12 パン作り

「なんでアンタもいるの?」

 ふゆを認めると、紅音は開口一番にそう言った。どことなく険しい表情をしているように見えるのは気のせいだろうか。ふゆは心を奮い立たせるように握り拳をつくる。

「わたしも一緒に、パン作りを教わろうと思いまして。紅音さん、よろしくお願いします」

「あたしによろしく言うのは、なんか、違うんじゃないの……?」

 戸惑い気味な紅音だったが、それでも「よろしく」と言ってくれた。小さな声でおまけみたいに付け足された言葉だったが、ふゆはそれだけでも満足だった。嬉しくて笑っていると、眉を顰められはしたが、嫌がられてはいないようだった。

 紅音は昨日の言葉通り、閉店と同時に店にやって来た。何だかんだ言いながらも、閉店後の片づけを手伝ってくれた。早くパン作りがしたいから、と言っていたが、紅音は最後まで与えられた仕事に手を抜くことはしなかった。

 紅音には、ふゆの経緯を改めて高臣が説明した。「訳あって遠い親戚の子を預かっている」という旨を伝えたらしい(これは光汰朗にもそう説明していて、常套句になっている)。「行き倒れ」という言葉が脳裏に焼きついていたのか、疑わしいといった眼を向け続ける紅音だったが、最後には納得してくれたようだった。説明し終えた高臣は心底疲れた表情を浮かべていたが、隣で話を聞いていただけの吉平は高臣に睨まれてもなんのそので、終始面白そうに笑顔を浮かべていた。

 夕食を四人でとったあと(今夜は高臣手製のクリームシチューだった)、早速パン作りを開始することになった。場所はアパートの台所である。少し狭いが、本格的な作業をするわけではないし、紅音が自宅で簡単に作れるようになるための作業なので、この場でも十分なのだと吉平は言った。

「とりあえずパン作りを教えることに異議はないのよ俺。だけどさ、なんで突然紅音ちゃんがそんなこと言いだしたのか、それは知りたいんだよねえ」

 調理器具を用意しながら、吉平は紅音に好奇の眼を向ける。

「なんで言わなきゃいけないの」

「パン作りのお礼だと思ってさ。金取るわけじゃないしいいでしょ?」

 ぐっ、と言葉に詰まる紅音は、申し訳ない気持ちがあるのかもしれない。

 一方的にパン作りを乞う紅音に、吉平は文句も言わずに場を与え、器具を持ち出し、材料を与えた。紅音はお世話になっている大家の孫娘であるし、桜木堂の常連客でもある。親切心だけでなく、日頃の感謝の気持ちもあり、吉平は断らなかったのだろうと思った。

 しかし対価として要求したのは、パン作りに対する紅音の動機である。もしかしたら最初から、吉平の目的はそれだったのかもしれない。そう考えると、少し質が悪いような気がしないでもない。

 尋ねる吉平は興味深く紅音を見つめている。ふゆには、吉平がなんだか楽しんでいるように見えるのだった。

 やがて紅音は諦めたとでもいうように嘆息し、自ら用意した水玉模様の赤いエプロンの胸元をぎゅっと握り締めた。顎を引き、伏せた睫毛の影が、淡く染まる頬に落ちる。

「作ったパンを、食べてもらいたいひとがいるの。もうすぐ、そのひとの誕生日だから」

「なるほど。手作りの誕生日プレゼントを渡したいわけね」

 こくりと頷く紅音の表情が、先程の威勢のいいものと随分と違っていることに気づき、ふゆは眼を瞠る。とても、可愛らしいと思った。刺々しさが和らいで柔らかくなった顔つきが優しさを含んでいる。

「誰よ、紅音ちゃんの好きなやつって。同級生? それとも先輩とか?」

「な、なんで好きな相手になるのよ。誰もそんなこと言ってないじゃん!」

「でも、どうせそうなんでしょ? 手作りを食べてもらいたい、なんて、好きな相手以外考えられないし」

 ぐいぐいと問いただそうとする吉平に、傍で見ていた高臣がそれ以上質問させぬように「おい」と止めに入ろうとする。焦った表情の紅音を見るに、確かに高臣の判断は間違っていないのだろう。だが、何故かふゆは、吉平と同じ思いを抱いていた。

「わ、わたしも知りたいです! ご迷惑でなければ教えていただけないですか?」

 紅音の手をとって握り締め、見上げる形で見つめる。束の間、紅音は呆気にとられたようにぽっかりと口を開いていたが、思い返したように唇をきつく結ぶとふゆを睨みつけた。

「あたしが誰にプレゼントしようが、アンタたちには関係ないじゃん! プライバシーの侵害だから!」

 叫ぶ紅音に、それでもふゆは諦めることなく視線を逸らさず見つめ続ける。最初はただ怒りを表していた紅音だったが、次第に眉や目尻が弱々しく下がりはじめた。言葉に詰まったように唇を噛みしめて、じわじわと頬が紅潮していく。

「ああもう! なんなのアンタ、図々しい! そうよ、好きなひとよ! 好きなひとにあげるのよ悪いか!」

 叫ぶ紅音に、ふゆはぶんぶんと首を振る。

「わ……悪いだなんてとんでもないです! すごいです! 好きなひとのために、手作りのパンを作ろうとする紅音さんのその気持ち、素晴らしいと思います!」

 ふゆは握った手にぎゅっと力を込める。紅音の好きなひとへの想いに、ふゆはいたく感動した。誰かのために何かを成し遂げようとする、その心意気にふゆは胸を打たれたのだった。

