▼エピソード2 生物の時間だぞ、勇者よ!▲
明るいチャイムが鳴り響く。ロングホームルームを終え、二時間目の授業は生物だ。
生物室で生徒達を前にして、教師がプリントやら何やらを配っている。
「……というわけで。昨日急遽予告した通り、今日の生物はアジの解剖だ。お前ら、ちゃんと朝食抜いてきたかー?」
明るい声で言い放つ教師に、立花が挙手して声を投げかけた。
「先生ー。魚の解剖って、小学校でやるもんじゃないんですかー? 何で俺達、高校生なのにアジの解剖やろうとしてるんですかー?」
「釣りが趣味っつー近所の親父が、大量におすそ分けしてきてなー」
要は、自分一人で捌くのは大変なので、授業にかこつけて生徒達にやらせようという事らしい。職権乱用も良いところだ。
「班分けは済んだかー? じゃ、一人一匹ずつあるから、美味しい刺身を作ってくれよー」
遂に本音は隠されもしなくなった。……が、その教師の職務態度的に問題であろう発言は、割と日常茶飯事であったらしく。生徒達は誰一人として動じる事無く、スムーズにアジを受け取りに行っている。
そんな中。アジとメスを手に、妖しげに笑っている生徒が一人。
「ふ、ふふふふふ……早速勝負の場が巡ってきたようだな、勇者ジークフリースよ!」
「勝負って何の。……ってか、今の俺は赤坂正孝だから。ジークフリースって呼ぶな」
眉間に皺を寄せる正孝に、健介はふふんと鼻を鳴らす。そして、ずいっとアジを突き出した。
「決まっているだろう……一人一匹ずつ与えられたアジ……どちらがより速く、美しく解剖できるか……勝負だ、正孝!」
律儀に呼び方を変えている。一方、正孝は完全に呆れ顔だ。
「お前は俺に勝てれば何でも良いのか。……まぁ、それでお前の気が済むなら、それで良いけどさ」
そう言ったところで、正孝はふ、と眉根を寄せた。
「……ところで健介。お前、解剖の経験は?」
「無い。私が所属していた小学校では、道徳に反するという実にくだらん理由から、解剖の授業は行われなかった。貴様は?」
「俺も、無い。理由はお前と同じ」
「ふむ、条件は同等というわけか」
満足そうに頷く健介。だが、正孝の顔はどんよりと暗い。
「けどなー……気が重いんだよな。生きたままのアジを解剖するとか……」
どうでも良いが、近所の釣りが趣味の親父はクラス全員分はある数のアジを生きたまま運んだようである。どのような運搬方法を取ったのかが気になるところだ。
それはさておき、正孝の言に健介は鼻で笑う。
「笑わせる。貴様は前世で、数多のモンスターを斬り伏せてきたのだ。そして、私とて前世では多くの人間達を苦しめ、虐殺せしめてきた。アジの一匹や二匹殺す程度、どうって事はあるまい」
「それは……」
反論できず、正孝は言い淀んだ。その様子を、教室内を眺めていた教師が目ざとく見つける。
「そこー。喋ってないで、早く作業に取り掛かれー」
「あ、はい!」
返事をすると、正孝は舌打ちをして袖をまくった。
「仕方ねぇ……やるか!」
正孝のやる気に、健介の顔が恍惚とする。
「そうだ、それで良い! いくぞ、勇者よ!」
……と、盛り上がったのは良いが。勝負内容はアジの解剖だ。如何せん、地味である。ほぼ押し黙り、黙々と手元で小さなメスを動かしながら解剖作業を行う他に動きは無い。
「ぬ……これは……思ったよりも難しい。だが、この感触……生を求めて上下する口、痙攣する体……この、血の臭い……。ふ、ふふふふふ……これだ。これこそが私の求める、死と恐怖の世界だっ!」
「随分と小さい死と恐怖の世界ね」
「鈴木、楽しそうだなー。折角だから、俺の分も頼むよ」
呆れた顔の彩夏の横から、立花がちゃっかりと自分の課題を押し付ける。だが、健介はそれに機嫌を損ねる事は無い。
「ふ……こんな事もできないのか、愚民よ。だが、まぁ良い。今の私は機嫌が良いからな。貴様のアジも、私が華麗に切り裂いてやろうではないか!」
