04 よろしくお願いします
雪の所為で滑りやすくなっている階段を慎重に降りて(途中ふゆの手を繋ぎ、転びそうになるのを手助けしてやりながら)、一階の店の裏手まで来ると、高臣は従業員用の扉を開いて中を覗き込む。小さな休憩室には誰も居らず、上半分がガラス張りの壁越しに見るカウンターには、アルバイトの光汰朗の後ろ姿が見えた。まだ少年感が抜けきれていない丸みを帯びた頭髪の後ろ側に、ぴょこんと寝癖が付いている。
吉平はというと、厨房での作業を中断し、店内の隅で、常連客の一人である年かさの主婦と和やかに会話をしていた。彼女はほぼ毎日やってくるお客様の内の一人で、高臣も何度かお喋りにつき合ったことがある。桜木堂を贔屓にしてくれるので無下にすることは出来ないのだが、彼女は物事を一から百まで事細かに説明するのでとても話が長い。なのでなかなか会話から抜け出せなかったりするのだが、吉平は嫌な顔一つせず、相槌を打って話を聞いている。
吉平はどの客に対しても、とても丁寧に対応する。笑顔が苦手な高臣としては、その部分を吉平に補ってもらっているといっても過言ではない。まさに店員の鑑ともいうべき微笑みを絶やさない吉平には感服してしまうのであった。
高臣はふゆを休憩室に置いて、カウンター内に入る。高臣に気付いた光汰朗が、「おはようございます」と声をかけてきた。
「おはよう、光汰朗。悪いけど、ちょっと一人で店番頼んでいいか?」
「いいですけど……何かあったんですか?」
若者らしい好奇心に満ちた目を向ける光汰朗に苦笑して、「ちょっとな」とだけ言って高臣はカウンターから店内へ出る。吉平に近寄ると先に気付いた婦人が「あら」と目を見開いて親しげな表情を作った。
「こんにちは、いらっしゃいませ。いつもありがとうございます」
出来るだけの笑顔を浮かべて高臣は会釈をする。いつもならこの後、婦人といくらか会話を交わすのだが、今は状況が状況である。一刻も早く、吉平に相談しなければならない。
「吉平、ちょっと」
高臣の言葉に視線だけを寄越した吉平は、婦人に向き直ると笑顔で礼をする。
「それではこれで失礼します。またお越し下さいね」
まだ喋り足りなかったのか、婦人は一瞬物憂げな表情を宿したが、購入済みの桜木堂のパンを提げて、ドアベルを響かせながら店を出ていった。
「悪い人じゃないし、パンも買っていってくれるし、悪気も無いって分かってるんだけどねー」
疲れた表情を見せながら、吉平は肩に手をやる。
「それでもお前、全然嫌な感じに見えないからすごいな」
吉平はふっと自嘲気味に笑う。
「なに今更なこと言ってんの。で? どうしたのよ」
「休憩室まで来てくれ。ちょっと厄介なことになった」
高臣の発言に、吉平は眉を上げた。
「初めまして、ふゆと申します」
休憩室の椅子に座ってぺこりと頭を下げるふゆに、吉平も「こちらこそ初めまして」と言いながらお辞儀をする。それから高臣に顔を向け、好奇の目を向ける。
「彼女紹介すんなら今じゃなくてもいいだろ? なに、この子と結婚でもすんの?」
「部屋でのことは誤解だ。この子は別に彼女じゃない」
高臣の言葉を引き継ぐようにふゆが答える。
「先ほどはお見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ございませんでした。私は高臣さんに命を救っていただいた身であります。有難いことに、美味しいご飯もご馳走になりました。高臣さんから伺ったのですが、こちらはパン屋さんなのですよね?」
「うん、そうだよ。まだ開業二年目の、新進気鋭のパン屋さん」
誇らしげに言ってみせる吉平に、ふゆが顔を輝かせる。
「トーストをいただきましたが、とても美味しかったです! 味気なさなど感じさせないほんのりとした甘さが、舌に心地よく広がっていくのが堪らなく幸せな気持ちになりました。食感も、外はさくっとぱりっとしているのに、中はふんわりとしていて、何枚でも食してしまえそうな食パンでした!」
「ふゆちゃん……だっけ? きみ、パン好きなの?」
「はい、大好きです! わたしパンなら何でも好きです。ここがパン屋さんだってこと知らなかったのですけど、わたしがお店の前で倒れていたのって、多分本能に従ってのことだったと思うのです。余命が幾ばくもないと分かった時、最後の晩餐として食べたいのは、やっぱり大好きなパンだと思いますから。だから、パン屋さんの前まで力を振り絞ることが出来たのかなあって思います。このお店の前で倒れたことは偶然ですが、何か運命的なものを感じてしまいました」
「……うん、とりあえず、パンが大好きってことと、この店の前で倒れてたきみを高臣が助けたってことは分かったんだけど、結局何がどういうこと?」
腕を組んで壁に背を凭せかける吉平は、どこか面白そうな表情で高臣とふゆを見ている。ふゆは椅子から立ち上がると、深く頭を下げた。
「あの、つまり、このお店で働きたいのです! 働かせて下さい!」
突然のふゆの言葉に驚いたのか、数秒目を瞬かせたが、吉平は「いいけど」と迷いなく言う。
