03 黒い子犬

 トースターで焼いた食パン、ベーコンと一緒に焼いた目玉焼き、トマトと胡瓜とレタスのサラダ、インスタントのコーンスープ、それらをテーブルの上に並べると、少女は瞳をキラキラと輝かせた。口に出さずとも「すごいですね!」と言っているのが、表情にありありと表れている。手の込んだ料理を揃えたわけではないので、高臣は少女の賛辞を素直に受け取ることが出来なかった。

 しかし、パンだけは別である。この食パンは吉平が作ったものだ。何も乗せたり付けたりしなくとも十分に美味しいこの食パンだけは、きっと気に入ってくれるに違いない。スーパーやコンビニで売られている既製品のパンを買わなくなって久しい。それ程、吉平のパンはどれも美味で、飽きが来ないのだ。

 料理を並べ終えると、高臣は少女の向い側に座る。ちなみに、少女には高臣の部屋着を着せた。灰色のトレーナーとズボンは少女には大きすぎるのかだぼだぼとしており、袖を捲らなければ手や足は隠れてしまうし、首回りも襟ぐりが大きく開いていた。だが何も身に着けていない状態よりずっとましだろう。

 腹が減っていたことに気付いた高臣も、遅めの昼食をとることにする。店が気になったが、アルバイトの光汰朗こうたろうがやって来たみたいなので、少しくらい遅くなっても大丈夫だろうと、素早く昼食を済ませることにする。

 珈琲とともにトーストを口にする高臣だったが、ふと、いつまで経っても食事に手をつけようとしない少女が気になった。キラキラしい目もそのままに、今にも涎を垂らしそうに口を開いて、顔をテーブルに傾けている。促さなければこのままずっと料理を見つめ続けているのではないだろうかと心配になり、高臣はそっと声をかけた。

「食べないのか?」

「い、いいんですか?」

 身を乗り出して問う少女の言葉に、少しだけ呆れてしまう。飯をくれと言ったのはそっちなのに。

「いや、これアンタの為に用意したんだし。食ってくれないと、意味がないよ」

「あ、ありがとうございます……! いただきます!」

 更に瞳の煌めきを増した少女は、こんがりとした狐色のトーストを一口齧る。大きな口で齧り付いたので、食パンの四分の一程度が一気になくなる。もぐもぐと口を動かしながら、少女の表情が変化していくことに、高臣は気が付いた。

 口がへの字になり、眉間には皺が寄る。堪えるような表情を宿したと思ったのも束の間、少女の大きな瞳から大粒の涙が零れ落ちた。ぽろぽろと落ちる滴を見つめて、高臣は驚きに目を瞠った。まさか泣くとは、思ってもみなかったのだ。

「お、おい、泣くな」

「すみません、すみません!」

 謝りながら、それでもパンの味を噛みしめるように食す姿が、高臣にはいじらしく感じた。トーストをごくりと飲み込み、少女は指の腹で目の端を拭う。

「とっても美味しくって、温かくって……ほっとしたら涙が溢れてきてしまいました。幸せだなあって、思ったんです」

 少女はゆっくりと、けれどもしっかりとした口調で話す。ふにゃりとした、見る者を脱力させてしまうように微笑む姿が、何だか眩しく見える。それは目尻に残った滴が、窓から差し込む陽光を浴びて輝いたからだろうか。それとも食べ物を口にした感想が、あまりにも純朴で、純粋だったからだろうか――

「……そうか」

 ぽつりと呟く高臣に少女は頷き、もう一度大きな口を開けると、トーストにがぶりと齧りついた。



 少女はふうと息を吐いて、手に持っていたフォークを丁寧に皿の上に置いた。満面の笑みを浮かべ、「ご馳走様でした」と高臣に告げる。用意した料理は綺麗さっぱり無くなり、少女の胃袋の中へと納まった。

「満足したか?」

「はい、とても美味しかったです。ありがとうございました」

 ぺこりとお辞儀をする姿を見て、この子は案外礼儀正しいんだなと高臣は認識を改め、先程までの少女を振り返る。初めこそ、全裸で床の上に座ってぼうっとしていた少女だが、言葉遣いは丁寧だし、食事も、腹が減っていたこともあって勢いはあったが、綺麗に完食してくれた。もっと洗練された、或いは少女らしい可愛らしい服装でもしていれば、良家のお嬢様に見えなくもないような気がする。

 そこまで考えて、高臣は少女の名を聞いていなかったことに気が付いた。

「そういえば、名前は?」

「あ、申し遅れました。わたしは『ふゆ』と申します」

 そう言って、ふゆはもう一度ぺこりと頭を下げる。頭の上下に合わせてウェーブの黒髪がゆらゆらと揺れるのを眺めながら、高臣は「ふゆ」と繰り返す。ふゆは名を呼ばれたことに反応して、瞳を輝かせながら「はい!」と元気に返事をして高臣を見る。何がそんなに嬉しいんだろうと疑問を浮かべる高臣は、ふゆの期待に満ちた瞳に耐え兼ねて視線を逸らした。

