13 レッスン最終日

 あの日以来、紅音は数日ごとに桜木堂を訪れるようになった。やってくる時間帯はもちろん、店が閉まったあとである。美味しいパンを作りたい、という一心で紅音は吉平にパン作りを教わりにくるのだった。

 吉平もとくに嫌がる素振りは見せず、紅音にパン作りを教えている。紅音がやってくる度に、ふゆと高臣もそのレッスンに参加した。最初は「気を遣って一緒に居なくていいから」とつっけんどんに拒絶していた紅音だったが、何度言われてもその場から離れないふゆに、呆れたのか諦めたのか、いまではそのようなことも言わなくなった。

 確かに気を遣っている部分がないと言えば嘘になる。が、それ以上にふゆは高臣や吉平、そして紅音の三人でパン作りをするのが楽しくなっていた。

 最初に四人でパン作りをしたあの日の充足感は、ふゆの胸に隙間なく満ちていた。仕事のあとで疲れていたけれど、そんな疲労も吹き飛ぶほどに高揚していた。もっとこの時間が続けばいいのにと思ったほどだった。だから紅音のために居るというより、自分のために居るというのが正しかった。

 パンを作ることは単純に楽しかった。どんな味に仕上げようか、どんなトッピングを飾ろうか、と出来上がりを想像することも、実際に手を動かして生地をこねていく作業も面白かった。

 なにより一番、紅音の存在が大きかった。紅音は無駄口をきくことは少なかったが、吉平の言葉を熱心に聞き入れ、集中して作業をする様子は、純粋に尊敬できるものだった。傍でその姿を見ると、自分も頑張ろうという気持ちが湧き上がる。それが無駄に張り切りすぎる結果になり、失敗したことも何度かあったが、そんなことすら楽しかった。

 紅音の想いびとの誕生日が明後日に迫り、本日をもってレッスンは一応の最終を迎えることとなったが、今日も今日とて、閉店後にやって来た紅音はいつものように店じまいを手伝い、アパートでパン作りを開始するのだった。

「高臣のパンはやっぱ形が歪だなあ」

「なんでか、こんな形になるんだよ」

 焼き上がったばかりのパンを見た吉平が呆れた声をあげる。吉平の作る丸パンに比べると雲泥の差があるのは否めない。高臣の作ったパンは確かに凸凹おうとつが気になる形をしていた。しかし高臣はさして気にした様子もなく、パンをちぎり口のなかへ放り込む。

「うん、美味い」

「ま、別に形にこだわらないんだったらいいけどね。俺が教えたんだから、不味いなんてことありえないから」

 高臣の手からパンを奪い、味を確かめる吉平は眉根に皺を寄せつつも小さく頷く。

「まあまあかな」

 と言った次には、「高臣にしては」とつけ足す。苦い表情で吉平を睨みながら、高臣はパンを咀嚼する。ふゆは自身の作り上げたパンを一度念入りに眺めてから意を決した。

「き、吉平くん、わたしのパンも味見をお願いします……!」

 パンを乗せた皿ごと勢いよくずいっと突き出すと、一瞬吉平が怯む。掴み上げてまじまじと見つめられると、緊張が全身を駆け巡り、自分が観察されているかのような気分になって落ち着かない。

 ふゆの作ったパンは、なかにさつま芋を入れた、芋の甘さを活かした丸パンになっている。余計な砂糖は加えず、ほっくりと自然な甘さを目指して作ったパンだ。

 いただきます、と言って吉平がパンを味わうのを、ふゆは緊張の面持ちで凝視する。もぐもぐと口を動かし、喉が嚥下する様までじっくりと見つめ、吉平の言葉を待った。

「うん、美味しいよ」

「本当ですか!」

 張り詰めていた緊張がぱっと和らぎ、喜びが顕著に態度に表れる。

「ホントホント。でもね、ふゆちゃん。まだ少し大きいかなあ」

 吉平は笑顔で皿のうえにパンを戻す。食べかけのパンは、皿からはみ出るほどの大きさがあった。張りきりすぎて、ふゆの作るパンは毎度巨大なのである。今回も小さく小さくを心がけていたのだが、どうやら今度も大きすぎたらしい。しかもさつま芋入りなので、重量も相当なものだ。

「うう……まだ大きい、ですよね……」

 肩を落とすふゆだったが、横から伸びた手が食べかけのパンを掴んだのが見えて視線をあげる。見ると隣の高臣が、もそもそとふゆの作ったパンを食べていた。

 夕飯も食べたあとだし、さっきも自分が作ったパンを食べていたばかりだというのに、満腹ではないのだろうか。もしや、とてもお腹が空いているのだろうか。

 無言でパンを食す高臣を見つめていると、力のこもった呟きがふゆの耳に届いた。

「今回は前回より上手くいったはず……!」

 紅音が見つめる先には、焼き上がった丸パンが天板のうえでほくほくと湯気を立て、香ばしい匂いを漂わせていた。紅音は毎回違った味やトッピングの丸パンを作っていたが、今回は表面に卵黄を塗っただけのシンプルなものを作ったようだった。てらてらと輝く表面が満月を思い起こさせる。

「お。三人のなかで一番見た目がいいのはやっぱり紅音ちゃんだねえ」

 吉平は焼きたての丸パンをひとつ手にとり、熱さも気にせず半分に割って片方を口に放り込む。咀嚼する間、紅音はじっと吉平を見つめていた。自分の作ったパンではないのに、胸を鼓動させながらその様子を見守っているのはふゆも同じだった。

