16 《幕間》双子とワンコと寄り道少女

「いらっしゃい紅音ちゃん」

 夕方の桜木堂には、パンを求めてやってきた客がちらほらといた。

 この時間にパンを買うお客さんはそれを夕飯にするのだろうか。それとも食後のデザートに? はたまた明日の朝ごはん?

 パンを選んでいる年配の主婦を横目見つつ、紅音は「どうも」とカウンターにいる高臣に小さく頭を下げる。

 紅音はトレイとトングを持つと、早速メロンパンを乗せてレジへ持っていく。軽やかな手つきで袋にパンを入れる高臣の手元を見つつ、財布を取り出し会計をする段になって、はじめて問いを口にした。

「あの子……ふゆは?」

 店内に姿が見えない。職人でもないから厨房にいるとも思えない。店の入り口にも見当たらなかった。いま店には高臣ひとりがレジカウンターで業務を行っているだけのようだ。

「吉平と一緒に出かけてる」

「え、店長さんと? なんで?」

 出かけたということ自体おかしなことではない。しかし何故、吉平とふたりでなのかがよくわからない。『高臣とふたりで』というのなら、なんとなく納得できるような気もするが。

 一体あのふたりでどこへ行くっていうのよ。

 皆目見当がつかない。胸に靄がかかったようで、なんだか妙に心地が悪い。

「買い物に行ったんだ。今日は光汰朗も休みだし。それに俺より吉平の方が詳しいから」

 なにが『俺より吉平の方が詳しい』のかわからないが、紅音は「へえ」と頷いておいた。

 すぐにでも欲しいなにかがあったのだろうか。いま買わなければならないなにかは、一体なんなのだろう。

 まあ別に、あたしには関係ないけど。

 代金を支払い、そのまま立ち去ろうした紅音を高臣が呼びとめる。

「ふゆに用があったんじゃないのか?」

「……別に用ってほどのことじゃないけど」

「もうすぐ帰ってくると思う。奥で待っていればいい」

 そう言ってズボンのポケットから取り出したのは鍵だった。おそらくカウンター後ろにある休憩室の鍵だろうと推測する。紅音は躊躇ったが、高臣は気にした素振りも見せずに鍵を差し出してきた。

 アパートの大家の孫だから信用してくれているのかもしれない。顔見知りであるし、ここでは何度もパンを買っている。だが、それでも店の部外者だという事実は変わらない。高校生の小娘に易々と店の鍵を渡してしまうのはどうなんだろう、と渋面を作っていると、すぐ後ろで「お会計はまだかしら?」と客の声がかかった。

 高臣は紅音の手に無理やり鍵を渡して目配せすると、後ろに並んでいた中年女性の対応を始めてしまった。断るタイミングを完全に逸してしまい、紅音は唇を尖らせる。

 このひと意外と強引だ。待つなんて誰も言ってないじゃん。

 そう思ったが、今更鍵をほっぽり出して帰るのも躊躇われ、紅音は手のなかの真鍮の塊を握り直して店を出た。そのまま裏へと回り、休憩室の裏手にあたるドアへ鍵を差し込み扉を開く。

 休憩室にはやはり誰もいなかった。部屋の奥、紅音の反対側は上半分がガラス張りになっており、佇む高臣の後ろ姿が見える。

 パイプ椅子に腰をおろし、買ったばかりのメロンパンを取り出す。全部食べてしまうと夕飯が入らなくなるので「三分の一だけ」と心に決めてパンを齧る。

 意外と綺麗に片づけられている狭い部屋をぼうっと見回す。パンの匂いが満ちた休憩室は心地よく、寛ぐには丁度良かった。

 好きなひとに告白をしたのは昨日のことだ。結果は散々で落ち込んだ紅音だったが、ふゆに話を聞いてもらったことで、自分でも意外なほど気持ちは落ち着いていた。ふゆの正体が妖だと知ったときには驚いたが、胸を満たしていたのは恐怖や怯えといったものとは別の感情だった。

 追いかけてくるとは思わなかった。そしてあんなにも静かに、ただ黙って話を聞いてくれるとは思わなかった。

 気持ちを吐き出していなければ、きっといまも気落ちしたままでいたことだろう。

 妖だからというだけでなく、ふゆそのものが、紅音には目新しく映るのだった。

「ホント、変なやつよね」

 そろそろ食べるのを我慢しなければならないメロンパンを名残惜しく咀嚼していると、裏の扉が躊躇いなく開いた。姿をあらわしたのはふゆと吉平だった。

 紅音は慌ててメロンパンを袋に包んで鞄のなかに突っこんだ。別にやましいことでもなんでもないのに隠してしまった。昨日に引き続き、またしてもメロンパンを食べているのかと思われるのは、なんだか羞恥心を掻き立てられるような気がして我慢できなかったのだ。吉平など、目敏く見つけてはからかってきそうなので尚更だった。

 ふゆは紅音の姿を認めると、満面の笑みを浮かべた。

「紅音ちゃん! 来ていたのですね! 今日はどうしたのですか?」

「……ちょっと寄っただけ」

 ふらりと立ち寄ってしまったのは、もう一度あの温かな空気に触れたかったからかもしれない。

 けれどそんなことを馬鹿正直に言うのは悔しくて、紅音は結局いつものようにとり澄ます。

 ふゆの後ろからやってきた吉平が「ふうん」と、含みを持ったような口調と笑顔を浮かべる。なんだか忌々しい。

「それより、アンタたちこそどこ行ってたの?」

「そうです、紅音ちゃん見てください!」

 提げていた紙袋に手を入れるふゆを見て、紅音はもしや、と閃く。有名企業のロゴが印刷された紙袋から取り出されたのは思った通り、スマートフォンだった。角の丸い、真っ白なデザインのもので、画面もなかなかに大きく見やすそうなタイプである。

