開口一番放たれる言葉が俺の心を射抜く。
それは違うよ! と言いたいけれどそれを言う暇も与えず次の言葉が放たれる。
「で、何かしら。私だって忙しいことくらい貴方も知っているでしょう?」
うん、知っている……知っているんだけれど。それは凄く知っているんだけれども。
だって、霞詩子の新作を俺は心の底から待ちわびているのだから。
「はい……『アンデッドマガジン』の5月号、拝見しました。新シリーズ決まったようですね、おめでとうございます」
「ありがとう。なら、私が今すぐにでも帰宅して、キーボードを叩きたいことぐらいわかるわよね?」
「新シリーズも期待しています」
「あら、ありがとう」
それだけ言葉を交わして俺と詩羽先輩は別れる。
というより、これ以上話を続けることは出来ないのだ。
なぜなら、俺と詩羽先輩は昨年末に決定的なすれ違いをしているのだから……
「そうやって逃げるのね、倫也君」
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