05 寝覚めの困惑
深い深い底から、ゆっくりと意識が覚醒していく。ぼんやりする頭が少しずつ冴えていき、瞼が開かれる。
布団の上で仰向けになる高臣の目に最初に映ったのは、薄っすらと汚れた天井であった。そののち視界の右側で、黒い何かが蠢いているのが見えた。
右頬に違和感が生じている。湿った生温かいものが肌の上を滑り、右耳にはぴちゃぴちゃと水音が響いた。それは高臣の頬を押し上げてはくすぐったさを引き起こし、顔を濡らしていく。
こそばゆい感覚に高臣は身動ぎした。手で右頬に触れてみると、指に水気を感じる。未だぼうっとする眼で見上げると、黒い影が高臣を覆った。上から覗き込まれているのだと、すぐには気付かなかった。
「高臣さん、そろそろ起きる時間ですよ」
「……んん」
黒い影が愛らしい声を出して高臣を呼んでいる。高い声質だが優しい声音で、寝起きの耳にも痛くない。まだもう少しだけと我が儘を言ってしまいたくなるような、そんな穏やかさがある。高臣は開いていた瞼を再度閉じてしまい、眠りの世界へ引きずり込まれていく。
「高臣さん、起きてください」
誰だ、俺を呼ぶのは。エリカ……なんてことはないか。アイツとはもう何年も会っていないし。
声の主が誰なのか推測して、昔付き合っていた彼女のことが不意に思い出された。未練など一つもないはずなのに、頭の片隅にはしぶとく残っていたらしい。
違う……ということは吉平の彼女か? あいつ、俺が居るときに女を連れ込むなんて何考えてるんだ。
まだ半分眠ったままの高臣は、判断能力が低下していた。起き上がるにはまだもう少し時間がかかりそうだとぼんやり思う。
眠い。まだもう少し眠っていたい。
再び眠りに落ちていく高臣の頬に、またもやくすぐったい温かな感触が宿る。何度も何度も、しつこいくらいにそれが頬に押し付けられ、堪らずそれを手で押しのけようとしたら、また声が降ってきた。
「起きてください、高臣さん」
「高臣ー、起きないと今度は齧られるぞー」
少女のあとに続けられた、笑いを含んだ声音は、随分と聞き覚えのあるものだった。
高臣はようやく意識をはっきりさせ、目を見開いて影を見上げた。こちらを見つめる影が微笑んだのが分かった。
「おはようございます、高臣さん」
瞬間、がばりと布団から上半身を起こす。高臣の隣にちょこんと正座をしていたのは、虹彩の大きな、黒髪の少女であった。一糸纏わず、白い素肌を惜しげもなく晒してにっこりと笑んでいる。
慌てて視線を身体から外し、高臣は俯いて額を押さえた。
そうだ、そうだった、忘れていた。昨日からこの子がうちで暮らすことになったんだった。
ようやくこの少女が誰なのか思い出すと、高臣の口からは溜息が零れた。
家の前で倒れていた黒い子犬――もとい、妖の少女・ふゆだ。
昨夜眠る段取りをした際のことである。少女の姿で布団に入ろうとしたふゆに、犬の姿で眠るようにと高臣が必至に訴えたのである。なぜ犬にならなければならないのか、いまいち理解出来ていないようだったが、ふゆは「頼むから」とせがむ高臣に、思案顔をしつつも了承し、犬に変化してから眠った。
朝になったので、少女の姿に戻っていたことは、まあいい。問題は、なぜ服を着ていないのか、ということにあった。そこまできちんと言っておかなければならなかったかと、高臣は頭痛がする思いだった。
それに先程、頬に感じたあの温かさは――
「ふゆ……お前、俺にさっき何したんだ」
「高臣さんを起こそうと思いまして、顔を舐めておりました。吉平さんから伺ったところ、高臣さんは朝に弱いということでしたので、微力ながら目覚めの手助けが出来ればよいなと思った次第なのですが……ダメでしたか?」
語る口調は最後にいくにつれて小さくなり、語尾は不安の色を目一杯響かせた。悲しい顔をしているのだろうと安易に想像できるだけに、高臣はまた溜息を吐きそうになる。
とりあえず、ふゆの問いには何も答えず、高臣は台所にある椅子に座ってこちらを見ている吉平を睨みつけた。全ての元凶はきっと吉平に違いないと思ったのだ。しかし当の吉平はというと、高臣の視線も何のそので、涼しい顔をしていた。
「ふゆちゃん、言ったじゃん。俺のことは“くん付け”してって」
「あ、すみません吉平さ……くん」
律儀に謝り、言い直すふゆに満足そうに頷いて、吉平は高臣を見つめる。
「なんで高臣はそんな怖い顔してんのよ。折角ふゆちゃんが起こしてくれたっていうのに」
「どうせお前がふゆに変なことを吹き込んだんだろ」
「違いますー俺は何も言ってませんー」
子供みたいに唇を尖らせる吉平に呆れていると、ふゆが言葉を継いだ。
「あの、これはわたしが勝手にやったことです。だから吉平くんを叱らないで下さい。咎められるべきは、わたしだけなのですから」
