第2話
大通りまで出たところで、二人は足を止め、息を整えた。
「……ここまで来れば、安心……か?」
「うん……追ってきてはいないみたい」
大きく息を吸い、吐く。そこまでしてやっと、正常な思考が戻ってきた。
「しかし、本当に何が起こってるんだ? 俺達は親父の見舞いに行こうと歩いていた。横からトラックが突っ込んできて、意識が遠のいた。気が付いたら知らない街にいて、化け物が出てきて知らない女が食われて……」
「けどさ、あの化け物……どこかで見た事があるよね」
良哉の言葉に、聡一は少しだけ呆れたような顔をした。わかりきった事を言うな、という顔だ。
「そりゃあ、見た事ぐらいはあるだろ。頭が牛で、身体が人間の化け物。ありゃ、ギリシャ神話に出てくる怪物、ミノタウロスにそっくりだ。ゲームや漫画にもよく出てくるだろ? 絵ぐらいはどこかで……」
「違うよ。そういう意味じゃなくって……」
否定して頭を振る良哉に、聡一は少しだけムッとした。息を吐き、気持ちを落ち着ける。
「じゃあ、何だ? お前はどこかで、あのミノタウロスとリアルに対面した事があるとでも言いたいのか?」
「そうじゃないんだけど。けど、何かが引っ掛かって……」
「思い出せねぇんなら、考えるだけ無駄だ。それよりも、今はどうやってあのミノタウロスから逃げおおせて、元の生活に戻るかを考えた方がよっぽど建設的だ」
言われて、良哉はしばし黙った。それから、「そうだね」と言って頷く。
そんな弟を横目に、聡一は思考を切り替えた。考えなければいけない事は、他にもたくさんある。
「さて……どこから考える? ……街の様子は、人がいない事を除けば取り立てて変わった様子は無い。……となると、やっぱりヒントはあのミノタウロスか? ミノタウロスと言えばギリシャ神話で……どこに住んでたんだっけか? 確か……」
「ミノタウロスはクレタ島の王ミノスの妃が牛と交わった事により生まれた化け物。成長するに従い乱暴になっていったミノタウロスに頭を悩ませたミノス王は、ダイダロスに命じて脱出不可能な迷宮を造らせ、ミノタウロスをそこに住まわせた……。ギリシャ神話では、このように記述されていますね」
突如降ってわいた声に、聡一と良哉は思わず振り向いた。いつの間に現れたのだろうか。見た目では男かも女かもわからない、細身で、黒のベストとネクタイを身に着けた人物がそこに立っていた。顔には、柔らかな笑みを湛えている。
「誰だ!?」
聡一の問いに、謎の人物は「あぁ」という顔をした。それでも、笑みは崩さない。
「これは失礼。私の名は、スレッド。この生と死の狭間に位置する街、ラビュリントスの案内人です」
「生と死の狭間?」
「ラビュリントス?」
揃って首を傾げる二人に、謎の人物――スレッドは頷いた。
「えぇ。この街には、事故や事件で唐突に命を失いかけてしまっている……しかしまだ完全には死んでいない人々の魂が辿り着きます。そして、ある者は元の世界に戻り、ある者はあの世へと向かい、そしてまたある者は……ここまで言えば、もう何が起こっているのかはわかりますね?」
「……横からトラックに突っ込まれた俺達は、今意識不明の重体になっている。そしてこの街から脱出できれば意識は戻り、この街で死ぬような事があれば現実世界の肉体も本当に死ぬ。そして、この街で死ぬような事があるとするならば、それはあのミノタウロス……ってわけか」
聡一の言葉に、良哉が唾を飲み込んだ。理解した、という顔だ。
「そうか。だからさっきの女の人……園原さんだっけ? あの人、刺されたのに傷が無いって言ってたよね」
それを聞き、スレッドが大袈裟に顔を綻ばせた。大きな動作で、感動を表している。
「素晴らしい! 私から補足する点は無いようです。あえて言うなら、この街からの脱出方法ぐらいでしょうか」
「聞くまでもねぇだろ」
不機嫌そうに、聡一は言った。
「あんたがさっき言ったラビュリントスって言葉。あれは迷宮って意味だ。迷宮の街、そしてミノタウロス。つまりこの街は、ギリシャ神話のミノタウロスが住む迷宮になぞらえてあるって事だ。なら、脱出方法もギリシャ神話をなぞれば良い」
