08 わかりやすいひと
ふゆが男の子を連れて桜木堂に戻ってきたのは、午後二時を大分過ぎた頃だった。店を飛び出して、約一時間後のことである。
丁度光汰朗がアルバイトにやって来たので、高臣は彼と交代する形で休憩室に入った。丸椅子に座って項垂れていたのは件の男の子で、隣には困惑した表情を浮かべるふゆが立っていた。厨房から一旦出てきた吉平が、腕を組んで男の子の真向いに座っている。とりあえず、高臣は吉平の斜め後ろに佇んだ。
黙り込む男の子を気遣う気配を漂わせて、ふゆが口火を切る。
「この子、弟のためにパンを盗っていったようで、悪戯とか、悪意があってやったことではないみたいなんです。ですから、その、あまり責めないでやってくれませんか?」
どうやらこの男の子は、桜木堂のパンを盗んでいたみたいだった。あの時はレジ業務をしていたこともあり、気付くのが遅れた高臣はパンを持ち去る場面を確認出来なかったが、ふゆはそれを目の当たりにしていたのだろう。追いかけるふゆの姿を見て、もしかしてと見当をつけていたが当たりだったようだ。
ふゆはこの子が住んでいる近所のアパートまで行ったみたいだった。そこには力なく座り込む子供がいた。部屋の中はゴミが散乱しており、食べるものも何もなかったという。眉をひそめるふゆは、自分のことのように辛いといった表情をして語った。想像するしかないが、かなり悲惨な状況であったのだろう。
「理由はどうであれ、犯罪は犯罪だよ。どんな思いでパンを作って売ってるのか、これくらいの子供だって考えたらわかるでしょ」
吉平の口調には、子供に対する配慮や優しさといったものが一切感じられない。淡々と話すその様子がかえってひやりと肌寒い。
「で、盗ったパンはどうしたの?」
男の子は膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめただけで、口を開こうとしない。
「すみません、わたしの判断で、この子とこの子の弟に食べさせました……」
恐縮するふゆを見つめて吉平が嘆息する。大きく吐く息が、狭い休憩室に落ちて重苦しく淀む。しかしそれを払うように、伏せ気味だった顔を上げてふゆが身を乗りだした。
「この子は――
そこまで言って、ふゆは深く頭を下げる。額が膝頭に付いてしまうのではと思うくらい、深く深く低頭する。
「ふゆ……」
出会ったばかりの男の子に身骨を砕くふゆを見て、何故かダメージを受けてしまった。必死に侑一を守ろうとするその姿勢が高臣には眩しくて目に痛い。
「侑一くん、だっけ? ふゆちゃんがこんなに言ってるのに、きみは一言も喋ってくれないわけ?」
吉平の声にびくりと肩を震わせて、侑一は恐る恐る面を上げる。眉根を寄せて唇を噛みしめているが、涙は流れていなかった。泣くまいと、必死に堪えているようだった。
「……ちゃんと、わかってるんだよな。ちゃんと、言いたいんだよな。だったら、口に出してみろ。その方がすっきりする。痞えが取れるぞ。大丈夫、怒鳴ったり、殴ったりなんてしないから」
小さな侑一を見つめていたら、高臣の口から自然と言葉が溢れた。
一瞬目を見開いてから、侑一はくしゃりと顔を歪ませて大粒の滴を零れさせた。両手で目元を拭い、しゃくり上げながら懸命に言葉を紡ぐ。
「ごめんなさい、ごめんなさい……! パンを勝手に盗っちゃってごめんなさい……!」
堰を切ったように溢れ出る涙が、侑一の頬を伝って顎に滴り、服の上に染みをつくる。
高臣の胸にも、じわりと染みて広がっていくものがあった。懐かしさに眩暈がしそうだ。確かに高臣にも、子供の頃があったのだ。遠い昔の記憶が、仄かに浮き上がって、すぐに沈んだ。
「まあ、こんな小さな子がやったことだから警察には通報しないけど、一応家には連絡するよ」
吉平はようやく泣きやんだ侑一に、母親の連絡先を聞き出そうとしたが、仕事先の住所や電話番号、それに母親の携帯番号などわからないと答えた。母親は携帯電話を持っているようだったが、侑一自身はいまどきの小学生のように携帯電話を所持していないらしかった。当然、電話をかけることもないので、番号など知りようがないというわけだ。因みに、住んでいるアパートにも電話は置いていないと答えた。
「家電も、いまは繋いでないって家庭は多いみたいだしなあ」
事実、桜木堂は店舗経営のために必然的に電話を繋げているが、高臣と吉平の住むアパートについてはインターネット回線を繋いでいるのみで、固定電話は設置していない。個人が所有する携帯電話だけでことが足りてしまうからだ。
椅子に深く座り直す吉平は天井を見上げて頭を掻く。ぼけっとした、何食わぬ顔をして「ちなみに」と呟く。
「侑一くんさ、きみ何を盗んでったの?」
先程より冷たさがさほど感じられなくなった声に安心したのか、侑一は小さい音量ながらもはっきりと答えた。