「今度はこちらの番ですね。あの、あなたのお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」

 無垢な問いかけに、高臣は無視をすることが出来なかった。それに、名を教えることぐらい構わないかと思った。変わった子ではあるが、悪い子ではないと感覚的に分かってしまったからだ。

「……高臣」

「高臣さん、ですか。素敵な名前ですね」

 ふふふ、と柔らかく笑いかけるふゆには、邪気がまったく感じられない。促すまで食事を開始しようとしなかったり、名前を呼ばれただけで嬉しそうに瞳を輝かせる、『ふゆ』という女の子。何だか、まるで犬みたいじゃないか――

 瞬間、高臣の脳裏に一気に思い出された。ふゆのおかげですっかり忘れていた。何をしに戻ってきたのか、高臣は目的を失念してしまっていた。一番に確認しなければならなかったことがある。黒い子犬のことだ。

「ふゆ、この部屋に子犬がいなかったか? 黒い毛並の」

「いぬ、ですか?」

 確認するように言ってから、ふゆは大きな笑顔を見せる。

「それ、わたしのことだと思います」

「……は?」

 一瞬、ふゆが何を言っているのか理解出来ない。

「高臣さんが、わたしを拾って介抱してくれたのですよね。本当に感謝します、ありがとうございます」

 深々と頭を下げるふゆをぽかんとした表情で見つめてから、高臣は「いやいや」とようやく口にする。

「俺が拾ったのはきみじゃなくて、子犬だよ。その黒い子犬が部屋のどこかに居るはずなんだ」

「ですから、その黒い子犬がわたしなんです」

「……なんだって?」

 益々わけが分からない高臣は、眉間に皺を刻み、切れ長の目を更に細くさせる。さぞ極悪な表情になっていることだろうと、どうでもいいようなことを頭の隅で考えながらふゆを凝視する。ふゆは高臣の凄みのある表情に怖がる様子も見せず、寧ろにこにこと笑って正体を告げた。

「わたし、あやかしなんです。いまは人間の姿をしていますが、犬の姿にもなれるんです。信じられないようでしたら、いまから変化してみせますが」

 あっけらかんと言うふゆに、高臣は少しの間固まった後、額を押さえながら再度「いやいや」と呟く。

 やっぱりこの子は悪い子ではないけれど、ちょっと……いや、かなり変わっている。

 高臣の呆れたように吐いた息に気付いたふゆが、声を高くして身を乗り出す。

「あ、やはり信じていませんね。わかりました、変化の瞬間をお見せしますね!」

 言うや否や、ふゆは座っていた椅子から立ち上がる。信じるどころか、寧ろほぼ疑っている高臣はふゆの行動を訝しい目で見つめた。

 きっとこの子は寂しい子なんだろう。だから俺の気を引きたくてこんなことをやっているんだ。お腹を空かせていたのも、親からちゃんとご飯を食べさせてもらっていないからかもしれない。確かに、この年代の少女にしては痩せぎすで、身長も低く小柄だ。だからといって、見ず知らずの人家に不法侵入してもよいということにはならないが、同情する余地はあるような気がする。

 と、ふゆの哀れな事情を勝手に想像していた高臣だったが、目の前で起こる現象を目撃すると、その気持ちもどこかへ吹き飛んでしまった。

 まず、身体の周りに霧のような煙が纏わり付き、それがしだいに濃くなってふゆを覆いはじめる。ふゆの全身を煙が包み、姿形が見えなくなる。その後は一瞬だった。高臣が瞬きをした瞬間、煙はあっけなく消えていた。そして、ふゆの姿も消えていた。

「……どうなったんだ?」

 椅子から立ち上がりテーブルに手をついて、ふゆが居た場所を覗き込むように呆然と見つめる。

 あれは手品だよな? ちゃんと、何か仕掛けがあるんだよな?

 疑いながらも、どきどきと心臓が鼓動を早めるのは、まさかと思う気持ちとせめぎ合っているからだ。

 テーブルが視界を遮っているので、こちらからきちんと確かめることが出来ない。移動して確認すればいいだけのことなのに、高臣は踏ん切りがつかない。

 本当に、あの黒い子犬がいたら。ふゆの姿が消えた代わりに、あの子犬が姿を現していたら。

 不意に、ズボンの裾に何かが触れた。どきりとして下を向く。まさか――

 高臣の真下で、黒い子犬がくりくりとした黒い瞳を向けて、小さな舌を出しながら見上げている。まさに、あの時高臣が拾い上げた、黒い子犬そのものであった。

「……本当に、ふゆなのか?」

 しゃがみ込んだ高臣は、信じられない思いで子犬を抱き上げる。前足の両脇に手を差し入れて持ち上げ、顔をのぞき込む。愛らしく「ワン」と一声吠えるその表情が、どことなく笑っているように見える。

 そして、ぼわん、と一際大きな音が響いて再び煙りが立ち昇る。気付いた時には両腕に、先ほどよりもずっしりとした重い感触を得ていた。

 煙が消えて視界が開けると、高臣の眼前にはにっこり笑顔の少女がいた。もちろん、素っ裸で。

「信じていただけましたか? 高臣さん」

 高臣は顔を背けると、赤くなる顔を感じながらなんとか頷いた。

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