「そうか。確かあの神話だと、英雄テーセウスがミノタウロスを倒して、最後はミノス王の娘アリアドネから貰った糸をたどって出口に帰りついた……という事は、この街から出るにはミノタウロスを倒して……」
「あぁ。街の出口に通じる、糸を探せば良い。あくまでギリシャ神話になぞらえた街だからな。糸じゃなくて、別の何かかもしれないが……問題は、どうやってミノタウロスを倒すか……」
「そうだよね……」
困ったように眉を寄せ。そして、良哉はスレッドに眼差しを向けた。
「そうだよね。……ねぇ、スレッドさん。何か知らない? ミノタウロスを倒す方法」
すると、スレッドはにこりと、今までとは違うタイプの笑みを見せた。
「ありますとも。化け物とは言え、所詮ミノタウロスは人の子。人間を殺すのと、同じ方法で倒す事が可能です。身体が頑丈ですから、多少火力は必要かもしれませんが……それでも、これだけあれば……」
そう言うと、スレッドは優雅な動きで手を突き出し、指を弾いた。パチンという音が辺りに響く。それと同時に、眼前に大量の銃火器が現れた。魔法のようなこの出来事に、聡一達は目を丸くする。
「お前……こんなに大量の武器、どこから……」
「細かいところは、気にしない、気にしない。さて、どうしますか? あなた方がお望みであれば、これらを無償で差し上げますが」
スレッドの申し出に、良哉が目を丸くした。
「良いの!?」
「えぇ、構いませんよ。どうぞ、お好きな物を」
笑顔のまま事も無げに言うスレッドを、聡一は不審げに眺めた。言葉も、険を含んだものとなる。
「お前……一体何者だ? 何を企んでいる?」
「別に、何も。私はただラビュリントスの街の案内人として、さ迷う方々の要望に従っているに過ぎません」
「……」
黙り込みながらも不審げな目を改めない聡一に、スレッドは苦笑した。肩をすくめ、お手上げというジェスチャーをして見せる。
「どうやら、お兄さんの方は私を疑っているようですね。まぁ、確かに胡散臭い事この上ありませんから、仕方が無いでしょう。……さて、街の説明も済んだ事ですし。胡散臭い存在は、さっさと退散する事としますが……最後に、あなた方に一つだけ、ヒントを差し上げましょう」
「ヒント?」
首を傾げる良哉に、スレッドは頷いた。そして、意味深な笑みを浮かべる。
「このラビュリントスの街は、変わらない街。例え時代が移り、姿形は変わろうとも……その本質は決して変わりません。何十年、何百年……何千年経とうとも、永遠に……」
「変わらない……?」
「えぇ、変わりません。それでは、私はこの辺りで……」
そう言って、スレッドは立ち去ろうとした。その時だ。
「おい、そこのお前ら! そいつから離れろ!」
怒鳴り声が聞こえ、聡一と良哉、そしてスレッドは振り向いた。そこには、マシンガンを持った体格の良い男が立っている。その目は、真っ直ぐにスレッドを見、睨んでいた。
「おや。あなたは確か……二週間前にいらした、馬場文弥さん……でしたね。まだ生き残っていたとは、素晴らしい生命力ですねぇ」
楽しそうに言うスレッドを、男――馬場はより一層強く睨み付けた。
「黙れ! このペテン師が! 何が元の世界に戻る事もできる、だ! 何が糸をたぐれだ! この二週間、足を棒にして、あの化け物から必死に逃げ回りながら探したが、糸なんてどこにも無いじゃないか! お前の言葉を信じて、必死に糸を探していた奴らは、日に日に希望を失い、最後は自分からあの化け物に突っ込んで行って食われちまった! 絶望のあまり、頭がおかしくなっちまったんだ!」
それだけ叫ぶと、馬場はマシンガンを構えた。銃口は、スレッドを狙っている。
「俺はこの二週間……そんな奴らを何度も見た。もう勘弁ならねぇ! 俺達の心をもてあそび、無駄に絶望させた事を後悔させてやる!」
「嘘は言っていないんですがねぇ。まぁ、確かに私も言葉遊びが過ぎた面があり、わかりにくかったかもしれませんね。それは本当に申し訳無く……」
