15 サンライズ

 寒いから一度店に戻りましょうと提案しても、紅音は首を縦に振らなかった。「ここでいい。寧ろここがいい」と言ってきかず、結局ふゆも紅音の隣に腰をおろした。

 ふゆは妖であるから、ある程度の寒さは耐えられるが、紅音は人間だ。いまもふゆにコートを貸してくれているし、いくら制服の上にカーディガンを着込んでいるからといっても、風邪を引かないとは限らない。

 紅音を窺うように横目見ると、はあ、と溜息を吐かれた。

「だから大丈夫だって言ってるでしょ。いまはまだ、温かいところへ行きたくない」

「紅音ちゃん……」

 紅音は公園の遊具をぼんやりと見つめている。ふゆは深く尋ねることを躊躇い、ただじっと座っていた。

 きっとなにかがあったのだ。そうでなければ、いくら紅音といえども、あんなに取り乱すことはしないはずだ。心を痛めてしまうようななにかが、紅音の身に降りかかったのだ。

「……最初はさ、別になんとも思ってなかったの。中学は別だし、席も離れてるし、あたしなんかよりずっと頭いいし。接点なんて同じクラスってだけで、特に会話もしたことなかった」

 静かに語りだした紅音の話に、ふゆは耳を傾ける。

「あるとき、家でクッキー作ってそれを学校に持っていって友達にあげてたら、それちょうだいって言われたの。腹減ってるから、ちょっとちょうだいって。あげたら、ありがとって言ってくれた。たったそれだけのことだったのに、なんでか気になって。気づいたら目で追うようになってた。それからも話をすることはほとんどなかったのに、気持ちはなくならなかった」

 寒風に吹かれた黒髪が、紅音の白い頬を隠す。

「パンを渡したのは、いつだったかパンが好きって言ってるのを聞いたから。昼食も大体パン食だったから、本当にパンが好きなんだって思って。誕生日が近づいてたことも知ってたから、だからあたし、思いきって手作りのパンを渡そうって思って。……でも、好きは好きでも、あたしの手作りは駄目だったのよ」

 紅音は膝に置いた両手を握りしめる。

「店長さんに言われたからってわけじゃないけど……渡すとき、勇気出して告白した。あたしにしては頑張って想いを伝えたと思う。パンも上手く焼けたし、ラッピングだって気合い入れた。素直な言葉で気持ち伝えた。そんで、確かにちゃんと受け取ってもらえた。ありがとうって、言ってくれた。嬉しかった。……けど、ごめんって言われた。気持ちには応えられないって。ああ、そうかって思った。このひとの目にあたしは映ってなかったんだって。悲しかったけど、しょうがないって思えた。好きなひとがあたしを好きになってくれるだなんてそんな軌跡、滅多に起こることじゃないってわかってたし」

 そこまで言って紅音は項垂れる。すう、と息を吸い込んで、ゆっくりと、吐くように言葉を重ねる。

「そのあと、友達と喋ってる彼の姿を発見したの。あたしには全く気づいてなかった。だから平気な顔をしていたんだと思う。あたしのあげたパンを、友達にあげてた。捨てられなかっただけそれはいい。……ショックだったのは、笑いながら『こんなの重すぎ』って言ってたことだった。耳を塞ぎたくなるようなことも言ってた。あたしはあのひとにとって、迷惑な存在でしかなかった」

 紅音の手にふゆは両手を重ねる。震えるような声が続く。

「陰であたしのことを嗤いものにしてた。恥ずかしくて、悔しくて……気づいたらあのひとのところへ出向いていって、頬っぺた思いきり引っ叩いてた。こんなひとを好きになったんだと思うと、あたしは一体なにを見てたんだって気になって、自分が馬鹿みたいだと思った。だけど、馬鹿だと思いながら、それでもあのひとを好きだという気持ちに嘘はなくて。だから余計に傷ついて……」

 ふゆの両手に落ちた滴がひんやりと広がっていく。

「ホント、苦しんでるのが馬鹿みたいよ」

 しばらく紅音は黙って俯いていた。ふゆも、紅音の手を黙って握っていた。

 雪の積もった公園には誰も来ず、吹き抜ける風がふゆと紅音を冷たく撫でる。

「……アンタに八つ当たりするつもりなんてなかった。アンタたちには協力してもらったから、渡した報告しなきゃと思って。それだけ言ってすぐに帰るつもりだったのに、思い出したら胸が苦しくなって、腹が立って……」

 紅音は人知れず悲しい気持ちを抱いて桜木堂までやって来たのだろう。律儀に報告までしにやってきた紅音は、それだけのためでなく、もしかしたら話を聞いてほしかったのかもしれない。気持ちを、吐露したかったのかもしれない。

