14 駆ける

 雪かきスコップで道路に積もった雪を掘ると、ザクッザクッと小気味よい音が響く。大きなスコップを扱うのはなかなかに難しいが、店の入り口を雪で積もらせたままにはしておけない。体力のいる作業ではあったが、ふゆは通りで行きかうやひとや、静かな住宅街を眺めるのが好きなので、寒くてもそれほど苦に感じなかった。

 店内では高臣が店番を担当していて、ふゆと一緒に雪かきを行っているのは吉平だ。

 空を見上げれば曇天が広がっている。朝からちらちらと降っていた雪は昼過ぎには既に止み、いまでは刺すように冷たい風が一番の手ごわい敵となっていた。

 強い冷風が吹き、ふゆは身を震わせ、頭をすっぽりと覆うダッフルコートのフードを握りしめる。高臣から借りたそれはふゆには大きすぎたが、膝下まで隠れるのは丁度いい。

「うう、寒っ! ふゆちゃん、そろそろ店に戻ろう。このままだと凍え死んじゃうよー俺」

 吉平が喋ると、白い息が宙に舞う。

「そうですね、もう入口も大丈夫そうですし」

 踵を返そうとしたら、フードに遮られた視界の端に、見覚えのある足元が見えた。黒タイツにブーツという格好だが、短いプリーツスカートから覗くその足を見て、ふゆは顔をあげた。

「紅音ちゃん!」

 ふゆの声に吉平も紅音に目を向ける。紅音はこちらの視線を受けて戸惑う素振りを見せた。

 コートの下に見えるセーラー服と、学生鞄を持ったままの姿を見るに、学校からそのままここへ出向いたみたいだ。

 そういえば、とふゆは思い至る。今日は紅音の好きなひとの誕生日だった。

 紅音はパンを無事に渡し終えたのだろうか。もしかしたら、その報告をしに来たのかもしれない。

 ふゆはフードを払うと、紅音に駆け寄り笑顔を向けた。

「こんにちは紅音ちゃん。あの、今日はどうでしたか? パンは無事に手渡せましたか?」

 きっと眉間に皺を寄せながらも、はにかみながら頷いてくれるであろうと思っていた。良かった、おめでとうございます、と言えるものとばかり思っていた。

 けれどふゆの予想が当たっていたのは、眉間に寄る皺の一点のみだった。

 怒っているというより、悲しんでいるように見えた。紅音はなにかを耐えるように唇を噛み、手袋をした拳を握り締めている。猫の目ように綺麗な形をした瞳が、ふゆを捉え、歪む。

「渡したわよ、ちゃんと。手作りのやつ」

 紅音の様子に戸惑いつつも、ふゆは手作りパンを手渡せたことに喜んだ。

「そうでしたか。良かったですね、受け取ってもらえて」

「……良かった? 良かったのかな……良くなかったんじゃないかな、相手は」

「え?」

 呟くように話す紅音の表情にどきりとした。自虐的な発言と、自嘲するような薄ら笑いを浮かべる紅音に、身体が凍りつくのを感じる。

 なんでそんなことを言うのだろう。この間もあんなに一生懸命にパンを作っていたのに。好きなひとに手作りのパンを手渡すのだと、一途な想いを抱いていたはずなのに。

「あたしなんかがプレゼントだなんて、おかしかったのよ。元々そんなに親しかったわけじゃないし、話したこともほとんどなかったんだから。そりゃあ、親しくないひとから手作りのパンなんて渡されても、困るだけよね」

 あーあ、馬鹿みたい。そう言った紅音から目が離せない。

 胸が痛い。痛い。

 冷風に刺される頬より、かじかむ耳や指先より、どの部分よりも――心が痛い。

「そんなこと、言わないで下さい。馬鹿みたいなんて、そんなこと、ないです。紅音ちゃんは一生懸命だったじゃないですか。すごくすごく、努力していたじゃないですか。馬鹿みたいだなんて言わないで下さい」

 声が震えそうになる。寒いからだけではない。これは――

 紅音の、ふゆへと投げる視線が一瞬切なさを含んで見え、居ても立っても居られず、ふゆは紅音の腕に手を伸ばした。

 けれど掴んだと思う間もなく、勢いよく腕は離れ、掌は冷たい空気を無意味に掴んだだけだった。

「アンタになにがわかるの。あたしがあたしをどう評価しようと、アンタには関係ないじゃん」

「紅音ちゃん……!」

 もう一度追いすがるように右手を伸ばせば、思いがけなく飛んできた拒絶に、ふゆは身体を押されて足を滑らせた。

 ――あ、倒れる。

 衝撃を予想し、目をぎゅっと瞑るふゆだったが、背中に伝わったのは冷たい地面の感触ではなかった。振り仰げば、紅音をじっと見つめる吉平がそこにいた。

 ふゆが踵を地につけたことを確認すると、吉平は抱いていた肩から手を離し、おもむろに紅音のまえに一歩出る。

 いつもの吉平のはずだ。無造作に結った茶色の髪も、黒いコートのポケットに手を入れてゆったりと佇む後ろ姿も、いつもと同じだ。

 なのにどうしてだろう。

 吉平のコートの裾が、風に流れて乱暴に掻き乱れる。バタバタと耳につく派手な音が、まるでふゆの不安を煽り立てているように感じられる。空気が、冷たい。

「紅音ちゃんさ、パン作ったんでしょ。で、それを好きなひとにあげたんだよね。そのために俺にお願いまでして、レッスン受けてたんだもんね。ちゃんと当初の目的果たしてるじゃん。――なのに、なんでそんな顔してんの?」

 後ろにいてもわかる。吉平の声音はいつもと同じようでいて、違う。突然氷を首筋に当てられたみたいな。細いけれど鋭い針に刺されたみたいな。そんなひやりとする感覚を抱いてしまう。

