消えた大地の精霊
草原に霜がおりる前に、モルゴの遊牧民族の大半は家畜を率いて南のカルヌへと移動する。
未婚の男女は婚姻後、何年か留守にする土地を他の民に奪われないように残留しなければならない。
厳しい冬を越し、絆を深めて真の夫婦となってようやく一人前と認められる。
凍えるような冬を乗り越える知恵も技術も確立されつつあったが、過ごし易い所へ赴く方が効率的であった。
何代か昔、うららかな春に一族が帰郷してみると移民の民と衝突し、血まな臭い争いを繰り広げてしまった。
その結果、理由を取り繕って掟が制定された。
冬の大地に残る一族を守る精霊が今年の夫婦を選定する。彼女の決定は絶対だった。
集落の中心の守護神の住まいの前、羊に囲まれた精霊が高らかに名前を読み上げる。彼女の、そして彼の名は最後まで出てこない。
輝かんばかりの透き通った陶器のような白い肌の精霊が、彼女を見つめて微笑んだ。
彼女の隣で彼が宝物を見つけたような、キラキラとした瞳で精霊を見つめている。もう何年も、何度も見せつけられているのにその表情に胸の奥が軋む。
彼女は日に焼け焦げた己の褐色の腕に視線を落とし、小さくため息を吐いた。
人非ざる者と比較してどうするというのだ、と理屈で押し込めようとしても鬱屈とする感情は込み上げる。
山羊飼いの末娘は今年も嫁にいかないのかと後ろで囁きが飛び交う。年はもう19になるというのに認められず、憐れまれなければならない。羞恥心が胸をかきむしる。
夏も終わりを迎え日は随分と短くなった。茜色が草原を染め上げる。燃え上がるような太陽が地平線へと吸い込まれていく。通達は終了し、広場からぱらぱらと民が減っていった。
伴侶と決まった者たちが気恥ずかしそうにお互いを見つめ、あるいは2人でそっと歩き出す。不満気な者や彼女同様に相手が決まらなかった者の表情は暗い。
精霊の決定は絶対だ。また1年、役目を果たせないという暗澹たる想い。けれどもまた1年秘めた気持ちを捨て去らなくて良い事実に安堵も覚える。
今年もかと心の中で安堵しながら、背を丸めてテトへと戻っていく山羊飼いの末娘にちらりと目線を向けた。
良く働く、気立ての良い娘。笑顔が愛らしく密かに好意を寄せる者も多い。
彼女が時折見せる熱い眼差しは、勘違いではないはずだ。応えられないその気持ちに申し訳なさを感じるが、こういう感情は理屈ではないのだから仕方がない。そう言い聞かせる。
「ユタ様、ユタ様!」
羊を従えて祠へと戻りかけた大地の精霊に詰め寄った。近寄ると、その異質さと美しさに毎回眩暈を覚える。
透き通っていて、無機質で、生気のないこの世あらざる存在。
民の娘らが仕立てた羊布の衣装を纏った精霊は、じっとしているとまるで人形のようでもある。
「どうかしました?」
「何故、俺はまだ縁談が認められないのですか?」
歳はもう20と2つ。責務も果たし、民に貢献している。人より秀でているとは思わないが、劣ってはいまい。
なのに、民でこの年齢まで伴侶がいないのは自分だけなのだ。
その理由を期待してはいけないのだろうか。
「貴方がまだ半人前だからです。」
ぴしゃりと言い放つと精霊はくるりと背を向けた。
冷たく遠ざかるのを引き止めようと手首を掴んだ。
引き寄せようとしてもピクリとも動かない。その気になれば引きずり、振り払うことも可能なのにそうはされない。
鉱物のように煌めく異色の瞳が自分を射抜く。
精霊が暑くても年中着けている赤い毛糸の手袋に視線を落とした。うんと綿の詰められたそれは、やはり人形のようだ。摑めるから幻ではないのは確かであろう。
「そんな事はないです。父も認めてくれています。知っている筈です。」
「今夜大事な話があります。半宵に集合がかかるでしょう。」
抑揚のない声を合図に、手を振り払われた。祠へ戻っていく精霊を黙って見つめる。
硬く閉ざされた岩の祠は閉じればもう開くことはない。民の誰も動かせない祠の岩戸をいとも簡単に動かしてしまう精霊は、改めて遠く感じた。
幼い頃、皆と遊んでくれて屈託なく笑っていた面影は何処にもなかった。
彼女に焦がれるほど、避けられていく。ほんの何年か前までは、満面の笑顔を隣で独占していたというのに。
どうして。
遊牧民と小国との小競り合いが大々的に勃発しかけたのは、水面下での交渉決裂が合図であった。
休戦の申し出は意外にも、たった1人の青年の首。
差し出される筈のその首は、生身の綺麗なまま引き渡された。
「どうして。」
壁画を見つめる少年が、頭上に疑問符を浮かべる。睨み合う兵士の間に項垂れる青年らしき人物。
「古き王の最後の末裔。戦国乱世の統一を目論む国。滅ぼされたくない一族。そういう色んなことが重なったのよ。」
風化してかすれかすれの洞窟の壁に残された過去の記憶に、想いを馳せる。
幾百の年月が過ぎ去っても大地の景色はあまり変わらないように見えた。背の低い、硬いドラの草原。
地平線に吸い込まれる、紅蓮の太陽。
質素に生きていた遊牧民。
「何もかも捨てて、一緒に逃げようとも思ったわ。それか戦おうと。」
誰かの想いが遂げられると、誰かに不幸が舞い込む。嫌という程思い知っているはずなのに、過ちを繰り返してきた。
「どうして逃げなかったんだ?」
描かれた人身御供にされた男をそっと撫でて、少年は眉をしかめた。
「出来なかった。だってどうせ1人残されるのだもの。彼を愛する娘のことも、私は好きだった。凄く良い子で幸せをねがってた。それで、1番自分が辛くない道を選んであの雪山に逃げたわ。」
「辛かったなら。」
「仕方ない?そうは思わないわ。救える命が多くあった。」
「でも、奪う方だって…辛かったんだろう?早く生まれた国を見つけような!」
消えかけた細い記憶の糸を辿る旅。早く終わりを迎えたい。けれども。
共にここまできた少年に視線を向けた。赤ん坊の頃から知っている少年も、時期大人になるだろう。
彼が恋をし、愛を知って、子を成して、老いて死ぬまでを見届けたいとも願う。
そうしてまた過ちを繰り返す。だから真実を胸に閉じ込めたまま彼と行く。終焉の土地にあるのは、希望ではなく絶望だけれどもそれで構わない。
踏み外し続けた階段を、踏みしめて覚悟を決めるのだ。
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