「うるせぇ! 死ね、ペテン師!!」
スレッドの言葉を最後まで聞く事無く、馬場はマシンガンの引き金を引いた。大量の球が飛び出し、スレッドを貫いていく。
「「な……!」
「何やってるんだよ!? 案内人を殺したりなんかしたら……」
殺したりなんかしたら……。それに続く言葉は、良哉の口から出てこなかった。
「ふ、ふふふ……」
笑い声が、聞こえた。どこから? 目の前からだ。
「ふふふ……あははははははははははっ!」
三人の目の前で、スレッドが高らかに笑った。銃弾が貫いたはずの体には、傷一つ見当たらない。
「死んで……ない。どころか……笑ってる!?」
驚愕に目を見開く聡一に向かって、スレッドがニヤリと笑った。
「死にませんよ。私はこの街の案内人、このラビュリントスの街の一部です。例え姿は変わろうとも、この街の本質は変わらない。そう……この街は死ぬ事がない。そして、この街の一部である私も、決して死にません。銃でハチの巣にしようとも、毒を盛ろうとも、絶対にね……」
その言葉に、馬場が舌打ちをした。
「化け物が!」
すると、スレッドは余裕の笑みを顔に浮かべる。そして、ふと、遠くを見た。
「何とでも、お好きなように。……あぁ、そろそろもう一体の、この街の化け物がお腹を空かせてくる頃合いですね。皆さん、逃げるのであれば、お早めに」
それだけ言うと、スレッドの姿はまるで幻であったかのように薄くなり、消えていく。そして最後には、完全に見えなくなってしまった。
「消えた……」
「……」
しばらくは、誰も口を利かなかった。だが、それでは駄目だと思ったのだろう。良哉が、口を開いた。
「あの……馬場さん、でしたっけ? その……本当に無かったんですか? 糸……」
「ん? あぁ……無かった。この街はそんなに広くない。それを二週間かけて、何人もの人間で探したのに、糸どころか、糸くずすら出てこなかった」
「そうなんだ」
俯き、再び顔を上げて、良哉は更に問う。
「……ねぇ、何人もの人で探したって言ってたけど、他の人は……?」
「さっき言っただろう。全員死んだよ。頭がおかしくなって、あの牛の化け物に自分から突っ込んでいった。当然、頭から食われて即終了だ」
「そっか……」
良哉が再び俯いたところで、今度は聡一が口を開いた。
「……なぁ、馬場さん。俺達は、この街から出るにはミノタウロスを倒す必要があると思っているんだが……何か、攻撃はしてみたか? 弱点は……」
言われて、馬場は少しだけ考える素振りを見せた。そして、記憶を辿りながら呟くように言う。
「そう言えば……糸を探す事ばかりに必死になって、あの化け物を倒そうと考えた事はなかったな。言われてみれば、何度か防衛のために銃をぶっ放した事があるが……足やら腕やらに当たった時は、痛がってたみてぇだった気がするな」
「じゃあ、やっぱり……!」
目を輝かせる良哉に、聡一は頷いた。
「あぁ。ミノタウロスは、倒せる。胡散臭いが、そこはあのスレッドの言った通りらしい。ひょっとしたら、ミノタウロスを倒せば糸が出現する仕組みなのかもしれない」
「そういうもんか? 俺はイマイチ、ピンとこねぇが……」
聡一の推測に馬場は首を傾げるが、そんな彼に良哉が笑顔を見せる。
「けど、探しても糸が見付からなかった以上、今までと違う行動を取ってみるのは必要だと思うよ」
「あぁ。ただ、やるとしたら決死の覚悟でやる必要がある。銃があるとはいえ、俺達は素人だ。あまり遠くから撃っても、当たらない可能性がある。ある程度近付けば外しはしないだろうが……下手すれば反撃されて、そのまま奴の胃袋に直行だ」
「心の覚悟を決めてから挑め、って事か」
納得しないままでありながらも、馬場が頷く。その時だ。
大地が、小刻みに震え始めた。どこからか、ズン、ズン、という音が響いてくる。
忘れるはずがない。ミノタウロスの足音だ。
「来やがった……!」
馬場が身構える。聡一と良哉は、慌ててスレッドの残していった銃火器を拾い上げた。
「兄さん、どうする? 正直言って、僕はまだ……」