 紅音は吉平から目を逸らせないでいるようだった。瞠る目と、奥歯を噛みしめるように歪む唇が、震えているように見える。

「なにがあったかは知んないけどさ。……八つ当たりしちゃうあたり、やっぱりまだまだガキだね紅音ちゃんも」

 言い訳も反論も飲み込むように顔をそむけ、紅音は踵を返してその場から駆けだした。雪の降った路に足を取られながら、それでも走る後ろ姿に、ふゆは胸を掻き毟られるような思いがした。

 遠ざかっていく背が、灰色に染まる街に滲む。このまま溶けて消えてしまうような気がして、堪らず雪道に足を踏み込んだ。

 数歩駆けたところで足を止め、気になって後ろを振り向く。吉平はうなじを掻きながら、いつもの調子でふゆを見ていた。

「高臣には言っとく」

 ひらひらと手を振って、スコップ片手に店へと引き返す吉平にふゆは「はい!」と叫ぶ。既に見えなくなった背中を探しに、ふゆは雪に染まった街を走りだした。



 躊躇わずに走れば何回も滑って転んでしまう。高臣に買ってもらったふわふわのムートンブーツはふゆのお気に入りの一足だったが、何度も足を取られ転んでしまえば、いまは邪魔になるだけだった。

 いっそブーツを脱いで裸足で走ろうか。

 そう思ったが、真冬の寒い街中を素足の少女が走っているというのは、やはりいまの時世、奇異に映るだろうと考える。常であれば、人間にどのように思われようとふゆは気にしないのだが、いまは高臣や吉平の世話になっている身である。桜木堂で働いているいま、店の不利益になるようなことは避けたいと思ってしまう。ふたりの荷物には、なりたくなかった。

「こうなったら……」

 辺りを見渡し、ひときわ狭い行き止まりの路地を見つける。ふゆひとりが入れるくらいの狭い通路である。誰も通りを歩いていないことを確認して、暗いその場に身を置いた。

 ぼわん。目の前が煙に包まれる。

 ふゆは路地から出ると、身軽になった身体で雪道を走る。手足を思いきり動かし、紅音の匂いを辿る。

 それほど遠くへは行っていない。きっと見つけられる。

 黒い子犬へと姿を変えたふゆは、全速力で紅音のもとへ駆ける。



 公営住宅が立ち並ぶ一角にその公園はあった。天気の悪い日暮れだからか、公園を利用するひとの姿は見えない。滑り台やブランコ、ジャングルジムには、まるで粉砂糖がまぶされたみたいに雪が積もっていた。

 見知った後ろ姿は、中央に設置されているベンチで頭を俯けていた。発見できた安堵に「ワン」と吠える。

 顔をあげた紅音がふゆの姿を見つけて、ふっと表情を和らげた。全速力で足元へ駆け寄ったふゆへ、紅音はそっと手を伸ばす。

「この寒いなか、ひとりで散歩してんの? 凍えて風邪引いちゃうよ」

 労わりの言葉は普段よりも素直で優しい声だったが、いつもより活気の少ない表情は、ふゆの判断を鈍らせるには充分だった。

 世話になる際に高臣に言われた「絶対に俺たち以外には変化を見せるな」という言葉を忘れたわけではなかった。けれど、いま寄り添っていたいのは『犬の姿のふゆ』ではなく、『ひとの姿のふゆ』だった。

 言葉を交わし、手を握り締め、笑顔を差し出すことのできる、ひとの姿で。紅音が『ふゆなのだと認識したうえで』傍にいたいと思う。

 躊躇いはなかった。ふゆはひとの姿へ変化した。

 煙が消えたあとに見たのは、口をぽっかりと開けて目を点にする紅音だった。なにが起きたのか理解できない様子で「は?」と息を漏らす。

「……なに、どういう……こと? アンタ、一体……」

「すみません、紅音ちゃん」

 ふゆは紅音の手を握りしめる。手袋は冬の冷たさをその身に受けて凍えていた。

「ここまで追って、来てしまいました」

 笑いかけると、やにわに紅音の眉宇が険しいものに変わった。

「馬鹿! アンタってホント馬鹿! いまの自分の格好見てからもの言ってよ!」

 言うが早いか、紅音は羽織っていたコートを脱ぐ。「着なさい!」と怒鳴られながら、ふゆはコートに袖を通す。

 犬の姿になったとき、来ていた店の制服やコートは路地に置いてきてしまった。だからひとに戻ってしまえば厄介なことになるとわかっていた。

 ――けれど。

 ボタンを留めてくれる紅音の手元を見つめながら、怒っているだろうかと考える。今度こそ本当に嫌われてしまったかもしれない。そう考えて、自分の浅はかな行動を後悔した。

 だが、それでも紅音をひとりきりしておくことは、どうしてもできなかったのだった。ここまで追ってきてしまったことは、ひとつも悔いてはいない。

「……なんなのよ」

 案の定、紅音の声は怒っているように感じられた。ふゆは肩を竦めさせる。

「驚かせてしまいすみません。わたしはひとではありません。――妖です。いままで黙っていて、嘘をついていて、ごめんなさい」

「そんなの、いまのを見ちゃったら、ひとじゃないってわかる。なにか、尋常じゃないものなんだって。それは確かに驚いた。けど、そうじゃない! そうじゃなくて……!」

 ボタンを留め終えた手は、いつの間にかふゆの胸元をぎゅっと握り締めていた。紅音のつむじがふゆの目の前に見える。俯く紅音の表情が見えない。

「なんなのよ……アンタ……!」

 震える紅音の拳のうえに、水滴がぽつりと降り落ちた。

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