02 謎の少女

 店が落ち着いてきたのは、昼の二時を回った頃だった。雪が降ったということもあり、客の入りはまちまちだったのだが、それでもやはり常連客というものは桜木堂に毎日通わなければ気が済まないようで、足元の悪い日であってもやって来る。それをありがたいと思いつつ仕事をこなしていると、あっという間に時間が過ぎていたのだった。

 出来上がったパンを棚に陳列したり、トレイやトングの補充といったちょっとした雑用、そして店内の清掃といったものも仕事の内なのだが、高臣の主な仕事は販売である。自分でも愛想が良いとはいえない接客ではあるが、丁寧、誠実、確実を心がけていれば、それほど大きな苦情には繋がらないと、ここ二年足らずの間に学んだ高臣だった。

 仕事に集中している間は思い出すこともなかったのだが、客の入りもなくなり仕事に区切りがつくと、途端頭に黒い子犬のことが思い出された。

 まだ無事だろうか。それとも……

 気になって、心配で、高臣は子犬のことが頭から離れなくなってしまった。今からでも一目見て確認したい。

 そう考えていると、高臣の思考を読んだように、奥の厨房から吉平が姿を現した。

「ふう、疲れたー」

 吉平は肩を揉みながら、疲れた様子を見せる。高臣より早い時間に起きて仕込みをし、パン作りを開始する吉平は、早朝から雪かきも行ったのだ、疲れも溜まっているのだろう。悪いと思いながらも、丁度いいタイミングに、高臣は吉平に近寄る。そろそろアルバイト店員が出勤してくる時間である。今なら少しだけ抜けられるだろう。

「お疲れ、吉平。あと頼む」

 いまから部屋に戻って子犬の状態を確認するから接客をお願いする、という内容を言葉少なに伝えると、分かってましたとばかりに、吉平は手を振って高臣を店から追い出す素振りをする。

 こういうとき、意志疎通がはかれていることに嬉しくなる。感謝しつつ、高臣は吉平と入れ替わり、裏手から店を退出した。



 店の裏側にある階段を上り、アパートの二階、204号室の前までやってくると、高臣は耳をそばだてる。もしかしたら子犬が鳴いていやしないかと思ったのだが、扉の内側からは何の物音も聞こえてはこなかった。

 死んでないよな。

 心の中で呟いたのは、自分に言い聞かせる為のものでもあった。暗い気持ちになるのは確認してからだと、高臣は扉の鍵を開ける。中に入り玄関口で耳を澄ましてみたが、時計の秒針の音が、静まり返った部屋の中で唯一耳につくばかりだ。

 高臣は自室の寝床まで直行する。そこに、毛布にくるまれた黒い子犬が眠っているはずだ。起き上がることが出来ていれば、部屋の中を動き回っているかもしれない。

 心が逸る高臣が見たのは、しかし、予想外のものであった。

 そこには、一糸纏わぬ少女がぺたりと座り込んでいた。まだ14・5歳くらいだろうか。ふわふわとした長く黒い髪が、壁に張り付く蔦のように、少女の白磁の身体に纏わりついている。肌は陶器のような滑らかさがあるのに、触れると柔らかそうな弾力も感じられる。まだ凹凸の少ない、少女の身体である。

 少し垂れ下がったように見える眉は、太く短い。びっしりと生える睫に縁取られたぬばたまの目は、ぼんやりと宙を見つめている。

 高臣は思わず少女を熟視した。何も身に着けていない少女の裸を見続けるのは褒められた行為ではないだろうと、頭の隅でもう一人の自分が訴えかける。しかし、悪いと思いつつ、それでも高臣は瞳を逸らすことが出来なかった。

 隕石が地球の重力によって引き寄せられるように、高臣もずるずると少女に引っ張られる。少女の瞳には、人を魅了するような不思議な力が働いているように、高臣には感じられた。

 次第に、少女の視点が定まってくる。瞼が更に持ち上がり、ぼうっとしていた表情に正気が戻る。目が、高臣を捉える。

 真正面から見つめられ、それこそ高臣は動けなくなってしまった。黒目がちな瞳が、じっと高臣を観察する。視線を受けて、高臣は身体が熱くなるのを感じた。

 思わず口内に溢れる唾液を燕下する。それと同時に少女の口から、およそ同じ人間とは思えぬほどの、愛らしい声が零れた。

「あの」

 その言葉に、高臣は我に返った。

「ごめん!」

 反射的に謝って直ぐさま後ろを向いた高臣は、心臓の鼓動がいつもより早くなっていることに気付き焦った。予想だにしていなかった出来事に動転している。

 一体あの子は誰なんだ? どうやってこの部屋に入った?

