洞窟の人魚

食すれば永遠の命、不治の病さえ治すという。上半身は美しき乙女で、下半身は魚だという伝説の生物。

遠くまで海上を旅する事が可能となり、地位や名誉を求める冒険者が旅立つ中、人魚の探索を目的とする者もいる。

愛する夫を失う事を恐れて決死の思いで船へと乗り込んだ彼女もその1人であった。

飢えた男の慰めに捕まらぬように、美しい髪を切り落とし、薄汚れた衣服を纏い、深く眠れぬ夜を何度も越した。

慣れない力仕事、役立たずと飛び交う怒号。碌に出されない食事は、暴力で更に奪われ、それでも一縷の望みを捨てられずに歯を食いしばる。

止めろと言わんばかりに、船が嵐で大破し暗く冷たい海へと引きずり込まれたまさにその時。

薄れる意識の中、天使の迎えが瞳に映った。

暗転する世界の中に、一度も目にした事がない美しい少女の姿。足はなく滑らかに水を掻く黄金の尾鰭は願望が見せた幻想かもしれない。



ぬるりとした冷たい感触に毛が逆立ち両目を見開いた。湿気が水滴になり天井の岩から垂れてきたようだ。

衣服を剥がれていることに気がつきあたりを見渡す。すぐ近くで焚き火がゆらめいていて明るいので、ここが岩の洞窟だというのが分かった。

天井は暗くて見えない。だいぶ高そうだというのは分かった。

磯臭く湿度は高い。火の近くで揺れる服を見つけて、周囲を伺いながら手を伸ばした。よく見れば張り出された岩と岩を細い金色の糸が繋がっていて、そこに服が干されていた。

「目を覚ましたのね。その服、乾いていたら着るといいわ。」

質素だが丁寧なレースのあしらわれた黒いドレスを身につけた女の子が暗闇から現れた。

一瞬息を飲む。まだ幼さは残っているがとてつもなく美しい。

左右で違う色をした目を始めて知った。黄金色の長髪。透き通るような白い肌。漆黒の長い手袋をした両腕には魚を何匹か抱えていた。

「貴方が助けてくれたの?」

「さあどうかしら。どんな風貌で、どんな状況でも赤の他人を信用しない方が良いわよ。」

見た目に反して大人びた言葉遣い。立ち振る舞いや仕草からも教養を感じる。

ポタポタと滴る濡れた体を気にするでもなく、女の子は魚を足元に下ろした。それからこちらへ何かを投げてきた。

突然の事にビクリとして身構えたが、まだ全裸。身を守る術などない。投げられたものを見ると船上から投げ出されるまで腰に巻いていたベルトと短剣であった。

女の子を目で牽制しながらサッと拾い上げた。何もしないというように、肩を竦めてから女の子はその場に座り込んだ。先程のは脅しではなくからかいだったのか?急いで服を着てもう一度女の子を見つめると、微笑まれた。