「紅音ちゃんにとって辛い出来事だったでしょうに、わたしに話してくれてありがとうございます」

「ありがとうってなによ……なんで、笑うのよ」

 振り向いた紅音が、くしゃりと顔を歪めてふゆを見つめる。ふゆは再度紅音の手を握り締める。

「紅音ちゃんがわたしに打ち明けてくれたことが、嬉しいのです。すみません、紅音ちゃんはいまでも辛い思いでいるのに、わたしったら駄目ですね。それでも、こうやって傍で話を聞けたことが、とても嬉しいのです」

 そう言ったら、紅音は顔を背けて「アンタって本当に馬鹿だわ」と呟いた。



 そのまま帰宅するかと思ったが、紅音は桜木堂へ寄ると言った。以後は口を噤む紅音に深く問うことはせず、ふゆは紅音とふたりで雪道を歩く。打ち捨てていた服を帰路の途中で回収し、ひとの目を気にしながら素早く着替え終えたふゆは、借りたコートを紅音に返し、装いは元の通りになっていた。

 桜木堂へ戻ったのは陽もすっかり落ちた頃だった。街灯や家々の灯りがつくる光より、住宅街にあるどの光源より、桜木堂が宿す灯りにほっと安堵の息が漏れる。

 扉を開くとドアベルで気づいたらしい高臣が出迎えてくれた。眉間の皺がいつもより深い。ふゆは頭をさげようと身構えたが、それより先に、ふゆの一歩前に出た紅音が勢いよく低頭した。

「すみませんでした。この子が店を出ていったのは、あたしのせいです。怒るならあたしだけにして下さい」

 はっきりとした口調で告げる紅音にふゆは驚き、咄嗟に言葉が出てこなかった。紅音を見つめる高臣はふうと大きく息を吐き、「別に」と口を開く。

「怒ってない。……無事に帰ってきてよかった」

「ホントだよ。高臣さんだけじゃなくて俺も、吉平さんだって心配してたんだよ?」

 高臣の後ろからひょこっと顔を出したのは、アルバイト店員の光汰朗だった。店は既に閉店しているみたいだが、残って待っていたらしい。気立てのいい彼らしく、ふゆと紅音に優しく笑いかける。

「探しに行こうにも、吉平さんはふたりがどこに行ったかわからないって言うしさ。こんな寒いなか女の子ふたり行方不明にでもなったら大変だーって、もう少しで高臣さん探しに出るところだったんだよ」

 くすくすと笑う光汰朗に、高臣が「余計なことは言うな」とばかりに額を小突く。

「あの、本当にすみません」

 申し訳なさそうにする紅音の隣でふゆも頭をさげる。

 確かに怒ってはいないようだが、心配をかけてしまったことは申し訳なく思ってしまう。それはふゆだけでなく、きっと紅音も感じていることだろうと、頭を垂れる紅音を見て思う。

「こんなときに連絡手段がないのは、やっぱり不便だな」

 高臣がぽつりと呟けば、レジカウンター奥の扉が開く。姿をあらわした吉平がトレイを持って近づいた。

「お帰り、おふたりさん。丁度いま焼き上がったところだよ」

 吉平はいつもの飄々とした調子でふゆと紅音のまえにパンを差し出す。トレイのうえにはメロンパンが乗っていた。割れ目の入ったクッキー生地からはほくほくと湯気が立ち、甘い砂糖の香りを漂わせる。薄黄色のパンが目に眩しい。

