第221話 今日から神様になる方法 上 ☆


 事態はのっぴきならないことになっていた。


 それは、マヨレナ丘陵で行っている実験がうまくいかないせいではない。アンテノーラで稼働させている活版印刷機の調子が安定しないからでもなく、資金繰りがますます悪化しているせいでもない。いや、それらの要因はいつもいつもフギンに重たくのしかかっているが、ここのところフギンの顔色を悪くしている一番の原因は、まだ見たことのない形をしていた。

 フギンは人払いをしたヴィールテス写本工房で、二冊の論文を前にしていた。

 それはフギンたちが夜な夜な作り続けているヨカテルの論文の写しとは違う。

 粗悪な紙が使われており、印刷の程度も低く、何より実験に関する記述や数字にあきらかな間違いが含まれていた。誰かがもとの論文を適当にうつしとったか、うらみを買った人物が悪意をもって作成したものかもしれない。

 

 つまり、この二冊は偽物なのだ。

 フギンたちの知らない間に、ヨカテルの論文の偽物が出回っているのである。


 知っての通りザフィリに帰還したフギンたちは、エミリアを自由にするためヨカテルの論文を配り回った。反響は思っていたよりずっと大きく、用意していた在庫がなくなっても論文を求める声はやまなかった。アンテノーラは昼夜の別なく論文を刷り続けており、従来の写本では考えられないほどの速度で印刷をし続けている。

 だが、アンテノーラから写しを輸送するのには時間がかかる。

 輸送が終わっても、印刷ミスがないかどうか確かめて製本する手間もある。

 今後はヨカテルの論文のほかに、エミリアたちの研究成果も周知していかなければならない。フギンの《翼》を惜しむことなく使い、写本工房の職人を総動員しても、なかなか追いつかないのが現状だった。

 製本をほかの工房にまかせるとか、ごく簡素なものにする——たとえば、論文を厚紙に挟んだものを配るとか——という案も出たが、フギンとマテルはそれだけは絶対に避けていた。


 それは、いつか偽物が出回ることを予期してのことだった


 フギンたちの研究を妨害したい錬金術師はいくらでもいる。

 そのときに一番効率的な方法が論文の偽物をばらまくことだ。

 じつは、ヴィールテス写本工房が発行した論文には、すでに偽物対策をいくつか仕込んであった。

 たとえば、表紙裏に仕込まれた割り印だ。

 表紙の裏には紫色の紙が貼ってあるのだが、実は袋とじになっており、本物と偽物を区別できるよう印を押してあった。

 これでいちおうは偽物と本物を区別できる。

 ただ、質の悪い写本が広まれば『ヨカテルの論文はでたらめ』『フギンたちの研究は注目を集めるためのインチキ』という声があがらないとも限らない。

 工房に偽物の論文を届けてくれたのはテルセロの仲間たちであった。

 彼らもヨカテルの研究に着目しており、論文を手に入れようとして偽物に行き合ったらしい。錬金バイクの件は結着していないが、知らぬ仲ではないということで、サロンでこっそり情報をくれたのだった。

 粗悪な偽の論文を手にしたとき、マテルは驚き怒るよりも、深い疲労をにじませた表情だった。

 つらいのは計画に協力してくれている工房の者たちも同じだ。

 職人たちやマテルの両親には、フギンの正体を話したうえでほとんど無償で協力してもらっている。金がもうかる話でもなし、人をひとり助けるために払った犠牲は大きい。

 それが、誰が差し向けているかもわからない悪意で台無しになるというのは、考えたくもないことだ。


「……次のアンテノーラ便で、活版印刷機を一台運んでもらおう」


 夜遅く、明かりに照らされたフギンの顔は苦しげだった。


「印刷機を……どうするの?」

「考えてることがある。偽物対策だ。……今までは、論文の正確な写しをできるだけ多くの錬金術師に行き渡らせることを目的に行動していた。でもそれでは遅すぎる。時間がかかる全文ではなく、最低限の論文の要旨だけを一枚刷りにして、ばらまく——これなら活版印刷機をもっと効率的に動かせる」

「つまり、賢者の石に隠された秘密だけをみんなに知らせるってことだね」


 フギンは灰色の表情でうなずいた。

 顔色が悪いのもある。しかしほとんどはインクやノリがはねたのをそのままにしているせいだ。

 マテルもフギンも仕事のし通しで、前掛けは汚れたまま。

 インク壺を乾かす間もないくらいだ。


「だが……それではかえって敵にスキを与えることになるのではないか?」


 フギンが言っているのはあまりにも付け焼刃すぎる策であると見抜き、ヴィルヘルミナが告げる。

 ヴィルヘルミナはばかではない。教養もあり、冷静になれば鋭いことを言う。

 普段は無鉄砲なところがある少女だが、仲間のためにあえて言葉にしたのだろう。

 フギンは膝のうえで拳をにぎりしめていた。

 論文に割り印を押し、一文字の写し間違いや印刷のズレもないように確認してから信頼のおける工房で発行しているのは、それが錬金術師の手に渡ったとき、彼らがみずからの目で「正しさ」を推しはかれるようにするためだ。再度の実験を行い、論文が正しいことを証明できるようにするためだった。

 要点だけをかいつまんで一枚刷りのちらしのように配り歩けば、確かに反響は大きくなるだろう。錬金術師だけでなく普通の街の人々も感心をもつかもしれない。だが……掲載できる情報が少ないぶん、よけいな憶測やデマも広がる。

 敵は偽物をばらまくことで、フギンたちの信用を失わせようとしている。

 その行為に力をかすようなものだとヴィルヘルミナは言っているのだ。


「何をあせっているんだい?」


 マテルにも、いつになく杜撰な計画であることは見抜かれているだろう。

 フギンはその問いに答えることができなかった。



 次のアンテノーラからの荷を受け取るために、フギンたちは再びオリヴィニス近郊の村へと、文字通り羽を伸ばした。

 商隊に変装したアンテノーラ宮殿の騎士たちも二回目の輸送とあって首尾は上々。問題なく納屋に隠した荷物を引き取ることができた。

 荷運び隊を率いる守護騎士エメナは、荷運びのときは護衛頭をつとめ、アンテノーラに戻ればアンナマルテ付きの侍女として印刷機の運用をしてくれる頼もしい女性だ。


「アンナマルテ様の指示により、活版印刷機を一台、解体して持ってきました」

「ありがとう。女性には大変な荷物だったと思う」

「なんの。剣と盾よりはずっと軽いものです。アンテノーラの娘たちもずいぶん印刷機のことを覚えましたよ。……ただ、アンナマルテ様から、印刷機の用途をかならず聞いてくるようにと仰せつかっています」

「アンナマルテが?」

「はい。計画を急に変えるということは、何か不測の事態が起きたのではないか、と聖女様ともども案じておいでです」


 どうやら敏いアンナマルテに隠し事をするのは無理らしい。

 そんな気はしていた。フギンは考えていた『偽物対策』について話した。

 エメナは終始、難しい表情をしていた。

 彼女の懸念も、おおむねヴィルヘルミナと同じようなものだろう。

 だが、フギンにはもう選べる手段というものがない。

 そのときだった。


「やめといたほうがいいんじゃない?」


 そんな声が、あり得ないところから聞こえてくる。

 見あげると、少年が天井のはりのところに腰かけている。


「メル!」

「やあ!」


 メルは梁に腰かけたまま片手を上げた——と思ったとたん、後ろにひっくりかえってみせた。

 エメナがとっさに放った矢がメルの前髪を切り裂き、屋根に突き立った。

 二本ともだ。

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