11 月夜の来訪者
ひやりとした一陣の風が吹き抜けて、ふゆは身を震わせる。
幼い兄弟の件が一段落ついたある日の夕刻。店じまいをするため外に出たふゆは、ふと空を見上げた。太陽は早々に姿を消し、すっかり薄暗くなった空には満月が煌々と輝いていた。
今宵はとてもまあるく見える。てらてらと輝く月が、黄身を塗って焼きあげた丸パンのように思えて、人知れず「美味しそう」という呟きが零れた。思わず、ぐう、と腹の虫が鳴く。ふゆは妖だが腹は減る。人間と同じ頻度で食事をする必要はないが、物を食べるという行為は、近頃のふゆにとってなくてはならないものになっていた。それはきっと、ともに食事をする相手ができたからだろう。
店先の看板を退ける仕事も放りだし、ふゆはしばし月に見入っていた。
「誰?」
唐突だった。かけられた言葉に驚いて声のした方向を見ると、ふゆの隣にいつの間にか少女が仁王立ちで佇んでいた。肩までの濃茶色の髪が、マフラーに絡まりながら冷風に靡いている。ふゆを見つめる瞳は綺麗なアーモンド形で、きりりとした柳眉に勝気そうな人柄が滲んでいた。彼女が身に着けている服は学生服というものだろう。身長や見た目がふゆと同じくらいなので、恐らく『チュウガクセイ』という立場のはずだ。
ふゆはにこりと笑んでみせた。
「すみません、桜木堂は先程閉店となりまし――」
「だから、アンタ誰?」
訊きたいことはその一点のみだと言わんばかりに、少女はふゆに問いを重ねる。ようやく睨まれているのだと思い至ったふゆは、あわあわと挙動不審に陥った。敵意を向けられるのは、どうにも慣れない。
「あの、わたしはですね、最近ここでお世話になっている者でして」
意味もなく大げさに身振り手振りで話すふゆを、少女は疑わしい眼で見つめてくる。その視線の鋭さに更に狼狽えてしまい、頭が混乱し、なにから説明すればいいのかわからなくなってしまう。
ど、どうしましょう。この方は高臣さんか吉平くんのお知り合いなのでしょうか。だったら、わたしが何者であるのかきちんと説明した方がいいのでしょうけど……。でもでも、高臣さんからは決してわたしが妖だということを知られないように、と注意を受けていますし……。
考えがまとまらず、ぐるぐるする頭に痛みを感じはじめたころ、背後でドアベルが響いた。
「ふゆちゃん、まだ片づけ終わんない? 俺手伝う?」
戻りの遅いふゆを心配したのか、コックコートを着たままの吉平が戸口で声をかけた。慌てて振り返り「すみません」と謝るふゆだったが、吉平の視線は隣の少女に向けられていた。
「あれ、
「どうも。ちょっと、お願いがあって」
彼女は桜木堂の常連客なのだろうか。働きだしたばかりのふゆは少女の来店に居合わせたことはないが、吉平の口調が親しげなところを見るに、随分まえからの知り合いなのかもしれない。
「お願い? パンが欲しいんだったら特別に店内入れてあげるけど、もうほとんど売り切れちゃってるよ? 紅音ちゃんの好きなメロンパンももう残ってないし」
「そうじゃなくて。店長さんに、教えて欲しいことがあるの」
少女は一度きゅっと唇を引き結び、それから真っ直ぐに吉平を見つめて口を開いた。
「美味しいパンの作り方、あたしに教えて!」
吉平は数回瞬きを繰り返してから平坦に答えた。
「教えるのは構わないけど。紅音ちゃん、俺でいいの?」
「この際、文句なんて言ってらんないもん。ここのパンが美味しいのは、事実だしっ」
何故か怒ったふうな口ぶりの少女は顔を逸らす。吉平は口の先だけで小さく笑って「そりゃどうも」と返答する。
「今日いきなりっていうのは難しいけど、店が終わってからでいいなら、俺はいつでも。だけど遅い時間になるし、無理そうだったら、定休日の日曜でもいいけど」
「できるだけ早めに教えてほしいから、明日はどう?」
「随分急だねえ」
そう言いつつも、吉平はあっさり首肯した。少女はようやくほっとしたのか、肩の力を抜いて安堵の息を吐いた。その様子から、美味しいパンを作りたい、という彼女の意気込みが伝わってくる。何か事情があるのだろうか、と何気なく少女を見つめていると、くるりと身を翻して、少女はふゆを凝視した。
「で、この子なんだけど。一体誰なの?」
当初の疑問をくりかえす少女に、吉平が笑顔で答える。
「ああ、この間から桜木堂で働いてくれてるふゆちゃんだよ。行き倒れてたところを高臣が拾って、いまうちで預かってんの」
「……は?」
形の良い眉を歪め、少女は見開いた眼を吉平へ向ける。それからまたふゆへと視線を移し、眼を眇めた。
「店長さんも大概だけどさ。まえからあの人、なに考えてるのかわかんなかったけど、そういう趣味があるわけ。犯罪じゃないの……?」
「いやホントだよねー。人は見かけによらないっていうけど、高臣ってばロリコッ……!」
最後まで言い終えることができなかった吉平が、唐突に前かがみになって後頭部を押さえている。背後にはいつもより益々怖い顔をした高臣が、握り拳を翳して立っていた。
「……遅い。なにをやってるんだよ」
「あ、高臣さんっ、すみません!」
