煉獄乙女

集落の西方にあるあらゆる生物も近寄れない炎に囲まれた剣山。


不可思議なことに青く光るその山へ豊穣を願い、凶作の年には10を迎える穢れなき女が祈りに向かう習わしがあった。


内からも外からも未貫通な穢れなき乙女。可能な限り豪華に飾られた神への捧げもの。


古今東西、世界中で行われていた贄の制度。その1つ。


乙女は青い神の山へと向かっていた。


いや向かわされていた。


贄である乙女は籠に乗せられ、喜びに咽び泣く両親を先頭に村人総出で送られる。


神殿火口まで音楽と唄を纏い、丁重に運ばれ、やがて山の麓へと到着するのだ。


祭壇へ続く道程は緩やかな坂であるが、黄色い大地が異臭と刺激で行く手を阻む。


ただ1人、誇りを胸に岩を踏みしめて瑠璃色に輝く炎へと足を進める。


そうすることで村の田畑に豊かな実りが与えられ、家畜は肥え、活気と未来が取り戻される。


嘘ばかりだと乙女は毒づきながら足を進めた。


腐敗臭だけでも辛いのに、目が刺激されて怒りと憎しみと悲しみ、あらゆる負の感情による涙と共に大粒の水滴が零れ落ちていく。


滴ると涙はすぐに渇いて消滅していった。湧き続ける辛苦をいくらでも飲み込んでいく。


熱気で呼吸も苦しかった。


逃亡しようにも舗装された一本坂をそれればすぐに村人に気づかれる。


眼下に広がる暗闇にちらちらと揺れる松明の群れを睨みつけるしかなかった。


祭壇で夜を明かし、下山するのが1番良い選択肢であろう。


けれども村人は夜明け後には去るという慣習からして、それまで無事でいられる保証がないのは明らかだった。


異様な匂いの煙は体に良いものではないだろう。


引きちぎった祭礼の衣装で口と鼻を覆ているが、はたしてどの程度の効果があるのだろうか。


神が現れ、己を喰らうというのなら隠し持ってきた短刀で反撃するつもりである。けれどもそんなものは慰めにもならないに違いない。


この世あらざるもの。


それが具体的に何であるのか、どういったものなのか皆目検討がつかない。


歳にしては秀で、村の古書を読み漁り老人に貪るように知識を求めた乙女であるけれど想像出来ない。


絶えず貧困に喘ぐ村を抜け出し、東の楽園へと思いを馳せていたというのに、それが仇となり死へと登山を強要された。


皮肉なものだ。


死の近づいた老人がこつこつと作り上げ、修繕してきた祭壇はそう遠くない。


石を積み上げただけの簡素な贄の台で、舞わなければならない。


そして朝日とともに青々と輝く火炎へと身を投じる。


頂上ではなく火口から辛うじて確認出来る位置に祭壇があるのはその為だった。


噴き出す空気を肺に吸い、人体を蝕まれ、もがき苦しみ、果ては焼身自殺。


それを神は嘲笑するのか、憐れむのか。


なんとも悪趣味ではないだろうか。


乙女は神など信じていなかった。それは村において異端であり、疑問になど思わずに居られれば、このような役を与えられずに済んだかもしれない。


そのように生まれついてしまった己を恨むしかない。


ごうごうと畝る青い不可思議な火に照らされ、闇夜に浮かぶ祭壇が見えてきた。


岩で傷ついた足は既に悲鳴を上げていた。


被って組紐で結んだだけの白装束。飾り立てられたとはとても言えない、質素な贄着。


下腹部の鈍痛が昨晩の蹂躙を思い返させる。激痛と揺れる体、酩酊で朧げな思考。


乙女は実験体でもあった。規則を破っている贄を捧げたならば、どうなるか。


救うことに値しない、唾棄すべき村の若い男衆。


飢饉と干ばつで飢えに苦しみ神へと縋るというのに、乙女と同じで信仰心などとうに無い。


伝承通りの神が本当にいるのならば、侮蔑に対する怒りで村を滅してしまえばよい。



「どうしてこうも無駄な事を繰り返すのかしら。」



不意に女の声がした。見回しても誰もいない。黄色と鼠色の岩に燃え盛る瑠璃色の炎。それに平たい祭壇と小さな祠しかない。


「誰⁉︎」


本当に神が存在するのかと周囲を見渡す。


「祭壇へ立つといいわ。」


命令されるままに従うのは癪だが、他に道は無い。


動悸の激しさで呼吸が荒くなる。息は浅く、少ない方が良いと自身に言い聞かせ歯を食いしばった。


恐る恐る階段を一段、一段と上がる。


刺激で込み上げる涙のせいで、ぼやける視界。


村長が乙女に告げた言葉が脳裏によぎる。


生の終着点、その身にこびりついた穢れと罪を聖なる炎で清めよ。恐れず踏み出せば神の国で永遠なる幸福を得るだろう。



飛び込んできたのは幻想的な光景だった。


漆黒の闇に吸い込まれるように流れ落ちる群青。入り乱れる紅の火柱。





「煉獄…。」




美しくも恐ろしい眺めに圧倒される。



「難しい言葉を知っているのね。」



再び女の声がした。乙女はガタガタと震える体を片腕で自ら抱きしめ、短剣を取り出した。


それからもう一度周囲を見渡した。


見間違いだろうか、前方で一際大きく揺らめく青い炎に人影が映っている。


布で涙を拭き取り目を細めて凝らした。


揺らめく火の中から乙女と同じ形の祭礼服を纏った女が現れる。


悲鳴を上げそうになったが、次第に近づいてきて輪郭のはっきりしたその姿に息を飲んだ。


青い炎を纏ったそこ女は、村では見たことがない姿だった。


艶めく鐘乳石のような滑らかで白い肌。