 紅音は目を瞠り、メロンパンに釘付けになった。

「なんで……」

「あれ? 紅音ちゃんってメロンパンが好きなんじゃなかったっけ?」

「そう、だけど」

「じゃあ良かった。折角の焼きたてだから食べていってよ。お腹減ってるでしょ?」

 紅音はおずおずと手を伸ばし、メロンパンを掴むと吉平を見上げる。戸惑うような素振りを見せる紅音に、吉平は「ほら早く食べて」と促した。

 メロンパンを頬張る紅音はゆっくりと咀嚼する。

「出来はどうですかね?」

 尋ねる吉平に紅音はこくりと首肯する。

「美味しい……いままで食べたメロンパンのなかで一番、美味しい」

「――知ってる? メロンパンってさ、西の方じゃサンライズって呼ぶところもあるらしいよ」

 ふゆは首を傾げる。サンライズとはどういう意味なのだろう。

 光汰朗が「へえ、そうなんですか」と感心したように言う端で「英語で日の出、という意味だ」と、高臣が丁寧に教えてくれた。ふゆは思わず口にする。

「素敵です! これからの紅音ちゃんに、ぴったりのパンですね!」

 日の出、という意味をもつパン。これからの紅音の行く末を、明るく照らしてくれるかのようにふゆには感じられた。

 もちろん吉平は、紅音がメロンパンが好きだから作って待っていたのだろう。けれど、それ以上の意味を込めて作ったのではと考えてしまうのは、穿ちすぎだろうか。

「そんなに難しくないからさ。丸パンも上手に作れるようになったし、今度はメロンパン作りに挑戦してみたら?」

 トレイのうえのメロンパンを袋に詰めながら吉平は言う。紅音は未だ落ち着かない様子で、食べかけのメロンパンを持ったままふゆを見る。

「紅音ちゃん、今度一緒に作りませんか? また紅音ちゃんと一緒にパンを作りたいです」

 高臣や吉平、紅音と一緒に作ったパンは美味しかった。みんなで一緒に作るのは楽しかった。ふゆの勘違いでなければ、おそらく、紅音も同じように思っていたはずだ。

 けれど紅音はなにも言わない。沈黙する紅音に、ふゆは不安になって「駄目でしょうか」と怖々と尋ねた。

 無理やり誘うのも悪いし、気分が乗らないのなら、ここは諦めた方がいいのかもしれない。

 紅音を慮いながら残念に思っていると、紅音は視線を逸らして躊躇いがちに口を開いた。独り言にも近い呟きが、甘い匂いが満ちた店内にぽつりと落ちる。

「……アンタの面倒は見ないんだからね。あたしの邪魔はしないでよ」

「はい! もちろんです! また一緒に作りましょうね、紅音ちゃん!」

 うるさい、と言いつつメロンパンを齧る紅音が、照れくさそうにしているのを見てふゆは頬を緩める。

 メロンパン一個まるまる食べ終えた紅音は、改めてといった風情で姿勢を正す。そして吉平たちへ向かって「すみませんでした」と頭をさげた。数秒ののち真っ直ぐに前を向く。その顔はもう、憂いを帯びてはいなかった。

「それから、ありがとうございました」

 小さく微笑む紅音は、清らかに輝いてふゆの目に映った。



 外はすっかり暗くなっていたが、雲が去った夜空には輝く月が顔を出していた。帰り道が途中まで一緒の光汰朗が紅音を送っていくことになった。

 紅音は土産にと包んでもらったメロンパン入りの袋を手に提げる。全部は食べきれないからと、余った分は光汰朗が持って帰ることになった。光汰朗は「明日の食事代が浮いた」と喜んでいる。

 去り際に、扉のまえで振り返る紅音がふゆをじっと見つめる。

 なにか忘れ物でもしたのだろうか。と、辺りをきょろきょろと見回すふゆだったが、話し相手を変更するように紅音は視線を後方へ移す。

「あたし、この子のもうひとつの姿、見ちゃったから」

 ふゆの後ろで、絶句するような吐息が聞こえる。ああ、そうだったと思い出すふゆは、高臣と吉平をまともに見返すことができなかった。

「でも、誰にも言わない。……友達を売るようなことはしないから」

 そう言って紅音は桜木堂をあとにする。置いてけぼりにされた光汰朗は、いまの話にもついていけずに動揺していた。

「え、ふゆちゃんのもうひとつの姿ってなんですか? まさか見た目によらず腹黒とかそういう……?」

 そんなのショックだ、と頭を抱える光汰朗に、吉平がにこやかな笑顔で近寄り背中をぐいぐいと押し出す。

「はいはい、早く帰って下さーい。紅音ちゃん見えなくなっちゃうからー」

 渋々店を去る光汰朗を見送ってから、ふゆはふたりに深々と頭をさげた。

「すみません、紅音ちゃんに犬の姿を見せ、妖であることを告げました。でも、わたしはこれで良かったと思っています。だって、だって紅音ちゃんは――」

「友達、だもんな」

 ぽん、と頭のうえに置かれた高臣の手は、大きくて温かい。

 友達だと、言ってくれた。

 そしてふゆ自身も、紅音が大切な友達になった。

 それがこんなにも嬉しくて、胸が苦しい。

「紅音ちゃんだったら、まあ大丈夫でしょ。一度決めたことは、最後までちゃんと貫き通すタイプだと思うし」

「吉平の言う通りだと思う。彼女なら、ふゆを傷つけるようなまねはきっとしない」

 ふたりの言葉に、ふゆは何度も首肯する。

 吉平が作ったメロンパンを思い浮かべ、明日は晴れますようにと、願わずにはいられなかった。

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