「高臣さんと吉平くんのおふたりから頂いてしまいました……!」

 にこにこと笑うふゆは、お気に入りの玩具を与えられた小さな子どもみたいに見える。

 なんだ携帯ショップに行っていたのか、とわかると少しだけ胸のモヤモヤが薄れた。

「昨日みたいなことがあったからね。携帯くらいは持っとかないとって、高臣がうるさくてさあ。まあ確かに、ないよりある方が便利だしね」

 そう言って、吉平は突然噴き出すように笑いだした。思い出し笑いでもしているのか、肩を震わす様子に紅音は目を眇める。

「なに?」

「いや、ふゆちゃんのスマホがさ……!」

 要領を得ない吉平は無視して、紅音はふゆの手のうちにあるスマホを覗き込む。ぎこちない手つきでタップするその画面に映っていたのは……。

「文字デカッ!」

 堪らず叫んでしまった。ふゆのスマホは、いわゆるシニア向けのスマートフォンだったのだ。

「ふゆちゃんの名前で契約するのは面倒が起こりそうだから、名義は俺なんだけどね。いまの若い子が好みそうなスマホいろいろあるのに、ふゆちゃんってばこれがいいの一点張りでさ。店員さんが本当にこれでいいんですか、って俺に訊くわけよ。でもふゆちゃんが」

「文字も大きいし、操作も簡単だと説明していただいたので、これが一番だと思ったのです。わたしはこういったものに疎いので、できるだけわかりやすいものがいいなと思いまして」

 確かにふゆは妖であるということも踏まえて、器械類などが得意であるようには見えない。

 だが、それにしても、である。

「もう俺、笑い堪えるの必死でさあ」

 言いつつ吉平はまだ肩を震わせている。携帯ショップで噴き出すのを我慢する吉平が容易に目に浮かぶ。紅音は呆れて溜息を吐くしかない。

 気づけば目の前のふゆが、スマホを握りしめて期待に満ちた瞳を向けていた。

「あの、紅音ちゃん。よろしければ番号を教えてくれませんか?」

「……あたしの?」

「はい。一番に紅音ちゃんの番号を登録したいと思いまして」

 無邪気なふゆを眺めていると、妖というものがどういうものなのか、わからなくなってくる。紅音はそういった類に詳しいわけでも、興味があるわけでもなかったが、少なからずふゆは、世間一般に言われる怖ろしい存在などではないということだけは理解できた。

 ふゆは妖のなかでも変わりものなのかもしれない。いやきっと、変わっている。

 あたしの番号を、一番最初に登録したいだなんて。あのふたりじゃなくて、このあたしの。

「――一回しか教えないから、間違わずにちゃんと入力しなさいよ。それから、あたしにも番号教えなさいよね」

「はい、もちろんです!」

 番号を登録するだけだというのに、ふゆは勢い込んでスマホを握りしめている。たどたどしく画面をタップする指先、太い眉毛を眉間に寄せる表情は真剣そのもので、なんだか面白くなって紅音は笑ってしまった。

 こんなことに一生懸命になるなんて、やっぱり変わっている。変なやつだ。

「ねえねえ紅音ちゃん、俺とも連絡先交換しようよ」

 スマホと格闘しているふゆの後ろから、吉平がひょいと紅音を覗き込む。思いがけない言葉に、紅音は「えっ」と驚き、手にもっていたスマホを落としそうになった。

「えー駄目?」

「いや、駄目じゃ、ないけど」

 なぜか言葉がつっかえる。おかしなことを言われているわけではないのに、急速に鼓動が早まった。

「んじゃ、高臣のアドレスも一緒に教えとくね」

「あ、うん」

 店長さんだけってわけじゃなかったのか。なんだ、焦って損した。いや、別に焦ってないけど。焦ってなんかないけど……!

 心のなかで自分に謎の言いわけをしていると、立ったまま壁に向かって手を動かしていた吉平から、小さな紙切れを手渡された。メモ用紙には電話番号とメールアドレスがふたつずつ記されている。

 あ、意外と字綺麗だな、と思う。走り書きされていても、文字が整っているのがわかる。

「それ渡しとくから、あとでメールからでも紅音ちゃんの番号教えてね。高臣にも言っとくからさ」

 そう言って、吉平は休憩室から早々と出ていく。高臣ひとりで店番をしているのだから、いつまでもここにいるわけにはいかないのだろう。

 紅音は紙切れをじっと見つめてから、失くさないように鞄の内ポケットに入れる。そのとき食べかけのメロンパンの包みが見えて、ふと紅音はふゆを見た。

「アンタは店に出なくていいの」

「そうでした! すまほに夢中になっていました!」

 慌てるふゆに呆れつつ、紅音は鍵を手渡す。いつまでもここにいては迷惑だろう。もうすぐ店は閉まるだろうが、いまはまだ商い中なのだ。

 なんとなく立ち寄っただけだったが、思いもよらない収穫があった。寄ってみて良かった、と胸には満たされるものがある。

「今度店に寄るときは連絡する。それまでにはちょっとでも使いこなせるようにしときなさいよ、それ」

「が、頑張ります」

 こくこくと頷くふゆを笑ってから、紅音は香ばしい匂いのする部屋をあとにする。

 扉を開くと冷たい冬の匂いと、橙と藍でグラデーションを作る夕空が紅音を出迎えた。昨日積もった雪は、もうほとんど溶けてなくなっている。

 澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込む。つん、と鼻が痛んだ。

 けれど確信する。明日もきっと――

「いい天気」

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