月のような目の冴える黄色に輝く長い髪。


左右で異なる色の目。


何より、何よりも、見たこともない程の美人であった。


「貴方は此処へ何を望みに来たの。」


抑揚のない、感情の見当たらない声に気圧される。乙女はじっと女を見つめて、いや睨みつけた。


「生きるためにきた。」


「そうなの。」



酷く憐みのこもった表情で神はじっと乙女を見つめた。


ここからどうやって生きて逃げれば良いのだろうと乙女は神の様子を伺いながら、周囲に目を動かした。


祭壇の先は緩やかな傾斜であるが燃え盛る炎の海でとても歩けるような場所ではない。


祭壇を囲うように聳え立つ崖はほぼ垂直。


崖は煙に隠されて終わりが見えないが、決して低くはないという事は地上から見て知っている。


背後は村人が見張っている。


殺害されるのを覚悟で、一縷の希望を胸に村人に挑むべきか、身体が動く限りを尽くして崖を登るか、炎を避けながら一度山底へ向かい迂回の道を探るか。


どれも絶望的で乙女の思考は停止した。


ただぼんやりと目の前に広がる煌めく世界を見つめ、絶えず涙を流す。


咳が止まらない。


「でももう遅いわね。代わりに望みはある?」


泣き叫んで乙女を助けてくれると思っていた両親の、嬉しそうな顔が瞼の裏に浮かんだ。


乙女が踊らなければ村に厄災が訪れるというのなら、好みが純潔でない事が神の怒りに触れるというのならば、それこそ願ってもないことである。


「私は乙女ではなく穢れた身。神よ貴方は侮辱され最早神ではない!」


さあ怒れ。


「そう。分かったわ。」


神がが眼前に来たと思うと、昨晩の激痛よりも強い痛みが胸を貫いた。


薄れる意識の向こうで鮮血の花が咲いた。



***



まるで死の国だとボルグが口にした。ルーオは恐れよりも、広い世界にはこんな幻想的な景色があったのかとただ感嘆した。


「こっちよ。」


手招きされてユーの元へと駆け寄ると、そこには衰弱しきった少女が横たわっていた。


抱きかかえようとしたルーオの体を制するとユーが隣にしゃがんだ。


「もう助からないわ。もう少し早ければ。」


ルーオに小さく耳打ちすると彼女は少女を抱き起こした。


「神…様…?」


薄く瞼を開き、か細い声で少女が呟いた。


「ええ、そうよ。貴方は此処へ何を望みにきたの?」


普段明るい彼女からは想像できないほど冷たく淡々とした声色に、ルーオは戸惑った。


「お父さ…嘘…ちが…。」


厄災を恐れて人身御供を続けてきた田舎の村々。ある時は救い、ある時は絶望を齎らした煉獄山の神。


不潔な乙女を山へ齎らし怒りにより、村や街は次々と灰に飲み込まれた。


火山灰に凍る街。


財宝の眠る黄金都市。


それが結局本当なのか嘘なのか、ただの言い伝えなのか、偶然が重なり願望と結びついただけなのか誰にも分からない。


ただ1人、神を除いては。


「愚かね、まだこんな幼いのに…。」


ルーオの眼前に真っ赤な飛沫が花のように咲いた。


「ユー、何して!」


「苦しみ悶えるよりずっと良いでしょう。」


何が起こったのか分からないと目を見開いたまま絶命した少女。ルーオは叫んだ。


「分からないじゃないか!」


「天寿を全うできずに全身から血を吹き出して死を迎えるのを黙って眺めたいのならば別よ。」


突然放たれた事実にルーオは固まった。ユーが少女の目をそっと閉じさせた。


「やっぱり神ってユーだったのか。」


ボルグの問いにユーが小さく頷いた。ルーオは青ざめた表情でユーを見つめている。


「なんで生贄なんて。」


「逆よ。いつの時代も人は神に捧げものをするものよ。この火山や不幸から身を守るために最上級の贄を捧げた。」


「そこにユーが来た?」


「生贄にされる女の子が可哀想で、最後に願いくらい叶えてあげようかと。生まれ故郷の希望になるという乙女ばかりだった。」


ユーが少女を抱きかかえて立ち上がった。


「私は可能な限り豊穣を授けた。」


「でもやめた。どうしてだ?」


「結果的に最後になった乙女の望み。贄の終わりと憎悪。その子だけ特別に願いを叶えないなんて卑怯でしょう。」


神に破滅を願い、ユーは受け入れた。彼女は神として振る舞ったのではなく、憐れな乙女達に力を貸していただけなのだとボルグは理解した。


強大な力を有しても個々人に肩入れしてしまい、大衆を蔑ろにしてしまう人間臭さ。


それが各地に伝説を残す。


「黄金都市が存在したなら、この子に教えてあげれば良かったのに!」


拳を握りしめたルーオが怒鳴った。


「貧困に喘ぐ村しかなかったわよ。それを彼女が信じたと思う?知りたかったと思う?まさか神を探しにこの山に来てしまうとは思っていなかったのよ。」


ユーは少女の遺体を眼前の炎へ投げ入れた。


それから両手を組んで祈るように両膝をついた。


「煉獄山へ行ってはならない。幻想を追いかけてはいけない。あれ程忠告したのに。さあ山を下りましょう。長居すると貴方達にも死が訪れる。」


返り血がまるで涙のようでルーオは何も言葉に出来なかった。


立ち上がって遺体が燃える火にユーも身を入れた。


その後ろ姿からは表情は分からない。


しかし煉獄で苦しむ乙女の姿、そのままであった。

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