07 初めてのお仕事

 午前七時半。開店一時間三十分前の桜木堂の店内で、高臣は緊張した面持ちのふゆを眺めた。

 高臣と同じ格好をしているはずなのに、ふゆの姿はまた違って見えた。新鮮な気持ちを抱くのは、いつも目にするのがアルバイト店員の光汰朗の制服姿だからだろうか。あるいは、桜木堂の制服を、女の子が着ているのを初めて見たからかもしれない。少し大きすぎるようだったが、それでもふゆの白い肌に薄ピンクのシャツがよく似合っていた。

 前をしめるボタンと襟首にはしる一本の線が焦げ茶色のショップコートは、淡い薄ピンク色で、さながら桜の花弁のような色をしている。ハンチング帽とショートエプロンも焦げ茶色で、ズボンは黒。それが桜木堂ショップ店員の制服であった。店長である吉平がこだわったのはピンク色だ。桜木堂という名にマッチするようにと、自ら選び抜いた制服である。

 チェーン店のような、広く展開する大手の店となると、一から制服の素材や色を選び、使いやすさ着やすさ、見た目の清潔さなどをトータルでデザインし、店のカラーを作るのだろう。しかし個人で営業する小さなパン屋、ここ桜木堂では大がかりに費用をかけることもできない。けれど、ある程度のこだわりは持ちたいという吉平は、制服の専門店を渡り歩き、時にはインターネットで探し回り、ようやく思い描くものに近い制服を見つけることに成功したらしかった。

 因みに、吉平のコックコートはごく一般的な白いものである。コック帽からズボンまで全身白一色であるが、首に巻いてあるスカーフタイだけは桜色であった。そこは譲れない、桜木堂の“カラー”なのだ。

「い、いまから緊張してきました……!」

 制服に着替える前はそれほどこわばっていなかったふゆの表情が、いまでは青ざめ硬くなっている。学生時代から高臣は、心臓が口から飛び出しそうなほど張りつめていても「緊張しているようには見えない」と言われ続けていたのだが、ふゆの場合そんなことなど言われもしないだろう。

 慣れない仕事に対しての不安は、高臣にもわかる。高臣の場合、接客業には向いていないと思っていたので尚更気がかりだったことを覚えている。いまでは接客をしていて手に汗握るほど緊張することもなくなったが、始めのうちは心臓がバクバクと鼓動していたものだ。ふゆの緊張も高臣には理解できるものだった。それゆえ、ふゆの緊張をほぐしてやりたいと思ったのも当然の節理であった。

 だけど、どうすればふゆの緊張をとくことができるんだ。

 なにか上手い言葉でもかけてやることができればいいのだが、生憎パッと閃くほど、高臣は話術に長けているわけではなかった。とりあえず、高臣は自分が緊張したときに試している方法をふゆに伝授することにした。

「基本的な方法だけど、深呼吸してみるといい。深く息を吸って吐き出すと、リラックスできる。いくらかは落ち着くはずだ」

「深呼吸ですか……分かりました、やってみます」

 ふゆは頷いてから、大きな呼吸を繰り返す。スーハー、スーハーと深呼吸を繰り返していると、奥の厨房から吉平が姿をあらわした。手にした大きなトレイの上に、四分の一にカットされたいくつものトーストが乗っている。

「本日はフレンチトーストデーにするからさ。食パンで作るフレンチトースト、定番だけだと面白味に欠けるから色々とバリエーションを考えてみたんだけど、ちょっと試食してくんない?」

 吉平の持ってきたフレンチトーストは、トーストが二枚に重ねられており、その間に様々な具材がのぞいていた。さながらサンドイッチのようで、フレンチトーストサンドといったところだろうか。

「俺の右手から、クリームチーズと柚子ジャム、ラムレーズン入りカスタードクリーム、ピーナッツバターとチョコクリーム、ツナマヨチーズ、ポテトサラダ。あとは定番も出すつもりなんだけどまあそれは置いといて……意見をちょーだい、お二人さん」

 急遽作ることを決めた吉平だが、そこはパン職人なだけあって短時間で色んな種類を考案していた。朝食に食べたものは中まで卵液のしみ込んだ、ふわふわジューシーな食感がウリの一般的なものであったが、吉平のつくったこれは表面にバターと砂糖が塗られた、外はカリッと中はもちっとした、パン屋ならではのフレンチトーストである。具材は冷めても美味しいものを選んでいるのだろう。

「わあ! すごいです! どれも美味しそうです!」

「断面を見ただけでも、美味そう、食べたいって思ってもらえないとね、やっぱり」

 最初にどれを食べようか迷っているふゆの表情は、先程のこわばったものではなくなっていた。フレンチトーストサンドに釘付けになっている目はいきいきとしており、上気した頬は淡い桃色で、きゅっと上向きになった口角、弾む声音が、ふゆの緊張が取り払われていることを示していた。

「ううっ、お、美味しいです……!」

 一口食べたふゆが、蕩けそうな表情を浮かべている。手にしているのはクリームチーズと柚子ジャムのサンドらしい。クリームチーズは柑橘系のジャムと相性がいいということは、高臣も吉平から教わった組み合わせである。

「美味しい以外にも感想が欲しいんだけど」

 感動するふゆに、吉平は「味について意見が欲しい」と容赦なく尋ねている。その様子を視界の端にとめながら、高臣はポテトサラダを選んだ。大口を開けて一息に全て口へ入れると、甘さとしょっぱさが合わさった旨味が舌を喜ばせた。