ふははははははっ! と笑いながら、二匹目のアジに取り掛かる。どうやら、かなりの量のアドレナリンが放出されている様子である。
「本当に楽しそうねぇ……それに引き換え……」
言いながら、彩夏は視線を横の正孝に移した。解剖は、まだ半分も終わっていない。
「うえ……モンスター斬った時よりも感触が生々しいっつーか……素手で体全体を押さえつけてる分、モンスターよりも〝生き物を切り裂いてる〟感じがする……」
アドレナリンが出る代わりに、正孝の耳には、「ぎょぎょぎょーん」という可愛い魚の声が聞こえているようだ。
「あ、あぁ……まだ心臓が動いてる……ごめんな……ごめんなぁぁぁっ!」
取り乱す正孝を、健介は冷たい目で見下した。
「ふ……勇者よ。何をそんなに謝る事がある? 数多のモンスターを斬り伏せてきた貴様が!」
「けど、あの時は自分が死なないために無我夢中だったし……なるべく苦しまないように、一撃で倒してきた。こんな、身の危険が迫っているわけでもないのに……生きたまま、苦しめるなんて……」
カラン、と、手元のメスを取り落とす。健介が、ふん、と嗤った。
「どうやら、貴様には荷が重かったようだな。ならばこの勝負……私の勝ちだな。なぁ、勇者よ!」
「……良いよ。それで良い。命を奪う事で得る勝利なんか……欲しくないからな……」
正孝の言葉に、健介はククッと嗤った。
「負け惜しみを。だが、そのままでは貴様には支障があろう? なにせ、これは授業なのだからな。だから、ここは私が貴様に、救いの手を差し伸べてやろう」
「……何?」
怪訝な顔をする正孝に、健介は勝ち誇って胸を張る。
「貴様の解剖作業に手を貸してやろうと言っているのだ」
そう言って、また「くくく……」と嗤う。楽しそうだ。
「悔しいだろう? 何しろ、三千年前相対した敵に完膚なきまでに敗北した上、情けをかけられたのだからな……」
だが、健介の意図に反し。正孝はどこか嬉しそうに、微笑んだ。
「……いや、嬉しいよ」
「……何だと?」
顔を顰める健介に、正孝はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「三千年前のお前は、誰にも情けなんてかけない、世界の全てを憎んでいるような奴だった……。そんなお前が、俺の成績を心配して、俺に力を貸してくれる。……こんな嬉しい事は無いよ。……これがアジの解剖じゃなければ、もっと良かったんだけどさ……」
本当に、心から嬉しそうな正孝に、健介は詰まらなそうに鼻を鳴らした。
「……良いか。解剖をするのは、あくまで貴様だ。私は横で口を出し、時には貴様の手が震えて滑らぬように抑えつける……それだけだ」
正孝が、緩やかに首を横に振った。
「充分だよ、それだけで……」
そう言って、正孝は作業を再開した。横に立つ健介は折に触れ口を挟み、時には手を出して正孝にメスを正しく握らせる。先ほどまでとは比べ物にならぬほど、作業はスムーズに進んだ。
「そこで、一思いに……そうだ。……何だ、コツさえ掴めば上手いではないか、正孝」
「そ、そうかな……」
複雑そうに照れ笑う正孝に、健介は「あぁ」と頷いた。満足そうな顔で、フッと笑う。
「やはり、貴様は私が唯一認めた男だ、勇者よ。貴様の事がますます欲しくなったわ……」
「なっ、何言ってんだよ! それに……俺がコツを掴めたのは、健介のお陰で……俺一人じゃ、どうなっていた事か……」
顔を赤らめる正孝に、健介は増々楽しそうに笑う。心なしか、空気がキラキラし始めたようだ。
「ふふ……謙遜するな、正孝。貴様は、私の相手を務めるに相応しい男だ……」
そう言って、健介はその細く長い指を正孝の顎にかけた。
「健介……」
正孝は、驚いた顔をしながらも、嫌がる素振りを見せない。空気が、増々キラキラと輝いた。
「ふ、ふふふふふ……くけ、くけけけけ……」
