10 《幕間》双子とワンコと雪うさぎ

 きっと、高臣は覚えていないだろう。

 ずっとずっと昔のことだから、記憶に留めていると思えなかった。覚えているのは自分だけ。些細なことだから、覚えていなくても別におかしなことではなかった。

 多分、覚えている自分の方が、少しばかり女々しいのだ。


 *


 寒さに身震いしながら、吉平は重い瞼を開いた。鼻の頭まで掛け布団をずり下げて、眼だけを動かしゆっくりと部屋を見回す。静かな部屋には布団に包まる吉平だけが残されていた。頭上に置いてある置き時計を見ると、朝の八時を回っていた。一瞬どきりとしたが、今日は休日だったと思い直し、再度掛け布団を引き上げ頭を隠す。

 高臣とふゆはどこかへ出かけたのだろうか。こんな朝早くからご苦労なことだ。

 別にふてくされたわけではない。起きて二人の姿が見えなかったことが、ちょっと気になっただけなのだ。

 そう心のなかで言い聞かせ、二度寝をしようと瞼を閉じた。そのときだった。

「吉平くん、まだ眠っていますか?」

 入口から、窺うような声がした。高い音の、けれど決して耳に痛くない愛らしい声の主は、寝室までの距離を静かな足どりでやってくる。遠慮がちに扉が開かれる音がして、部屋に入ってくる少女が、吉平の枕元で膝をつく。

「やっぱり、まだ眠っていらっしゃいますね……」

 小さな声が、静かな部屋にぽつりと沈んで落ちた。がっかり、と言われているような気がした。

 驚かせたくて眠ったふりをしていた吉平は、ふゆの立ち上がる気配を見計らって素早く瞼を開いた。

「……起きてるよ」

 寝起きの掠れた声で呟くと、ふゆは眼を見開いた。びくっと肩を震わせて、握り締めた両手が中途半端に宙に浮いている。

 そんなに驚くなんて素直だねえ、と内心喜ぶ吉平に、ふゆは笑顔を見せた。

「良かったです! 吉平くんが起きてくれて」

「え、なに。俺が起きるの待ってたの?」

 上体を起こす吉平を、早くはやくと急かすようにふゆが腕を掴んで引っ張りあげる。

「はい! 高臣さんが呼んでいます、着替えて外に来て下さい」

 頭上にハテナマークを浮かべたまま、吉平はとりあえず掛け布団を引き剥がす。途端に肌寒さを感じて、吉平はひとつ盛大なくしゃみをかました。




「寒っ! つか、雪降ってたんじゃん! 言ってよーそういうことはさあ」

 しっかりと防寒対策を施した身なりの吉平は唇を尖らせる。降り落ちた雪は鼠色の地面を薄く隠し、白い世界を作り上げていた。

 アパートの窓から外をちらと見たとき、白の面積が多いなと思っていた。多分、雪が降ったのだろうとあらかじめ予測は立てていた。けれど、文句のひとつも言いたくなる。

 何故、雪の積もった(僅かではあるけれど)こんな日に外に出なければならないのか。寒いし、足元も悪いのに、何故二人は店の前に集っているのか。何故、俺を呼ぶのか。

 高臣とふゆは、アパート一階の桜木堂の店前で吉平を待っていた。二人ともコートにマフラー、手袋と装備はばっちりだ。ちなみに吉平は更にマスク着用である。風邪でも引いて明日店を休むことにでもなったら大変だからだ。

「で? どこ行くの? あんま遠くへ行くのは嫌なんだけど」

 寒さに腕を擦る吉平に、ふゆはきょとんとした顔をした。

「どこへも行きませんよ?」

「は? じゃあなんで外へ出たの?」

「ここで雪遊びをするためですよ」

 ふゆは「えへへ」と可愛らしく笑うと、しゃがみ込み、地面に積もった雪を両手で掴む。力を込めて固めようとしている様子を見て、吉平は「マジで」と思わず呟いた。

 高臣を見る。視線が合うと頷かれた。どうやら付き合えといっているらしい。

 マジかよ。この寒いなか、雪遊び。しかも店の前で。

 正直、やってらんねえ、と心のなかで叫んでいた。折角の休日、それに雪の積もったこんな日は、家のなかで一日中ごろごろと過ごしていたいというのが吉平の本音であった。疲れた身体だって癒したい。しっかり眠って休息したい。