「俺もだ。覚悟なんて、そうそう簡単に決まるわけがねぇ」
「じゃあ……」
ミノタウロスの咆哮が、辺りに響く。唾を飲み込み、聡一は絞り出すような声で言った。
「今はまだ、逃げるしかねぇっ!」
すると、馬場がマシンガンを構えたまま足音のする方へと立ち塞がった。
「なら、ここは俺が足止めしておいてやるよ。お前ら二人は、俺を気にせず遠くに逃げな!」
「馬場さん!?」
目を見張る良哉に、馬場は苦笑する。
「まぁ、正直に言うとよ。お前らの言う、この化け物を倒せば元の世界に云々って話、俺はまだピンとこねぇんだよな。だから、どうにもイマイチ希望を抱けねぇ。それに、二週間も探し続け逃げ続け、俺もいい加減疲れてきたんだよな。……まぁ、つまりはアレだ。俺も、頭がおかしくなっちまったって事だ」
「そんな……」
悲しそうな顔をする良哉の腕を、聡一が引いた。視線は、馬場に向いている。
「わかった。アンタの厚意は無駄にしねぇ! 逃げるぞ、良哉!」
逃げるために良哉の腕を引く聡一の手を、良哉は振り払った。そして、馬場を正面から見据える。
「……あの、馬場さん」
「何だよ? 早く逃げろって」
「いえ、あの……」
少しの間、言い淀み。そして良哉は、ニコリと微笑んだ。
「できれば、今度は元の世界で会いましょう。僕、コーヒーが美味しい喫茶店知ってるから……逃がしてもらったお礼に、ごちそうします」
その提案に、馬場はしばしきょとんとした。そして、楽しそうに笑う。
「ははっ……できれば、な」
「それじゃあ……」
「ほら、良哉! 行くぞ!」
焦れたように、聡一が良哉の腕を引く。今度はその手を振り払う事無く、良哉は走り出した。二人の背中を見詰め、馬場は「ふぅん……」と呟く。
「兄弟っつっても、随分温度差があるもんだ。……さて」
馬場はマシンガンを構え、振り向いた。いつの間にか、ミノタウロスがすぐ背後にまで迫っている。
「お前から逃げ切って元の世界に戻れれば、美味いコーヒーをおごってもらえるそうなんでな。ちょっとだけ、希望が湧いてきたわ。……ってなわけで、覚悟しな、化け物!」
叫ぶや否や、マシンガンから大量の弾が放たれる。
「グォォォォォォォォッ!」
銃弾を浴びたミノタウロスが、血飛沫を散らしながら雄叫びをあげる。その様子に、馬場はヒュウッと口笛を鳴らした。
「おぉ、効いてる、効いてる。致命傷にはならねぇようだが、やっぱダメージは食らうんだな。あの兄貴の方が言ってた事も、あながち間違いじゃあねぇかもな、っと!」
更なる連射。人間ならとうに死んでいてもおかしくない、むしろ死んでいなければおかしいほどのダメージを喰らい、ミノタウロスはついに片膝をついた。馬場は思わず、ガッツポーズをする。
「よっし、あと一息! こりゃ、本当にイケるんじゃねぇの? あー、何かコーヒーの匂いがする気がしてきた。コーヒーの美味い喫茶店って、どこだろうなー」
そこまで言ってから、馬場は「あれ?」と首を傾げた。
「そう言えば、あいつらの住んでる場所って聞いたっけ?」
住んでいる場所がわからなければ、コーヒーを奢ってもらいに行く事すらできない。そう言えば、ちゃんとした自己紹介もしていなかった事に、今更気付く。
「弟の方は、確か良哉って呼ばれてたよな? 兄貴の方は……」
「ソーイチ……」
「へぇ……聡一っていうのか、あの兄貴………………え?」
呟くような問いに思わぬ返答があり、馬場は感心したように頷いた。そして、目を見開く。
今この場に、馬場以外の人間はいない。いるのは……。
馬場の顔が、引き攣った。
「グォォォォォォォッ!」
長い時間を与えられ、傷が癒えてしまったのだろうか。ミノタウロスが立ち上がり、雄叫びをあげる。だが、馬場はそれに反応する事ができなかった。別の考えが、思考を占拠している。
「今、喋って……え? 何で……」
数秒後、肉が潰れる厭な音が、その場に響いた。
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