「魚は食べれるかしら?」

「ええ、あの、ありがとう。私はヨナ。貴方の名前は?」

「そうね、メロウと呼んでくれればいいわ。」

どこからともなく出した金色の串に魚を刺しながら、女の子は曖昧に答えた。

聞きなれない名前だが、容姿からして随分と違う。自分は祖国から随分と離れた場所へ進んできたのだろう。

「ここは何処?メロウはここに住んでいるの?どうやって私を助けたの?」

「質問攻めね。」

回答がないことに眉を顰めると、メロウは魚を焚き火で焼きながらクスリと笑った。

「大丈夫よ、帰れるように考えてあげる。その代わりに質問は禁止。してもいいのだけど、気が向いたら答えるわ。説明すると長くなるの。」

「長くてもいいわ、聞かせて?」

「悪いけど、なるべく馴れ合わない事にしているの。」

そこまで言われて食い下がる気持ちは湧かなかった。

「怪我もあるし、疲れてるでしょう?座った方が良いわ。」

「ありがとう。」

飢えと疲労を自覚させられ、喋るのが億劫になり彼女は黙り込んだ。腕も足もぶつけたのかジンジン痛む。

体を温める炎があるのが心底嬉しい。

「熱いと思うから気をつけて。虫がいるかもしれないから皮は捨てて。それから内臓も。」

年の離れた妹という容姿なのに、まるで母親のような口調。不思議と逆らう気持ちにはならない。田舎娘の直感であるが悪い人ではなさそうだ。

串を受け取ろうと指を伸ばしたが、あまりに熱く直ぐに手を離した。平然と持つメロウは岩と岩の間に串を刺して立ち上がった。

「もう少し冷めたら食べるといいわ。」

混乱する頭でボンヤリと後ろ姿を眺めた。暗闇の中へと消えゆく姿も、光を放つように美しかった。


焼かれた魚を食べ終わり、冷えた体がすっかり温まってもメロウは戻って来なかった。薪木を松明代わりに歩き出す。

まだ乾ききらない靴を履いたが、ねちょねちょと濡れていて気持ち良いものではなかった。

湿った岩に囲まれた洞窟のようで、行き止まりは早かった。端から端まで100歩もない。

一箇所だけ海水のある穴があった。人1人通れるくらいで、中は随分と深いそうだ。

閉じ込められている。

ここがどこだか分からない以上身動きは出来ない。メロウが出入りしているのがこの穴ならば潜ってみる価値があるかもしれないが不安要素が大きすぎる。

長い時間覗いていたが、メロウは戻って来なかった。仕方なく焚き火の元へと戻ると鍋を両手で持っているメロウの姿があった。

やはり雫を垂らしている。

「嵐は止みそう。暑くなると逆に危険ね。貴方、息は長く止められる?」

「どこへ行っていたの?どうやって?」

自然と短剣を身構えていた。メロウは驚きもせず、動きもしなかった。

「ここで白骨や海獣の餌になりたいなら止めはしないわ。私、好んで人助けするわけじゃないもの。でも多少苦労したのよ。」

淡々と発してメロウは焚き火に鍋を置いた。三角に盛り上がった蓋を逆に乗せて座り込む。

ここまで無警戒にされると飛びかかる気も削がれた。黙って短剣をしまって向かいに腰掛けた。

「どうして助けてくれたの?」

「また質問ね。はい、これ。」

差し出されたのはロケットペンダントだった。慌てて開くと壊れたところは無かった。

「これ、私の…。」

「家族の肖像画でしょう。こんな愛らしい娘がいるなら死ぬわけにはいかないでしょうね。」

相変わらず微笑んでいるが、少し寂しげな声だった。

「ありがとう。これ、どこに?」

「あの袋もあげるわ。私には必要ないもの。」

目で示された岩肌のところにずぶ濡れの袋が置かれていた。両手に収まりそうなその袋から金貨が覗いている。

「眠った方がいいわ。陸まで距離があるから体力が無いと危ないもの。寝てればその間に水が出来るから。」

メロウは返事も待たずに穴の方へ歩いていった。暫くして海水を汲んだ手桶を持って戻ってきた。

目の前の鍋の蓋に手桶を乗せる。逆三角形だった筈なのに、手桶は傾くこともなくぴったりと収まった。

「どうして…。」

「水蒸気には塩分が含まれないから…。」

「そうじゃなくて、この鍋の蓋。」

「ああ、そういうものなの。さあ、眠りなさい。」

ふいに体から力が抜けた。瞼が重い。霞む視界にきらきらと輝く蜂蜜色で染まっていった。


暑さと体の痛みで目が覚めた。海上にいる。所々腐っているほぼイカダ状態の小船に乗せられていた。

「布を被っているといいわ。バランスが崩れるといけないからあんまり動かないで。壺も動かさないこと。干からびて死にたくなければね。」

反対側の端に腰掛けているメロウの指先が示す先に木彫りのコップが置いてあった。中には水が入っている。その隣に水いっぱいの灰色の壺もあった。

「いつの間に…。ねぇ、メロウ貴方何者なの?」

「そういう貴方は何者なの?ねえヨナ。」

優しげに笑っているが目が怖い。

「私は…ただの田舎者よ。夫の死が怖くて娘を残して伝説に縋って海へ出た大バカ者よ。娘も夫のようになるかもしれない…。」

日に日に変わっていく夫の姿を思い出して涙が込み上がってきた。

「伝説?」

「人魚よ。」

「ああ、そう。そういうこと。」

興味なさそうな様子に気まずくなる。

「この世には不思議なことが沢山あるものね。それより様々な知恵を探す方が得策よ。話してみなさいよ、病気の内容。」

発疹に皮膚が鱗の様になったこと、急に出血する夫。

奇病、悪魔の呪いだと街から追い立てられて、隣街との境にある森に住んでいたこと。

家を飛び出して、船に乗り、人魚を探しに出たと溢していた。過酷な海上生活に嫌気がさして、人魚など妄想の産物かもしれないと気持ちが萎えてきていた。

そこに嵐が訪れて、船を大破した。

「人はいつか死ぬわ。気持ちは分かるけど。気概があるならば多分その病の治療法が確立している土地を訪れればいいわ。でも、遠いし旅に危険はつきものよ。大切な人の側にはなるべくいた方がいい。私はそう思うわ。」