 マッシュされたごろごろ食感のジャガイモと、もちもちとしたパンがよく合っている。日持ちさせるためにパンの内側まで完全に卵液が染み込んでいないので、甘ったるさや重みを感じることがない。それが具材の塩気と程よい調和を成していた。

 美味い。やっぱり吉平の作ったパンは何でも美味しい。

 身内贔屓ととられてもおかしくない感想を抱いた高臣だったが、一気に全部口の中に入れたのが災いしたのか、喉に詰まって「ごふっ」とむせてしまった。

「高臣さん、大丈夫ですか!?」

 何とか飲み込み咳き込む高臣に、気付いたふゆが駆け寄って背中をさする。情けないと思いつつ、ふゆの好意を遮るのも悪い気がして、高臣は黙って甘んずる。

「おいおい、何やってんのよ、“お兄ちゃん”。むせ返るほど美味かった? それとも動揺しちゃった?」

 苦笑する吉平は、呆れながらも面白がって高臣を見ている。内を見抜こうとする意思が滲んで見えて、高臣は思わず眉間に皺を寄せた。

 一口で食べられると思ったから、一気に放り込んだだけだ。ジャガイモと食パンが、思った以上に喉を通らなかっただけであって、何かに気を取られていたとか、ましてや動揺しただとか、そういうことではないのだ。

 ただ高臣は、ふゆの緊張を取り除くことが出来なかったということに心残りを感じていた。

 飲み込んだ後の口の中はまだ、甘くてしょっぱかった。



 桜木堂で働くことは、ふゆにとって初めての仕事になるらしい。人間が生活していく上で労働は不可欠なものであるということは、妖であるふゆもわかってはいるらしい。いままで働く機会がなかったのだと答えたふゆは苦笑まじりに、「わたしは運がよかったのです」と言った。

 気になる発言だったが、安易に触れてはいけない気がして、高臣はあえて深く追求しなかった。普段なら「どういうこと?」と疑問を口にしそうな吉平でさえ問わなかった。それは高臣同様吉平も、ふゆの笑顔の翳りが気になったからかもしれない。

 仕事をする上で覚えてもらわなければならないことは多々あるが、まずは店の雰囲気や一日の流れを掴んでもらおうということになり、ふゆにはとりあえず客引きをしてもらうことになった。年若い少女が居るだけで、店内は一気に明るく華やいだ雰囲気になる。朗らかな笑顔と清らかな声つき、そして柔らかな応対のおかげで、ふゆは常連客である奥様方のハートをがっちりと掴んだようだった。早くも「可愛らしい」と気に入られている様子だ。初めての接客はいまのところ順調のようである。

 俺よりふゆの方が接客に向いている。

 ふゆの笑顔には、人の心を穏やかにし、優しい気持ちにさせる力がある。天性の素質があるのかもしれない。高臣が持ちえることのなかったものである。

 レジカウンター内に居る高臣の視線の先では、ふゆが常連客の一人である老女に丁寧な態度で受け答えをしていた。老女にしてみれば孫のような見た目のふゆは、可愛らしくてしかたがないのだろう。どのパンがおすすめだとか、このパンにはこの食べ方が美味しいから試してみろだとか、新人店員であるふゆに親身になって教え込んでいる。ふゆもまた真剣な表情で頷くので、老女も気分がよいのだろう、笑顔が絶えない。

 その様子を微笑ましく眺めていると、新しい客が入ってきた。まだ六・七歳程度の男の子である。この寒い日に、上着も羽織らず薄い長袖とズボンだけで、マフラーも手袋もしていない。外で遊びまわるような、元気いっぱいの少年という雰囲気でもない。首をすくめ静かに店内を見回している様子は、半分怯えているようにも見える。

 寒そうだなと思いつつ、お使いでも頼まれたのだろうかと考える高臣だったが、男の子の服やズボンに雪や泥が付着していることにふと気付いた。腿や膝の辺りなど、雪と泥にまみれて汚れている。転んでしまったのだろうか。

 ふと影に気付き視線を元に戻すと、いつの間にか目の前にふゆと会話をしていた老女が立っていた。忽然とあらわれたように感じたのは、男の子に気を取られていたからだろう。老女は「お会計お願いしますね」と言って満足げな顔を高臣に見せる。

「ありがとうございます、お預かりします」

 気を取り直しつつ、高臣は一つ一つパンの値段をレジに打ち込んでいく。

「四百二十円のお買い上げでございます」

 高臣が合計金額を読み上げた時だった。

「あっ……! 待ってください!」

 店内で大きく声を上げたのはふゆだった。何事かと思って視線を送ると、ドアベルが鳴って店の扉が閉じられたところだった。店から飛び出していく人の姿がちらりと目に映る。先程の男の子だ。男の子は随分慌てていたようで、すぐに店内から見えなくなってしまった。

 呆気にとられたように立ち尽くすふゆだったが、しかしすぐさま表情を引き締め、男の子を追おうと桜木堂から出て行こうとする。

「っ、おい、ふゆ!」

 思わず叫ぶ高臣を無視して、ふゆは脇目も振らずに駆け出していった。再びドアベルを響かせる扉がばたんと閉まる。反対にぽかりと口の開いた高臣は扉を見つめるしかなかった。

 代金を支払うことを忘れて後ろを振り返りことを見つめていた老女は、やがてゆっくり正面を向くと高臣に尋ねた。

「……それで、おいくらだったかしら?」

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