 やがてこくりと嚥下して、吉平が頷く。

「うん、いいね。上等」

「……っ、本当?」

 言葉を閊えさせながら問う紅音の頬は朱に帯びている。

「パン作り初心者にしては、充分に合格点に達してるよ」

 食べてみなよ、と吉平は割った半分を紅音に手渡す。紅音はパンを手にとると、おもむろに口へ含んだ。確かめるように、味わうように咀嚼する紅音は、硬い眉間の皺と目元をゆっくりと柔らかにほぐしていく。安堵の顔を覗かせる紅音を見て、ふゆはほっと息をついた。きっと味も満足のいく出来になっていたのだろう。よかった、とふゆは紅音を見つめて喜ぶ。

 温かな気持ちが胸に満ちるのを感じる。

「紅音ちゃん、やりましたね! 紅音ちゃんの作ったパン、本当に美味しそうです」

「……食べる?」

 ぽつりと問う紅音に、ふゆは目をしばたたかせる。紅音が口にした言葉の意味をじわじわと実感するにつれて、自然と笑みが零れた。

「いいんですか? 嬉しいです、ありがとうございます!」

 差し出された丸パンの匂いを思いきり吸い込むと、口中に唾液がじわりと沸きあがった。両手で割ると白い湯気が仄かに立ちのぼり、柔らかな感触が指先に伝わる。

 大きく口を開いてパンに齧りつく。口中に広がるのは香ばしい匂い。バターや小麦粉の、うっとりするような優しい甘さ。

 ふゆは目元をふにゃりと緩め、一心に口を動かした。

「んー、美味しいです!」

 焼きたてで柔らかいパンは、ふゆの胃袋へ難なく入り込む。ぺろりと平らげたふゆに、紅音は驚いた表情を見せた。

「アンタ、見た目は小さいのによく食べるのね。……お腹壊しても知らないから」

 言って紅音はおかしそうに苦笑する。その表情は初めてふゆに見せる、穏やかな笑みだった。

 笑顔を見せてくれたことが嬉しい。ふゆは胃袋だけでなく、心も満たされていくのを感じた。身体がぽかぽかと温かくなっていく。甘く芳しいパンの香りに包まれ、優しいひと達に囲まれたこの空間が、ふゆには心地よくて仕方がない。

 ずっとずっと、このなかに浸っていたい。

 冷たい風が吹き荒ぶ真冬の夜だというのに、ふゆはまるで光の野原に包まれたように温かくなるのだった。



「あのっ」

 後片付けも済み、あとは帰りの遅くなった紅音を送るだけとなった室内で、しおらしく佇んでいる紅音が、意を決したように声を発した。

 紅音を送るため玄関先で靴を履いていた吉平が振り返り、ふたりを見送ろうとしていた高臣とふゆも何事かと紅音を見る。

 眉間に寄る皺は相変わらずだったが、紅潮した頬と伏せがちな瞳、組み合わせた手を忙しなく動かすさまが、紅音の緊張を物語っていた。

 どうしたのだろう、とふゆが小首を傾げていると、紅音は彷徨わせていた視線をこちらに合わせた。

「お、遅くなったけど、三人にちゃんとお礼言おうと思って。……その、パン作り教えてくれて、手伝ってくれて助かった。あたしひとりじゃ、ここまで上手く作れなかったと思う。だから感謝する。……ありがと」

 いつもの勢いのある発言とは打って変り、小さな声で恥ずかしげに礼を述べる紅音の姿に、ふゆは目を見開いた。

 当初、紅音には良く思われてはいないだろうと思っていた。実際その通りだっただろうし、嫌がられているのかもしれないとさえ思い、少しばかり落ち込んだりもしたのだ。

 けれど先程の紅音の言葉を聞くと、不安に思っていた想いなど胸からすっかり消し飛んでしまった。雨上がりの空に浮かぶ虹のような、清々しく鮮やかな感情が、痛いほどにふゆの胸を締めつける。

 偽りの見えない紅音の姿と言葉。

 ふゆは紅音に駆け寄ると、組み合わせていた手をとって両手で握り締めた。

「はい! わたしも紅音ちゃんとパン作りが出来て、すごく楽しかったです。すごく嬉しかったです。こちらこそ、ありがとうございます!」

 にこりと微笑むと、ゆっくりと目元を緩める紅音の笑顔が目の前に広がった。

「なんでアンタまでありがとうなんて言ってるのよ……馬鹿じゃないの」

 柔らかな棘に鋭さはない。「えへへ」とだらしなく笑って見せると、もう一度「馬鹿みたい」と言われた。

「紅音ちゃん、よく頑張ったよ。あとはキミ次第だ」

 高臣が優しく声をかけると、玄関口で靴の爪先をトントンと打ち付ける吉平が「そうそう」とあとに続く。

「本番はこれからでしょ。先生としては、好きなひとにちゃんと手作りパンを手渡して、想いを告げてほしいよね」

「ちょっ、別に、告白するつもりなんて……!」

「ウソ、ないの? えー、折角の手作りなのに言わないわけ? 勿体なーい」

 言いつつ吉平は玄関の扉を開いてしまう。マフラーに首を竦め、ブルゾンのポケットに手を突っ込んでさっさと外へ出てしまう吉平のあとを、紅音が慌てて追いかける。

「勿体ないとかなくないとか、そういう問題じゃないじゃん!」

 叫びながら桜木家をあとにする紅音を、ふゆは高臣と並んで見送った。騒がしかった部屋のなかが一気に静かになると、隣で「ほう」と息を吐く音が聞こえた。

 見上げると、苦笑が混じる高臣の眼差しとぶつかった。

「上手くいくといいな、紅音ちゃん」

「――きっと、上手くいきます。だってあんなに頑張ったんですから」

 そうだな、と言って高臣が頷いてくれたので、ふゆは改めて大丈夫だと思えた。

 頑張れ、紅音ちゃん。

 ふゆは両手を握り締め、胸の内で強く願いを込めた。

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