 けれど――

 しゃがみ込んだふゆは、一心不乱に雪をかき集めている。雪は珍しくもないはずなのに、大きな黒い瞳は活きいきと輝いている。朝陽を受けて艶めく黒髪が、ふゆの動作に合わせてゆらゆらと揺れる。

 喉元に引っかかる『面倒くさい』という言葉を無理やり飲み込んで、吉平は深く息を吐いた。

 ふゆの隣に屈み、傍で佇む高臣を見上げる。

「ほら、そこの“お兄ちゃん”も。早くしろよ」

 何か言いたげに眉根を寄せる高臣だったが、結局唇を僅かに引き結んだだけで、大人しく従って姿勢を低くした。苦笑が零れるのを我慢しながら、せっせと手を動かすふゆに尋ねる。

「ふゆちゃん、雪を集めて何を作るつもり?」

「あの、雪だるまを作りたいのですが」

「うーん。この雪の量じゃ、チビの雪だるまになると思うけど」

「そ、そうですよね……」

 ふゆは眼に見えてしょんぼりとする。そんなに巨大な雪だるまが作りたかったのか、と吉平は若干呆れたが、ふゆの表情を見ていると、苛立ちにも似た感情が胸の底からふつふつと湧いてきて、思わず高臣に向かって問いかけていた。

「なんか、他にないのかよ」

 この子が喜ぶような雪遊びを。お前は、何か思いつかないのかよ。

 口を閉ざす高臣をじれったく思いながら睨んでいると、ようやく、低い声が白い息と一緒に唇から吐き出される。

「雪うさぎ」

 高臣の言葉に、吉平はふゆとともに瞬きを繰り返した。ふゆは初めて聞いたとでもいうように眼を丸くしていたが、吉平は胸を衝く思いがした。高臣の言葉に、蘇る記憶がある。

「耳と眼はそこらに落ちてる石ころでもいいだろ。本当はちゃんと葉っぱと赤い実で作れたらいいんだろうけど」

 確かに、辺りに街路樹はないし、近所の軒先に植えられている樹木からちょっと拝借なんてこともできない。使えそうなものといえば、地面にある小石くらいなものだ。

「それにしても石ころって。それもううさぎじゃねえよ」

「かもな」

 短く返事をして、けれど高臣はそれを実行するようだった。雪を集めて固めていく高臣に続いて、ふゆも雪を掻き集める。高臣の作業を必死に見つめ、見様見真似で手を動かしている。

 ――雪うさぎ、か。

 吉平は二人の手を見つめながら過去を思い返す。

 あれはまだほんの子供で、確か小学四年生のときだ。あの日も雪が降り積もった寒い日だった。

 当時好きだった女の子と校庭で雪遊びをしていて、そのときに知ったのだ。彼女に雪うさぎというものを教えてもらった。丸みを帯びたフォルムと愛らしく飾りつけられた表情が、彼女のように可愛らしかったのを覚えている。

 家に帰ると、吉平は早速高臣を外に連れ出して雪遊びを開始した。最初は浮かない顔をしていた高臣だったが、教えてもらったばかりの雪うさぎを高臣に作ってみせると、たちまち口元をほころばせた。子供の頃から寡黙な高臣が「すごいね、可愛いね」と言ってくれたことが嬉しかった。