「吉岡も楽しそうだなー。……ところで、今のってどこからが妄想なんだ?」
並び立つ正孝と健介を眺めながら、妖しく笑う彩夏。そんな彼女に立花が首を傾げると、彩夏は首だけをぐるりと回して立花を見た。妖怪か。
「何言ってんの? 最初から最後まで、全部現実よ?」
言い終わるか否かというところで、じゅるりという音がする。彩夏が、袖で慌てて口元を拭った。
「……いけない、ヨダレ出てきた」
実に幸せそうにヨダレを拭う彩夏。そんな彼女の頭を、正孝は上履きで思い切りよく引っ叩く。パーン! と良い音がした。
「一から十まで全部妄想だろうが、この腐女子ッ!!」
眦を吊り上げたその顔に、先ほどの赤みは全く見られない。どうやら、全て彩夏の妄想の産物だったようである。妄想が駄々漏れで可視化されているのは、元妖精ならでは……なのだろうか。
ある意味凄まじい能力を秘めた元妖精、現腐女子は、頭を押さえ、涙を目に溜めながら正孝を睨み付けた。
「いったーい! ちょっと、女の子に何て事すんのよ、正孝!」
「〝女の子〟を盾にするなら、せめて女の子らしい言動をしてくれよ。〝女の子〟は妄想でヨダレたらしながら、くけけけけ……なんて笑ったりしねぇから!」
上履きを履き直しながら、正孝は思い切り彩夏を睨んだ。それから、ハッと我に返って健介の方を見る。
「……健介、大丈夫か? 顔色悪ぃぞ!?」
「……おぉ」
「……?」
いきなり感嘆符を発した健介に、正孝は怪訝な顔をした。彩夏も、眉を顰めている。
「あの邪悪で禍々しい気配を一瞬で打ち払うとは……流石だ、勇者よ!」
「ちょっと!誰が邪悪ですって!?」
「お前だろ、どう考えても」
彩夏が抗議し、それを正孝が即座に打ち消す。そんな二人を意に介さずに、健介は肩を震わせ始めた。
「ふ、ふふふ……くくくくく……」
「どうした、鈴木? 大丈夫か?」
「黙れ、愚民」
全く心配していない様子で顔を覗き込んでくる立花を、健介は笑いを収めて一蹴した。それから、再び笑い始める。
「ふふふ……完敗だ。勇者よ、今回は私の負けを認めよう。アジの解剖はできても、私にはその姦し妖精のような隅々まで穢れきった気配を出す事はできぬ。それを一撃で打ち払った貴様なら、今の私が醸し出す邪悪な気など容易く打ち消してしまうのだろうからな……!」
「何よ! 〝癒しの花の妖精〟に対して、邪悪だの禍々しいだの穢れきっただの……失礼じゃない!」
「そう思うなら妄想をやめろ」
再び彩夏が抗議をし、更に正孝が彩夏への抗議をする。そして、唯一話についてこれず空気になっていた立花はと言えば、首を傾げつつも、嬉しそうな顔をしていた。
「よくわかんねぇけど、良かったよな。赤坂は無事に解剖できたし、吉岡は邪念を消してもらえたし、鈴木は俺達と仲良くなれたし!」
「黙れ愚民」
彩夏と健介の声がハモった。
「わー、すげー。二人とも息ぴったりー」
流石に面食らったのか、立花が棒読みで目を逸らす。健介が、ふぅ、と息を吐いた。
「今回もまた、おかしな邪魔が入ってしまったが……良いか、勇者よ! 勝負はまだ終わっていない! 次の勝負で、貴様の心をへし折ってくれるわ! 覚悟しておけ!」
言い終わるや否や、とても良いタイミングで明るいチャイムの音が鳴り響いた。教師が、パンパンと手を叩く。
「よーし、今日の授業はここまで! じゃあお前ら、今作った刺身……じゃない、解剖したアジの身をこのタッパーに入れてくれ。ささ、早く!」
今更言葉を言い直したところで、今晩この教師が、このアジの身を肴に一杯やるであろう事は誰も疑っていない。そんな生徒達の思考を知ってか知らずか、教師は思い出したように生徒達の顔を見た。
「……あ、そうだ。お前らこの後、また移動教室なんだってなー。遅れないように、急いで行けよー」
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