 紅音の真摯な想いに触れ、それを直に感じ、羨ましいという気持ちが胸の底から溢れてくるのを感じずにはいられない。

 赤い顔のまま困惑顔になる紅音は、やがてふゆの手を強引に引き剥がした。外方を向き、小さな声で何やらぶつぶつと呟き、仕舞いに唇を真一文字に結ぶ。

 紅音のその様子を窺い見て、迷惑だっただろうか、とふゆは不安になった。思ったことを遠慮せず口に出してしまった。そのことで紅音に嫌な思いをさせてしまったかもしれない。もっと考えてものを言わなければ、とふゆは恥じる思いがした。

 吉平は紅音の素直な告白を聞きだせたことに満足したのか、深く問うことはしなかった。

「紅音ちゃんの目的もわかったことだし、早速パン作りを開始しよっか」

 吉平は初めてでも簡単に作ることのできる、基本的なパンの作り方を紅音に提案した。基本をマスターすればアレンジ次第でいろんな味を楽しめるのだという。

「気軽に作りたいと思ったら丸パンがいいかな。型はいらない、形成もしやすい、小さいから焼き時間も短縮できる。半分に切って具をサンドするのもいいし、チーズやレーズン、さつま芋なんかを入れてアレンジしてみたり、黒ゴマやけしの実なんかをトッピングするのもいいかもね。ま、とりあえず作ってみましょうか」

 紅音はメモ帳を持参しているようで、吉平の説明を熱心に書きとっている。まずは吉平が手本となって作業をしていくようだ。ふゆと高臣は二人の傍から覗き込むようなかたちで見守ることにする。

「ボウルに強力粉、イースト、砂糖、塩、スキムミルクを入れてざっくりと混ぜ合わせます。このとき塩とイーストは近づけないように」

 説明をしながら、吉平はボウルのなかをヘラで混ぜ合わせる。ある程度混ぜると、次に水を加え更に混ぜていく。

「仕込み水は温度に気をつけてね。冷たいのはダメだよ。ホントは季節ごとに温度を調節するのが一番なんだけど、まあ、人肌程度に温めて入れれば大丈夫だから。牛乳とか豆乳を加えるのもいいかもね」

「なるほど」

 紅音は素直に頷き、吉平の手元を注視する。全体が混ざり粉と水がまとまると、もっちりとしたひとつの塊が出来上がる。それを台のうえに置くと、吉平は体重をかけ、両手を交互に動かし、前後に押しだすようにこねていく。

「こねるときは手早くね」

 二分程度こねると、今度は生地を広げ、そこにバターを置いてまたこねはじめる。

「バターがなじむように、包み込むように練りこみます」

 五分ほどこね、それが終わると、吉平は数回生地を台に叩きつける。

「力は入れなくていいからね。生地の表面を整えるように……で、生地を丸めて、発酵させる」

 吉平はボウルに生地を入れラップをする。これで発酵させるようだ。

「大体四十分が目安かな。生地が二倍に膨れるまで発酵させる、と。ここまではオッケー?」

 メモ帳を握り締め、眉根に皺を寄せた神妙な表情で紅音は曖昧に頷く。いまひとつ自信がないようにふゆには見えた。吉平の教え方はわかりやすい。が、やはりプロだけあって無駄がなく手際もよい。そんな鮮やかな手捌きを見れば圧倒されるだろうし、わたしもこんな風に出来るのだろうか、と不安になってしまったのかもしれない。

「ま、やってみるのが一番ってね。じゃあ紅音ちゃん、いままでの流れを思い出しながら作ってみようか」

「あ、うん。わかった、やってみる」

 吉平が隣で見守るなか、次は紅音が作業をするようだった。少しだけ緊張したような、けれど気合いの入った面持ちで、紅音は新しいボウルに材料を入れていく。

 ふと、吉平が振りかえり、ふゆに向かって軽くウインクしてみせる。それを見て、ふゆは自分が気がかりに思っていたのは杞憂だったのだと思い至った。吉平はきちんと、紅音の心情を察していたのだ。

 さすが、吉平くんです。わたしが不安に思うことはありませんでしたね。

 吉平はパン作りのプロというだけでなく、手本となる先生役もこなれているようだった。どこかでそういった経験があるのだろうか。もしかしたら、とふゆは思う。いつも飄々としている吉平だが、手先は器用で大抵のことはそつなくこなすことができる。ひとに伝え教えるといった技量は、吉平がもとから持っている技能のひとつなのかもしれない。

 紅音の手元を傍でにこにこと覗き込んでいると、頭上から低い声が降った。名を呼ばれて振り仰げば、高臣がボウルを持って佇んでいた。

「ふゆは作らなくていいのか?」

「あ! そうです、わたしも挑戦しようと思っていたのでした!」

 二人のやりとりに気をとられ、自分が作ることをすっかり忘れてしまっていた。折角用意してくれた真新しいエプロンも出番がなくなるところであった。ふゆは頭に巻いた三角巾をもう一度強く縛り、気合いを入れる。

「よおし! わたしも頑張って美味しいパンを作りますね! 高臣さん、見ていて下さい!」

「え、あ、ああ」

 鼻息荒く意気込むふゆに、高臣は若干気圧されたように頷く。

 紅音は吉平と、ふゆは高臣とともにパン作りを開始する。ちらりとあちらを見やると、真剣な表情で作業をする紅音が見えた。その姿に、ふゆの胸には確かな想いが満ちる。それはやる気となって、ふゆを沸き立たせるのだった。

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