 だから多分、覚えてるんだろうなあ。

 あの頃の吉平は、高臣を少しでも喜ばせてやりたいと、驚かせてやりたいと思っていた。高臣が笑ってくれることが、誇りでもあったのだ。

 このことを高臣に話したことはない。言わなくていいし、言うつもりもない。

 だから、雪うさぎについての記憶も、吉平だけのものでいいのだ。小さな、本当に小さな出来事だ。自分が覚えているだけで、十分なのだ。

「出来た」

 高臣の声に我に返り、手元にある物体を見る。歪な形の雪の塊の上に、小石と平たい石が二つずつ、前方辺りと天辺に突き刺さっていた。泥も一緒に混ざっているので、見た目がどうしても小汚く見える。最早うさぎには見えなかった。

「ぶっ! 一体何者なんだよそれ。ぶっさいくだなー」

「しょうがないだろ、葉っぱも赤い実もないんだから」

「いや、問題そこじゃないから」

 不格好な雪うさぎは高臣が幼い当時に作ったものより酷かった。もしかしたら思い出が美化されていたのかもしれない。けれど、それにしてもこれは酷い。吉平は笑いを堪えきれなかった。

「わたしも出来上がりました!」

「お、結構上手く出来てるじゃん。ふゆちゃんのが高臣のより断然いいよ」

 ふゆの雪うさぎは丸まると太っていたが、形のよい小石を選んで飾りつけられていた。高臣の雪うさぎより見れるものが出来上がっていたが、吉平に言わせればまだまだである。マスクの下でぺろりと唇を舐め、吉平は雪をかき集める。

「まあ俺の雪うさぎを楽しみにしてなさい」

 久しぶりに作る雪うさぎだったが、吉平の手は迷いなく動く。地面の上に降り積もった白い雪だけをかき集め、半円形の綺麗な形に整えた雪塊の上に、選び抜いた小石を眼に添える。耳はどうしても石以外のものを使いたかった。石をそのまま突き刺すのは、吉平の美徳に反している。

 雪を払い、何か使えるものはないかと地面を探り、ようやくこれだと思うものを見つけた。どこからか飛ばされてきた落ち葉だった。緑色ではないけれど、それでも硬い石よりは柔らかな印象になるだろう。

 虫に喰われているけれど、それも許そう石じゃなければ。

「出来たー! どうどう? 俺の雪うさぎ、愛らしいでしょ?」

 自慢げに雪うさぎを披露すると、ふゆの表情がぱっと輝く。頬に赤みが差した、血色のよい笑顔で雪うさぎを見つめる。

「とても可愛らしいです! すごいです、吉平くんは上手に雪うさぎを作れるのですね!」

 思った通りの反応に、吉平は鼻を高くする。素直なふゆの反応は、見ていて気持ちの良いものである。高臣はどうせ表情を険しくさせているのだろうと思って見ると、意外にも、眉間に皺は刻まれていなかった。切れ長の眼が、束の間、緩む。

「お前は小さな頃からやっぱり上手いな。すごいよ、確かに可愛らしい」

 雪うさぎを見て懐かしむような口ぶりと眼差しを向ける高臣に、吉平は一瞬言葉を失った。

 覚えているのだろうか。いや、それとも思い出したのだろうか。あんな些細な出来事を。ちっぽけで、自分だけが覚えていたようなことを。高臣は記憶に留めていたのだろうか。

 吉平はふっと笑う。

 どちらだって構わない。覚えていようといまいと、いま高臣が言った言葉だけで、満たされてしまったのだから。

「――だろう? 俺の溢れる才能が迸っちゃった結果かな」

「上手いけど、俺はふゆの雪うさぎの方が好きかな」

 しれっとそんなことを言う高臣の隣で、ふゆが顔を更に赤くする。あわあわと挙動不審になるふゆに、高臣は「大丈夫か」と不思議そうに心配している。

 無愛想天然たらし男め! と、胸中で叫ぶ吉平は、ぐいっと背伸びをして空を見上げる。雪のやんだ空に浮かぶ雲が真白い。鮮やかな水色が、眼に眩しい。

「あー、平和だなあ」

 吉平の呟きに、「なんだよ突然」「平和ですよね」と答える声がある。

 朝空を見上げたまま、吉平は微笑を浮かべてマスクを指でずらすと、白い息を天へと吐き出した。

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