「その土地って何処にあるの?」

「貴方の帰る大陸は向こう。その国はあっち。ちょうど正反対くらいね。随分昔にいたからその国が今どうなっているかは知らないけど。」

「そんなに遠いの?」

「ええ。恐らく無事に戻れたとしても、年単位の時間が過ぎているでしょうね。」

メロウはそう言うと、視線を水面へ落とした。

「保証は出来ない。でも望むなら付き合ってあげる。思い出したら懐かしいもの。ねえヨナ、約束できる?私と出会ったことを見聞きしたことを決して他言しないと。それと、陸へ上がれたら他人として移動するの。」

真剣な視線を送られたが、軽い気持ちでこくりと頷いた。得体の知れない人物だが、藁にもすがるしかないのだから迷いはなかった。

ふいに船に衝撃が走った。巨体の鮫が牙を剥き出しにて飛び出してきた。

「あら、困ったわね。鮫の群れ。」

メロウがまるで虫を払うように鮫を払った。水しぶきを上げて鮫が沈む。

「メロウ!何で?どうして?」

「血の匂いでもしたのかしら。貴方、怪我してたしね。」

「そうじゃなくて、手で!」

「そういうものなのよ。ヨナ、声に出して約束して。沈黙を守ると。」

水面に鮫の背びれが5つは見える。ドンと揺らされる小舟が沈没するのも時間の問題だ。恐怖に震えて声が出ない。

「ヨナ、死ぬの?」

冷徹な響きだった。

「誓うわ、必ず守る。」

震えて上ずる声で叫んだ。途端に胸がチクリと痛んだ。

良い子ねとメロウが不敵に微笑んで海へ飛び込んだ。

渦潮が発生し、鮫が巻き込まれてグルグル回る。不自然な波が舟を押し出し、みるみる渦から遠ざかっていく。

放心して眺めているとメロウがバシャリと船上へがってきた。両手に靴を抱えている。

足だったところには白く滑らかな陶器のような尾鰭になっていた。

「偽物だから、肉を削ぎ落として食べようとしても無駄よ。」

無意識に短剣を握りしめていた。ジリジリとメロウへと躙り寄る。

憐憫のこもった瞳をたたえ、メロウは首を横に振った。

「でも、だって…!ねえ、お願いメロウ。」

「やっぱりうんざりだわ。さようなら。幸運に恵まれると良いわね。」

メロウは両腕で逆立ちすると、腕のはずみで海へと飛び込んでしまった。影はみるみるうちに小さくなり、あっという間に見えなくなった。

「メロウ!メロウ!」

何度叫んでも彼女は戻ってこなかった。ヨナは四方を海に囲まれて途方に暮れるしかなかった。

己の愚かさに涙が頬を伝っていった。




足首まで海に浸かって、黄昏を眺めるユーの肩にルーオは近づいて、グッと手を伸ばした。

「昔もね、折角助けたのにあっさりと見捨てたの。初めから何もしなければよかった。いつもそう。毎回そうやって後悔するのに呆れるわ。どうせ皆、老いて死ぬんだもの。」

投げやりな言葉に伸ばした手が止まってしまった。様々な話を聞くごとに、想像が出来ない事ばかりで上っ面の台詞しか思いつかない。

無邪気に感じたままを話していた少年時代の方がずっと距離感が近かっただろう。

年々、彼女と溝が深まっているようで気持ちだけがはやる。

海風に白いワンピースが靡く中、相変わらず髪はピクリともしない。

投げかける言葉が浮かばず、立ち尽くしているとユーが急激に縮んだ。

海に沈んだユーの足が無くなっていた。滑らかな鰭が海面から覗く。

「ユー?」

「海底なら誰とも会わない。でも凄く寂しかった。」

このまま何処かへ去ってしまいそうなユーを、何故だか止める気にならない。

浅瀬に沈みきったユーを、揺らめく姿を、見下ろす。寝る前に母がしてくれた人魚の御伽話も、彼女の存在が発祥なのだろう。

立ち膝になって。覆いかぶさるように海水に顔をつけた。目を見開いてユーを真っ直ぐ捉える。

「ごべぶばば、ばごべばばぼ。」

声にならないで泡となる。ユーが弾けるように起き上がり、ルーオを押し上げた。

「何言っているか全然わからないわ!慰めてくれるのね、ありがとう。」

ユーは心底愉快そうに笑い、ルーオの頭を撫でた。

「早く人に戻ろう!一緒に歳を取る時間がないとな!」

海の中、ずぶ濡れでユーを抱きしめるとルーオは大声で笑った。温もりがなく、硬い身体が切なかった。


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