06 フレンチトースト
砂糖と牛乳が混ざった卵液によく漬かった鮮やかな黄色い食パンが、フライパンの上でじゅうじゅうと小さな音を立てて焼かれていく。蓋をして、焦げないように弱火でじわじわと焼いていくのがコツである。甘い香りが部屋に立ち込め、高臣の食欲をそそる。ふゆがフライ返しで長方形に切った食パンを裏返すと、上手い具合に砂糖の焦げ目が出来ていた。黒くなりすぎておらず、丁度良い塩梅である。
「上手いな、ふゆ」
ふゆの手際の良さに高臣は驚いた。まさかこれほど上手くやるとは思わなかったのだ。いままでのふゆを思い返すに、不器用というより、器用なことが苦手なのでは、と思われる節が幾らかあった。それだけに、料理の手さばきは危なっかしいに違いないと思い込んでいたのだ。しかしそれは実に勝手な想像だったと恥じ入って、高臣は密かに内心でふゆに詫びを入れた。
「わたし、フレンチトーストが大好きで、何度も作ったことがあるのです。だから、それなりに上手に出来るのだと思います」
「そんなに何度も作ったことがあるのか」
「はい。何度も何度も、失敗を繰り返しながら作りました。どうしたら焦げ付かず、良い焼き色になるだろう。どうしたら、ふんわりとした食感、優しい甘さになるんだろうって。試行錯誤しながら、何度も作っていました」
幾度も調理に挑戦するほどということは、ふゆは数あるパンの中でもフレンチトーストが一番の好物なのかもしれないと思った。語るふゆの瞳には、懐かしむような色が見え隠れしている。
「美味しいって言ってくれるのが嬉しくて……」
小さく呟くふゆの横顔を見た瞬間、玄関の扉が開かれた。玄関を開ければ即台所である。軽やかな足音をならして、吉平が「腹減ったー」と声を上げて入ってくる。
「うはっ、なにこの量は! アンタら、これ全部食う気なの?」
振り返れば、吉平がテーブルの上に視線を釘付けにしていた。それもそのはずで、高臣とふゆは、フレンチトーストを大量生産していたのだった。大皿の上に積み重ねて置かれたフレンチトーストは、さながらタワーのようになっていた。ほんのり湯気をのぼらせる黄金色のタワーは、窓から差し込む淡く柔らかな朝日のもとで、神々しく聳り立っている。
「崩れないように積み重ねるの、意外と難しかったです。ね、高臣さん」
ふゆの言葉に高臣が頷くと、半分引き攣った呆れ顔で吉平がねめつけた。
「そんなこと誰も聞いてないから。高臣も何でそう大雑把なんだよ。こういうところは無頓着というかいい加減というか……つーかこれ、一斤以上はあるだろ。へたすりゃ三斤あるんじゃねえの?」
「家にあった食パン全部使いきったから、三斤以上あるかもしんない」
「……へえー、そうですか」
心底呆れ返ったような、心のこもっていない返事をして吉平は席につく。ナイフとフォークを使ってタワーの上から自分の分のフレンチトーストを取り分けると、テーブルに置いてあった瓶入りのメープルシロップを手に取った。パンにかけるのかと思いきや、吉平はそこで手を止めると、並んで立っていた高臣とふゆの二人を仰いだ。
「見つめられながらだと食べにくいんですけど。二人も早く座ったら?」
吉平の言葉を受けて、何気なくふゆへ視線を向けると、顔を見合わせる形となった。ふゆが微笑みかけるので、高臣もつられて口元を僅かに緩める。
吉平に促され、さっそく二人は椅子に腰をかけた。普段は高臣と吉平の二人きりの食卓なので、椅子も二脚しか必要ないのだが、来客用としてもう一脚購入していたのが良かった。高臣と吉平はブラックコーヒーを、ふゆはコーヒー牛乳を用意して、お世辞にも大きいとはいえない丸テーブルを囲んで、三人の朝食が始まった。
一番にフレンチトーストを口にしたのは吉平だった。メープルシロップをかけるのかと思いきや、まずはそのままの味を確かめるように口に含む。ふゆが不安そうに見つめるなか、吉平はさして間を置かず問いかけた。
「このフレンチトースト、ふゆちゃんが作ったの?」
「はい。高臣さんにも手伝って頂きましたが、大体はわたしが作りました」
ふゆはそう言ったが、このフレンチトーストは全てふゆが作ったといっても過言ではない。高臣がしたことといえば、材料や器具を揃えただけである。手伝いをしたうちにも入らないだろう。
「美味いよ、これ。作り慣れてるって感じがする」
言って、吉平はどんどん口の中にフレンチトーストを放り込んでいる。早朝から仕事を開始する吉平は、朝食をとる時間ともなるとそれはそれは空腹になるらしく、朝っぱらからよく食べる。朝から重いものも食べることのできる胃袋を持つ吉平は、健康体そのものである。
フレンチトーストタワーを見た時には呆れた表情をしていた吉平だが、いまではそんなこともすっかりさっぱり忘れ去ったかのように口を動かし続けている。やっぱり大量に作っておいてよかった……と、一安心する高臣の斜め前で、ふゆが安堵の溜息を吐いた。