「本当ですか! 嬉しいです、ありがとうございます!」
手を打って喜ぶふゆの後ろで、高臣が慌てて口を挟んだ。
「ちょっと待て。色々なことを
え、何をですか? と、疑問符を浮かべるふゆに、高臣は
「吉平、信じられないのは承知で言うが、この子があの黒い子犬なんだ。今は人間に変化しているけど、犬にもなれるんだ。妖……らしい」
高臣の言葉に、吉平は「はあ?」と表情を歪めた。無理もない。こんなことを言って、本気で信じてもらえるとは思っていなかった。それは高臣自身が経験してよく分かっている。
「高臣のギャグセンスが俺には理解できねえ……高等技術すぎる……」
若干引き気味に見えるのは、吉平の頬が引き攣っているからだろう。吉平の反応をある程度予想してはいたが、なかなかに応えるものがある。
信じてもらうには、やはり自分が経験したことを吉平にも同じように味わってもらうのが一番よいだろうと、高臣はふゆの肩を叩く。
「さっきみたいに変化、できるか?」
「はい、お任せ下さい!」
なにやらはりきって答えるふゆは、吉平の真ん前に立つと、先程同様、身体が煙に覆われていく。そして瞬きの一瞬で煙が消え失せ、ふゆの人間だった姿も消える。代りに現れたのは黒い毛に覆われた小柄な犬――子犬に変化したふゆの姿であった。
目の前で起きた事柄に、吉平は驚きに目を瞠っている。驚くのも仕方がないことだろう。まさか、人間になったり犬になったりする妖が、この世にいるだなんて。そんなものは漫画や小説やゲームの世界の話であって、現実に存在しているなんて思わない。居たらいいなあと思うくらいで、大半の大人は、夢想に耽るだけで信じはしない。
夢でも見ている気分になるが、しかしこれは夢ではない。真実である。
ふゆは「ワンワン」と吠えると、ぼわんと音を響かせながら、煙を立ち昇らせて人間に戻る。用意していた上着をすぐさまふゆにかけてやりながら、高臣は吉平を窺う。固まっていた吉平が不安になり、高臣は肩を揺すった。
「おい、吉平?」
「……高臣」
吉平はぽつりと呟いて、今度は自分で肩を揺らす。次第に大きくなっていく揺れは、吉平の感情を大いに表していた。
「な、何なんだよ! 超面白れえ! 妖って……妖って……! マジかよ、すげえってそれ!」
一気に感情が爆発する吉平は、「ぶはははは」と大笑いをかました。驚きはしたものの、面白い、すごい、という感情の方が上回っているらしい。ふゆを指差しながら、大爆笑している。
ふゆはふゆでどう対処すればいいのか分からないのか、高臣と吉平を交互に見てはおろおろするばかりである。
高臣は一際大きな溜息を吐いてこめかみを押さえる。
吉平の性格を考えるに、多分、こうなるんじゃないかと思っていた。ふゆのことを気に入ってしまったに違いない。そうなれば、言い出すことは決まっている。
「あー面白っ! ふゆちゃん最高だわ」
「ありがとうございます」
律儀にお辞儀をするふゆを、吉平はにっこりと笑顔で見つめる。
「倒れてたってことは、飯も碌に食えてなかったってことだよね? 妖だっていうし、特定の家なんて持ってないんでしょ?」
「そうですね、いまは路傍の片隅で生活をしている次第です」
「こんな冬の寒い時期に、辛いよねふゆちゃん」
「そう、ですね。妖といえども、食べ物には困っています。人間より、食べる物がなくても生きていけるのですが、やはり何も食せないというのは辛いものがあります」
「そうだよね、そうだよね。可哀想にねえ」
ふゆは心底真面目に答えているのが伝わってくるのだが、吉平はちらちらと高臣を窺い、その視線がどこか含みを持っているように感じられる。面白くて仕方がないといった感じであった。
「じゃあさ、ふゆちゃん桜木堂で働くことも決まったし、うちに住みなよ。男二人暮らしのむさい部屋だけど、道端で寝起きするよりずっといいと思うよ。それに朝昼晩、三食パンが食べられる特典も付いてるよ! どうする?」
吉平は切れ長の目をにやりと細めてふゆを見つめる。
ああ、やっぱり。と、高臣は想像通りの展開に眩暈を起こしそうになる。吉平の、突拍子もないことをしでかす性分は分かっていたが、それを久しぶりに目の当たりにして疲れてしまったようであった。いつ桜木堂で雇うことが決まったんだ、と突っ込みを入れるのも面倒で、高臣は黙って事の成り行きを見守ることに徹した。“もうどうにでもなれ精神”である。
「いいんですか! ありがとうございます! 是非、お二人のお家に住まわせて下さい! よろしくお願いします!」
「こっちこそ、住んでくれてありがとう。いやあ、これから楽しい日々が始まりそうでウキウキするわ。あ、俺の名前は桜木吉平。高臣とは双子で、俺は弟なの。よろしくね、ふゆちゃん」
「はい!」
ふゆと吉平の笑顔の端で、高臣はこれから起こるであろう苦悩を思い煩い、本日一番の太い息を吐くのだった。
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