 まず最初に浮かんだのは、吉平の新しい彼女なんだろうか、ということだった。しかし今までの吉平の彼女とは明らかに違う。年齢が幼すぎるし、何より見た目の雰囲気からして、吉平の好みでないような気がしたので違うだろうと判断する。

 それでは泥棒だろうかと考えたが、しかし素肌を晒してぼんやりとしていたこの少女が、悪事を働くように、高臣にはどうしても思えなかった。

 もやもやと悩む高臣だったが、不意に感じた感触にどきりとして背筋を伸ばした。上着の後ろ側の裾をぎゅっと掴まれた気がして、高臣はゆっくりと顔だけを振り向かせた。見ると、切なげな表情を宿す少女が間近に迫っていた。

「すみません、お願いが、あります」

 掠れた声で囁くその様子に、高臣の熱が上がる。早鐘を打つ心臓の音が、耳に煩い。

 服を握る力が強くなり、更に少女が近付く。素肌が高臣に密着し、布越しから少女の柔らかさが伝わってくる。

 何故こんな状態になっているんだ? 俺はただ、子犬の様子を窺いに部屋に戻ってきただけだっていうのに。

「あの……あの、お願いが……」

 少女の苦しげな声が、肌の上を這うように感じられ、ぞわりと興奮が駆け巡る。

 瞬間、部屋に聞きなれた声が響いて、高臣は直ちに硬直した。

「遅いぞ、高臣。いつまでワンコに夢中になってんのよ」

 言いつつ部屋までやって来ると、吉平は高臣と少女を見て、ぽっかりと目と口を開いた。黙って高臣を見つめ、そのあと首を傾げて後ろにいる少女をじろじろと凝視する。それから数秒、たっぷり間を置いてから、吉平はにこりと微笑んだ。

「俺お邪魔みたいだから、先に下に戻ってるわ。いまコタ一人に店番任せてるから、早く行ってやらねえとだし。高臣、やるんだったら早く済ませろよー」

 手を振って部屋を出ようとする吉平に、呆然としていた高臣は慌てて声を上げる。

「おい待て吉平! 違うんだ、この子が勝手に」

 何もいいなさんなという風に首を振って、吉平は高臣の言葉も聞かずに部屋から出ていってしまった。あとに残された高臣はがくりと首を落とす。

「やるって、何をだよ……」

 吉平の言葉が何を示しているのか理解出来るが、口に出して突っ込んでおかないと居た堪れない気持ちになる。さっきまで熱が宿って暑ささえ感じていた身体は、雪を浴びせられたみたいに冷たくなっていた。頭を抱えそうになるこの状況に、しかし少女は待ってはくれなかった。

「お願いします……どうか……」

 少女は高臣に何度も“お願い”をする。部屋に謎の少女が居るという困惑と、吉平に変な勘違いをされてしまった問題が、高臣に沸々と苛立ちを沸き起こさせる。子犬のことも気になっているのに、この状況では確認も出来ない。この少女のおかげで。

「……お願い、します」

 歯痒くなるような中身の無い少女の“お願”に、高臣の苛々が弾けた。

「だから、お願いって何なんだよ!」

 怒鳴りながら少女を見下ろすと、服を掴んでいた手がはらりと離れ、そのまま身体が前のめりになった。あっと気付いた時には、少女は床に倒れ込んでしまった。

 女の子に怒鳴ってしまうなんてやり過ぎだと後悔しながら、高臣は慌ててしゃがみ込み少女を窺う。

「おい、大丈夫か?」

 高臣の問いに、少女はうつぶせのまま小さく呟いた。

「た、食べ物を……下さい……」

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