「黄色い、サンドイッチ。ツナが入ってたヤツと、チョコのクリームが入ってたヤツ」
侑一が言っているのはフレンチトーストサンドのことだろう。それを選んだのは、手にしてそのまま持ち出せる外形だったからかもしれない。桜木堂と名の入った透明のフィルムで下に敷いたアルミごと個別包装していたので、手で掴んでも汚れにくい。
もっとも、美味しそうだと見た目で判断し選んだという理由も大いにありえるだろう。飢えた弟に少しでも美味しいものを食べさせてやりたいという気持ちは、兄という立場の高臣にも十分理解できる感情であった。たとえ同年齢であっても、“お兄ちゃん”とからかい半分に言われても、高臣はかけねなしに兄だった。だから、侑一に同調しているのかもしれない。
「朋也と半分こにして両方とも食べたけど、美味しかった。すごくすごく美味しかった。あんなに美味しいもの、久しぶりに食べた」
感想を伝える侑一は、吉平を見つめる瞳を逸らさなかった。この気持ちが伝わって欲しい、信じてほしいと願う子供ながらの切な思いが、ひしひしと高臣には感じられた。
吉平は視線を上に向けたまま、「ふうん」と興味なさげに呟く。
「このお店の前を通るとき、いつも思ってたんだ。美味しそうなパン屋さんだなあって。一度でいいから食べてみたいなあって。だから、朋也がお腹が空いて動けなくなっちゃったから、なんとかしなくちゃと思ってここまで来たんだ。美味しいパンを食べると元気になるかなと思って……本当は二十円持ってたんだけど、転んだときにどっかいっちゃって……だから盗んじゃったの。本当にごめんなさい」
ぺこりと頭を下げる侑一の小さな肩に、ふゆが手を乗せる。労わるように優しく撫で、顔を上げる侑一に微笑みかける。
正直、何事もなく店までたどり着けていたとしても、所持金二十円では購入できるものは何もなかった。桜木堂で一番安価なのは三十円で販売している「ミニクロ」という名の、小さなクロワッサンになる。侑一の掌につり合うくらいの一口サイズのもので、大きさも値段も手軽な規格のものである。それ一個を買うこともできなかったのだ。
突然、吉平がすっくと立ち上がった。振り向きもせず一言だけ「仕事に戻るわ」と残して吉平は休憩室から出ていく。吉平の行動はいつも唐突である。さっさと立ち去った吉平に驚いたのか、侑一が不安げな表情を浮かべてふゆと高臣を窺う。
「……そういえば、転んだときにどこか打ったりしてないか?」
とりあえず、高臣は侑一が怪我をしていないか気になり問いかけた。膝のあたりが汚れていたのが気がかりだったのだ。そういえば、という感じで、侑一は左右の膝に手を乗せる。瞬間、釣り針が引っかかったみたいに口を引き攣らせ眉根をきゅっと寄せる。やはり傷を負っているようだ。
「消毒しないとな。確か薬箱がその棚にあったはずなんだけど……」
事務机の隣にある棚を漁り始める高臣に倣ってふゆも一緒に探し始める。高臣とふゆの背に向かって「あの」と、侑一は戸惑いの声をかけた。
「い、いいよ別に。そんなに痛くないから。ぼく大丈夫だから。それよりさっきのお姉ちゃんまだ怒ってたよね。ぼくもう一度謝った方がいいのかな」
思わず振り返るふゆの隣で、高臣は探す手をとめずに言った。
「消毒しておかないと、あとで化膿するかもしれない。そうなったら痛い思いをするのは自分だぞ。それから吉平は……さっきのパン職人の“兄ちゃん”は、もう大丈夫だよ。怒ってない」
「本当? 怒ってない?」
“お姉ちゃん”発言をさらりと訂正しておいたが、侑一は吉平の怒りの有無が気になって仕方がない様子だった。改めて指摘するすることもないだろう、どうせ吉平は女性に間違えられることに慣れているのだから、と高臣はその問題は放っておくことにする。
「ああ、本当だ。今頃はにこにこ顔で調理してるはずだ」
高臣は探し当てた薬箱を両手で掴むと侑一の前に屈む。ふゆが見守るようにそっと隣に並んだ。
「でも、さっきのを見たあとじゃ怒ってないなんて信じられないよ」
半信半疑で高臣を見る侑一の頭をくしゃりと撫でる。真っ黒な柔らかい髪の毛から、冬の匂いが仄かに香る。
「嘘だと思うなら、もう少しだけここで待ってろ。さっきの兄ちゃんがいいものをプレゼントしてくれるはずだから」
「いいもの……?」
瞬きを繰り返す侑一に、高臣は確信を持って頷いた。
一拍ほど間を置いてから、両手を打ちつけ「あ!」とふゆが声を上げる。高臣同様に屈みこみ、ぎゅっと侑一の手を握る。
「侑一くんきっと喜ぶと思いますよ! だって、わたしも嬉しかったですから」
声を弾ませるふゆは侑一に笑いかける。それから高臣に振り向き、「吉平くんってわかりやすい人ですね」と言って微笑んだ。
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