09 わかりにくいひと

 侑一の怪我はそれほど酷いものではなかった。消毒を施し、絆創膏を貼ってやる。侑一は本来素直で明るい性格の子供なのだろう、「ありがとう」と笑顔ではっきりと礼を口にする。常なら怖がられそうな高臣にも、怖気づくことはなかった。

 手当を終えてしばらくすると、厨房から吉平が舞い戻った。手ぶらというわけではなく、高臣やふゆの予想していたとおり、吉平は侑一へのプレゼントを用意していた。

「わあ……!」

 喜びの声をあげる侑一の姿は、今朝のふゆと全く同じであった。見開いた瞳をキラキラと輝かせ、興奮に頬を紅潮させ、前のめりになってそれを見つめる。

 吉平は、たくさんのフレンチトーストサンドを作っていた。店に陳列しているものと同じ具材もあれば、新しく考案したものも含まれているようだった。吉平はトレイに乗せたフレンチトーストサンドを侑一にずいっと突きつける。

「持って帰れ。多分、明日一日分くらいは、弟と食べられる量はあるから」

 それから「まだ腹が減ってるんだったら食っとけ」と言って侑一に食べるよう勧める。侑一は喉をこくりと鳴らしてから吉平を見上げた。まだ少し怯えが見え隠れしている。吉平は面白そうに笑ってから、侑一の額を軽く小突いた。

「それ食ったら、早く弟のところへ帰ってやれよ。そんで、もう二度と盗みなんてするんじゃねえぞ」

 勢いよく頷く侑一に、満足した表情をしたところで、吉平は自分へと注がれる視線に気付いて目を上げた。高臣もふゆも何も言わなかったが、吉平は「げえっ」と言って先程とは打って変わって表情を奇妙に歪めた。

「その微笑みはなんなのよ、二人して怖いんだけど」

 見守っていただけなのに怖いとは、何とも理不尽な言いがかりだったが、吉平らしい照れ隠しに高臣は内心で苦笑する。

 侑一は美味しそうにフレンチトーストサンドに齧り付いている。手にしているのはツナマヨネーズで、「何でそれを選んだんだ?」と選択した理由や味の加減を尋ねる吉平に、モグモグと口を動かしつつも侑一は素直に答えていた。

「とりあえず、よかったですね侑一くん」

 高臣だけに聞こえるように話すふゆは、侑一と吉平の二人を見つめている。横目でふゆを確認して、高臣は「ああ」と呟いた。

 飢えを感じ、弟を助けるために盗みをはたらいた侑一ではあるが、心の優しい子供であることがわかる。だからこそ、吉平も突き放すことが出来なかったのだろう。

 結局、ふゆの緊張をといたのも、侑一の飢えを満たしたのも、全て吉平の力であった。吉平の作るパンはお腹だけでなく、心まで満たしてしまうものなのだ。それは兄である高臣にとって誇らしく、喜ばしいことであった。吉平のパンは自信を持って薦めることができる、優しい味のする美味しいパンなのだから。

 ただ、その一方で、高臣は自分が情けなく思えた。ふゆに対しても、侑一に対しても、何も出来なかった自分が不甲斐ない。何事にも器用な吉平に対し、何に対しても不器用な高臣は、物事に対して時間がかかったり上手に出来なかったりすることに、自分でも不便だと感じることが多々あった。今回も己の無力を思い知る結果となってしまったことに、思わず奥歯を噛みしめる。

「言いたいことがあるんだったら、ちゃんと言わなきゃダメだよ、お兄ちゃん」

 不意に響いた声にはっとすると、侑一の幼くも真剣な目が高臣をじっと見ていた。

「その方がすっきりするし、えーと、つ、かえ……? が、とれるって言ったのはお兄ちゃんだよ? だからぼく、ちゃんと言ったよ? 本当にすっきりしたから、お兄ちゃんの言ったことは間違ってないって思うよ」

 瞬時に言葉を発することが出来ず、高臣は侑一を見つめた。その態度に不安を覚えたのか、侑一が「ぼく間違ってるの?」と表情を曇らせて呟いた。

「いや、違う。間違ってない……そうだな、侑一にそうやって言っておいて、俺が言わないのはおかしいよな」

 間違っていないと肯定されて、侑一が安堵の笑顔を見せる。その様子にほっとして、高臣はゆっくりと自分の思いを唇に乗せた。

「自分が、不甲斐ないと思ったんだ。侑一を助けたのも、ふゆを助けたのも、吉平の力だった。何の力にもなれていないことが、悔しかったんだ」

 侑一はきょとんとした顔をした。高臣の言葉に疑問を抱くように。

「ぼくはみんなに助けてもらったと思ってるよ? ぼくと朋也を心配してくれて家にまで来てくれたのはふゆちゃんだし、パンを食べさせてくれたのはお姉ちゃんでしょ。それから、傷の手当をしてくれたのはお兄ちゃんだよね? ぼくはみんなに助けてもらったんだよ」

 そうだよね、と同意を求めるように、侑一はふゆを見上げる。ふゆは笑顔で頷くと、高臣に向き直った。

「わたしも、高臣さんが何の力にもなれていないなんて、そんなことは思いません。わたしの緊張をほぐして下さったのは、何も吉平くんだけではありませんよ。深呼吸してみたらいいと教えてくれたのは、高臣さんじゃありませんか」

 小首をかしげ「ね?」と高臣に問いかけるふゆの、なんと優しい笑顔なことか。唐突に泣きたい気分になって、思わず高臣は手で顔を覆って頭を俯けた。

 自分は不器用でわかり難く、相手に感情が伝わりにくいのだとずっと思っていた。いや、それは変わりのない事実ではある。幼い頃から変わることのないこの性格とずっと付き合ってきたのだ。それは自分が一番よくわかっている。