反射的に頭を下げるふゆに、「いや……」と高臣は歯切れの悪い返事をする。顔を上げたふゆと何故か眼を合わせてくれない。
「それより紅音ちゃん。こんな時間までうろついてて平気なのか?」
やはり高臣も少女と知り合いらしい。問う高臣に少女は半眼を投げる。睨んでいるように見える高臣を前にしても、少女はちっとも怯む様子を見せない。寧ろ、挑むような眼差しを向けていた。
「こんな時間って、まだ七時前じゃん。あたしもう高一だよ? 子供扱いしないでよ」
どうやら彼女は『コウコウセイ』らしい。てっきり『チュウガクセイ』だと思っていたふゆは、それを声に出さなくて良かったと内心安堵した。口に出したら、なんだか怒り出してしまいそうだと思ったからだ。
「高校生は子供でしょ、親に養ってもらってんだから。あんま心配かけさせんなっていいたいんだよね、高臣は」
後頭部の打撃から立ち直った吉平が、高臣の肩をぽんぽんと叩く。言葉少なな高臣の心情を、吉平はきちんと汲み取っている。流石兄弟だなあと感心していると、隣から大きな溜息が聞こえた。
「あたしのことはどうでもいいんだって。それよりこのふゆって子。働いてるってどういうこと? この子あたしより年下でしょ?」
彼女の黒い瞳にまじまじと見つめられ、ふゆは若干の居心地の悪さを覚えた。
年下ということはありえない。妖であるふゆは、ここにいる誰よりも歳を重ねている。本当のことを話してもいいだろうかとちらりと高臣を見ると、険しい表情の彼と視線がかち合った。これは多分、言ってはいけない、ということなのだろう。
ふゆはどうしたものかと狼狽えるばかりだったが、それに助け船を出したのは、またしても吉平だった。
「幼く見えるけど、ふゆちゃんは紅音ちゃんと同い年だよ」
「同い年ねえ。って言うか、さっき行き倒れてたって言ったけど、それはどういう……」
深く尋ねようとする少女を遮るように、高臣がふゆの名を呼んだ。反射的に「はい」と大きな声で返事をする。
「そろそろ上がれ。看板忘れるなよ。それから紅音ちゃん、もう帰った方がいい」
静かな、けれども有無を言わさぬ高臣の物言いに、少女は頬を膨らませて小さな抗議をしてみせたが、反駁することはなかった。どうやらこれ以上問いただすことは無理だと諦めたらしい。
「ハイハイ。わかった、帰るわよ。じゃあね。あ、明日も閉店と同時ぐらいにくるから」
忘れないでよね、と言い添えて、少女は背筋を伸ばして薄闇へと消えていく。小柄なわりに歩く速度は速く、どんどん背中が見えなくなっていく。
「吉平」
高臣が横目で見ると、吉平は「わかってますよ」と言ってから、スカーフタイをふゆに手渡して、少女が去った方角へ向かっていく。
「高臣ー、俺がいないからって、ふゆちゃんに変なことすんなよー」
ひらひらと手を振って足早に去る吉平に、高臣は苦い表情を返しただけだった。ふゆは入口に近づき、戸口で吉平を見送っている高臣を見上げた。
「吉平くんはどこへ行ったのですか?」
「この暗いなか、紅音ちゃんをひとりで帰らせるわけにはいかないからな」
なるほど、吉平は少女を送りに向かったのか、とふゆは頷く。短いやりとりだけで相手の考えを読み取ることが出来るのは、長年ともにしてきた兄弟だからできることなのだろうか。
それが少し、羨ましいと思ってしまう。そのような関係を築くことができるのが、羨ましい。
「紅音ちゃん、こんな時間に一体なんの用があったんだ」
「吉平くんに美味しいパンの作り方を教えてほしいと、お願いにきたみたいでしたよ」
へえ、と呟きながら頭を捻る様子を見せる高臣は、少女が何故そのような頼みを吉平に頼んだのか思いつかないようだった。ふゆは看板を片づけながら、気になっていたことを口にする。
「高臣さん、先程の女の子とお知り合いみたいでしたが、どういった方なのですか?」
「あの子は
「だからお二人とも親しげだったのですね!」
ということは、今後も紅音とは顔を合わせる機会があるだろう。事実、明日紅音は吉平にパン作りを教わりにくる。
「……わたしも、紅音ちゃんと仲良くできるでしょうか」
仲良くしたいと思う。先程の邂逅で、紅音はふゆのことを疑わしく思っているようにみえた。きっと良い印象を持たれてはいないだろう。
けれど。折角知り合うことができたのだ。これからも顔を合わせることがあるのなら、紅音と距離を縮めたいと思う。あわよくば、友達になりたいと、そう思ってしまう。
「大丈夫だろ」
淡泊に答える高臣は、ふゆが抱えている看板を、何も言わずに取りあげて背を向ける。
「ふゆなら大丈夫だ」
店のなかへと入っていく高臣を見つめながら、ふゆは胸に灯火がともるのを感じた。
――大丈夫。
たったそれだけの言葉に、不安だった心が和らぐのを感じる。言葉数が少ない高臣だからこそ、その一言が大きく胸に響いた。何故だか、その言葉が信じられるのだった。
ふゆは頬を緩めると、あたたかな光が零れる店のなかへと歩を進めた。
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