切実な声で訴えかけるふゆを隣で感じ、高臣は複雑な心境になった。別にふゆを怒っているわけではない。責めているわけでも、非難しているわけでもないのだ。ただ、事態についていけないことに困り、焦ってしまっているだけなのであった。
高臣は布団から出て立ち上がると、壁にかけたハンガーに吊るしておいた紺のコートを手にとった。項垂れているふゆの後ろ姿にかけてやると、はっとした顔が振り向いた。その視線を一瞬で振り切ると、高臣は洗面所へと向かう。途中、椅子に座っていた吉平が立ち上がり、すれ違いざまに高臣の肩を叩いた。
「俺、そろそろ店に行くから。あとよろしくね、“お兄ちゃん”。あんまふゆちゃん泣かすんじゃねえよ」
場を取り成すということをするはずもなく、吉平は軽やかな足取りで部屋を出ていく。
いつも高臣より先に起きだしてパンの仕込みを開始する吉平なのだが、今日は少しだけ部屋を出るのが遅い。それはふゆと高臣の一連のやり取りを、面白がって見ていたからに違いなかった。
扉から出ていく吉平の後ろ姿を呆れた表情で見つめてから、高臣は布団を敷いている奥の部屋をちらりと覗いた。未だ俯いているふゆの横顔を見つめて、どうしたものかと頭を悩ませる。しかし上手い言葉が浮かんでくるはずもなく、高臣は風呂場へと逃げ込むのだった。
高臣は朝が弱い。従って、ぼんやりした頭をはっきりさせる為に、毎朝行っていることがある。シャワーを浴びることだ。所謂“朝シャン”というものをしないと、どうにもしゃっきりとしないのである。
今日もいつもと同様にシャワーを浴びて、軽く頭を洗ってから風呂から出る。あとでパン屋の制服に着替えやすいように軽い部屋着を身に纏い、短髪をガシガシとタオルで拭うのもそこそこに、高臣は台所に立った。
吉平が早朝から仕込みを開始するのに対して、朝食を作るのは高臣の役目であった。ある程度仕事に区切りがつくと、吉平は一度部屋に戻ってきて、高臣が作った朝食を一緒にとる。それから二人で店に赴き、開店準備に取りかかる、というのが一連の流れである。
今日からはその朝食を一人分多く作らなくてはならない。店で働くことが(いつの間にか)決まったふゆにも、この流れに慣れてもらわなければならない。
高臣は居間にいるふゆを見る。高臣の部屋着を着たふゆが、部屋の隅でちょこんと座っている。太くて短い眉が、しょんぼりと下を向いていた。
高臣は目を細めてその姿を見つめていたが、意を決して口を開いた。
「ふゆ、手伝ってくれないか」
高臣の声に反応して、ふゆが顔を上げる。黒目がちの潤んだ瞳が高臣に向けられる。
「朝食作るから。ふゆの手を借りたい」
ふゆは立ち上がり、駆け出そうとした足を、しかし止めてしまう。微かに開いた口が「いいんですか?」と言っているような気がした。
その姿に、高臣は苦笑する。嬉しくて駆け出したいのに、怖くて怯えてしまっている子犬が見えた。
そうだ。この子は多分、とても純粋なのだ。こちらがびっくりしてしまうくらいに、素直なのだろう。
妖というものがどういうものなのか、高臣には分からない。けれども、ふゆという少女のことは、少しだけ分かったような気がした。
「おいで、ふゆ」
不器用ながらに微笑むと、ぱっと顔を輝かせてふゆが台所へやって来た。嬉しそうな笑顔を湛えて高臣を見上げる。
「わたし、頑張ってお手伝いします! 高臣さんの力になりたいです!」
意気込むふゆに先程の暗い表情は見えない。落ち込ませ、悲しい気持ちにさせていたことが気がかりだった高臣は、心の中でほっと安堵した。
やはり悲しい顔は見たくないし、させたくない。どうしたらいいのか分からなくなるし、不安にもなる。妖といえども、ふゆはまだ子供のようにあどけない。幼子のようなふゆの無垢な心を、出来るだけ傷つけたくはないと思ってしまう。
気分を切り替えるように、高臣にしては努めて明るくふゆに問いかける。
「これから三人分の朝食を作る。ふゆ、何が食いたい?」
うーん、と首を傾げてしばらく悩むふゆだったが、不意に「あっ」と口にする。食べたいものが思いついたようで、興奮気味に高臣に尋ねた。
「食パンってまだありましたよね?」
「ああ」
「卵と牛乳、それからお砂糖もあります、よね?」
「ああ、揃ってる」
ふゆは頬を紅潮させて、みるみる瞳を輝かせていく。ふゆが問いかけた材料で出来上がるもの。何を食べたがっているのか、高臣には閃くものがあった。
「わたし、フレンチトーストが食べたいです!」
高臣の予想は、見事に当たっていた。
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