 けれども、そんな不器用な自分の思いが、ちゃんと伝わる相手もいるのだと今更のように理解する。吉平だけがわかってくれればそれでいいと思っていたが、これからは欲が出てしまいそうだ。

「……そう言ってもらえて、ありがたいよ。二人ともありがとう」

 照れくさいと思いながらも、感謝の言葉は伝えたかった。なるほど侑一が言った通り、胸の痞えが取れたなと、改めて高臣は実感した。

「ホント、高臣って面倒くさいヤツだよなあ」

 顔を上げると、侑一の隣で吉平が腰に手を当て、呆れたような表情をしていた。高臣は鋭い目付きで吉平を見る。「お前に言われたくない」と返したら、「そりゃそうだ」と言って吉平は笑った。



 あれから一週間経ったが、その間に侑一が訪ねてくることはなかった。パンが盗まれるという事件も起こっていない。

 吉平は侑一について何も話さないし態度にも出さないが、心の中では気にかけているだろうと高臣は考えた。反対にふゆは、何気ない会話の端にも侑一を案ずるような言葉を何度も呟いた。

 侑一と弟の明也は、ちゃんと食事が出来ているだろうか。吉平が持たせたパンは一日分で、すぐに食せるものはなくなったはずだ。母親が帰宅し、尚且つ二人に食べ物を与えていればいいが、そう上手くことが運んでいるとは限らない。

 吉平は二度と盗みをするなと言ったが、「二度と桜木堂に来るな」とは言わなかった。ふゆや高臣も、侑一を家まで送った際に、困ったことがあったら桜木堂まで訪ねてこいと伝えてはいた。少しでも侑一の手助けをしてやりたいと思う気持ちは、高臣だけでなくふゆも吉平も本物であったのだ。

 何かあったときには、侑一が桜木堂を頼ってくるだろうと高臣は思っていた。だから、未だ訪ねてこない侑一は大丈夫なのだろうと、半ばほっとし、しかし不安も抱きながら日々を過ごしていた。

 そんな矢先のことである。ある日の店の郵便受けに、一通の手紙が入っていた。「さくらぎどうパンやさんへ」という拙い文字が表面に書かれた、切手のない簡素な手紙だった。とりあえず家にあった封筒を使った、といった感じに思えた。裏には「おおたゆういち」と書かれている。

 郵便受けの中に直接侑一が入れたのだろう。前日の午後、桜木堂を閉めるとき最後に高臣が受け箱を確認したが、そのときには何も入っていなかった。ということは、夜から早朝の間に入れられていたことになる。

 朝食は、吉平が受け箱から発見した侑一の手紙の話題で盛り上がった。手紙の内容を掻い摘んでいうと、侑一と弟の明也は児童養護施設に入所することになったらしかった。母親と離れることや知らない人たちと一緒に暮らすことに不安を覚えるが、弟と二人でなら頑張ってやっていけそうだ、というような内容が書かれてあった。そして、今度はお金を貯めて弟と二人で桜木堂へパンを買いにいくと、しっかりとした筆跡で書かれていた。

 ふゆは手紙の内容に大いにほっとしたようで、屈託のない笑顔を見せた。

「今度はちゃんと、お客さんとしてパンを購入しにきてほしいですね」

 微笑むふゆに高臣は頷く。

 本当にそうなったらいいと思う。弟と二人で桜木堂へやってきて、あれこれと悩みながらパンを選んでほしい。そうして、二人でパンを味わって、笑顔になってくれれば嬉しい。

「……侑一くんにさ、何でツナマヨチーズを選んだんだって訊いたら、何て言ったと思う?」

 唐突に、高臣が作ったサンドイッチを見つめながら、吉平がぽつりと口を開いた。

 確かに吉平がそのようなことを侑一に尋ねていたことは記憶していたが、生憎答えまでは耳にしていなかった。わからないといった風に首を傾げるふゆと黙り込む高臣だったが、二人の答えを初めから期待していたわけではなかったらしい。吉平はレタスの入ったツナサンドをじっと見つめる。

「侑一くんさ、お母さんがツナが大好きだからって、言ったんだよね。碌に食い物を与えてくんなくて、家にも全然いなくて、自分らをほったらかしにしてる親なのに、それでも好きだからって。お母さんが好きだから、ぼくも好きなんだって言ってさ。それで選んだって」

 母親が好きなものだから、自分もそれが好き。だから侑一はツナマヨチーズを選んだ。たったそれだけの理由で。けれど、きっと侑一にとっては“たったそれだけの理由”ではなかったのだろう。辛い仕打ちを受けていたはずの侑一は、それでも母親のことが好きだったのだ。

「俺にはよくわかんねえなあ、その気持ちが」

 ようやく吉平はサンドイッチに齧り付く。憂い顔になったふゆが物言いたげに見つめると、視線に気づいた吉平は咀嚼しながらにやりと笑った。

「これは俺の分だから、ふゆちゃんにはやんねえよ? あ、ほら、高臣の皿にまだ残ってるからそれ貰いなよ」

「え、いえ、結構です! もうお腹いっぱいですから! これ以上満腹になってしまっては動けなくなってしまいますので!」

 いつもの調子で話す吉平につられるように、ふゆも元の明るさを取り戻す。二人のやり取りを視界の隅において黙々と口を動かしながら、高臣は吉平の言葉を反芻していた。

 ――俺にはよくわかんねえなあ、その気持ちが。

 それは多分、俺も一緒だ。

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