「よかったです。本職の方に美味しいと言って頂けて、ほっとしました。実は吉平くんに食して頂くことに、一番緊張していましたから」
「緊張してたの? 確かに俺は本職の方なんだけどさ、ずぶの素人相手に難癖つけたりしないよ。玄人となったらまた違ってくるけどね」
「そ、そうなのですか」
ふゆは僅かに身をこわばらせる。吉平の物言いは往々にして遠慮がない。
「そりゃあね、ライバルの作ったパンともなると、目だって舌だって厳しくなるよ」
「わたし、ずぶの素人でよかったです……!」
胸を撫でおろすふゆに、吉平は笑顔で大げさに頷く。純一無雑なふゆに半分戸惑い、半分感心しつつ、高臣もフレンチトーストを味わった。
卵液がしっかりと食パンにしみ込んでいて、噛むとふんわりとした柔らかな食感とともに甘さが口中に広がる。甘すぎることもなく、かと言って物足りないということもない。丁度よいと思える、心地よい甘さであった。
「うん、美味い」
高臣の口から素直な感想が零れた。自分の舌は吉平のパンを食べ続けていることで肥えていると高臣は自負しているのだが、ふゆの作ったフレンチトーストはお世辞なしに美味しいと思った。口に出して、伝えたいと思ったほどに。
こちらを見つめている視線を感じて高臣は目を向ける。ふゆがきょとんとした表情で高臣を見ていた。
「美味いよ、ふゆ」
面と向かってはっきり言うと、ふゆはふにゃりと笑み崩れる。それを見て、似ても似つかないはずなのに、フレンチトーストみたいだ、と高臣は思った。
「なーんかふゆちゃんに触発されちゃったな。今日は俺もフレンチトースト店に出そっかな」
腹が満たされ満足したのか、吉平は束の間の休息を楽しむようにコーヒーを啜る。椅子の背に凭れ、だらしなく足を伸ばしている。
フレンチトーストタワーは、三分の二程度が三人の胃袋におさまったが、そのほとんどを吉平が平らげてしまった。高臣は吉平とは違い、朝はあまり食欲が湧かないのだが、それでも今日はいつもより多い量を食した。おかげで少し胸焼けがする。
「吉平くんが作ったフレンチトースト……!」
食器を流しに持っていこうとしていたふゆが、吉平の言葉に反応する。もしいま犬の姿だったなら、耳をピンと立たせていたことだろう。
「食べてみたいです! 昼食に、是非とも頂きたいです!」
横目見るふゆの瞳が期待に満ち輝いている。一心に見つめるその姿から、食器を置くことより何より、吉平に意識が向かっているのがわかる。
「うーん、やっぱりやめとこうかなあ。どうしよっかなあ」
本気で迷っているわけではなく、ふゆの反応を見て楽しむために、吉平は態と悩むふりをしている。お願いします、と真面目な顔をして頼むふゆはとても健気であった。
「……吉平」
高臣は立ち上がり、自分の食器を片づけながら、窘めるように吉平に呼びかける。流しに皿やフォークを移動させ終えると、後ろから、堪えていたものを吹き出すような吉平の笑い声が聞こえた。
「でもさあ、ふゆちゃん。朝食に食べたんだから、午後は別のもの食べたいんじゃない? 流石に二食フレンチトーストは飽きるでしょ?」
「そんなことはありません」
ふゆの言にははっきりとした力強さがあって、思わず高臣は振り返る。
「吉平くんが作ったフレンチトーストにとっても興味があります。想いを込めて調理した吉平くんのフレンチトースト、是非とも味わいたいです。私が作ったフレンチトーストを美味しいと言ってくれた吉平くんのその味は、どんな味がするんだろうって考えると、ドキドキワクワクします。それに……」
言葉を切り、そして次には笑みを湛える。
「わたし、実はフレンチトーストが大好きなんです。だから三食フレンチトーストだって、平気です! へっちゃらです! どんとこいっ! です!」
胸を張って拳で胸元を叩くふゆを、吉平は目を瞠ってしばし見つめていたが、程なくして立ち上がると食べ終えた自分の皿やカップを流しへ置いて、高臣に「あとよろしく」と言って部屋を去ろうとする。無視をするように、吉平はふゆに対して何のリアクションも起こさない。焦ったふゆが慌てて後ろ姿に呼びかけたが、手をひらひらとさせただけで、吉平は玄関から出て行ってしまった。
高臣は食器を洗う手をとめ、ふゆを窺う。顔のパーツ全てが下がってしまった表情は、見る者まで胸が痛んでしまうような悲しげなものだった。しょんぼりと扉を見つめるふゆはぽつりと呟く。
「何か気に障るようなことを言ってしまったのでしょうか……」
「ふゆ、覚悟しておけよ」
ふゆはゆっくりと高臣を振り仰ぐ。大きな瞳に、不安な色が目一杯広がっていた。あまりにも素直で真っ直ぐなそのさまに、思わず苦笑してしまいそうだ。
「今日一日は、フレンチトースト祭りだ」
高臣の発言に、ふゆは目をパチパチと瞬きさせた。
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