第165話 叡智の真珠《下》



 いずれ国に帰り導師シャグランと呼ばれるであろう魔術師は、鈍い緑色の髪をした先祖返りであった。

 精霊を見る才能に優れ、マナ分けの儀式もなしに三歳の頃からの世界に親しみ、西の国を訪れたときにはすでに呪文を口にすることなく魔術を操ることができたと噂に聞く。

 質実の人であり、宮廷で用いるおべっかや、貴婦人たちをときめかせる振る舞いとは無縁であった。

 図書室で姿を見かけたときなどは思いがけない幼さに驚かされた。とっくの昔に成人を迎えていたはずだが、十五かそこらの少年と変わらない体つきをしており、臙脂色の地味なローブ姿で、そうと言われなければ魔術師かどうかも疑わしい。

 というのも王国と帝国の友好のために訪れた彼の修行仲間たちは、高貴なご婦人方のサロンへと大手を振って出入りし、遊興にふけり、恥ずべき噂を振り撒いていたからだ。

 しかしそれは王国の魔術師のやることと大差ない。宮廷魔術師の力量というのは魔術の腕よりもそのあたりで決まることが多いのが実情だ。

 世辞も社交もへたなシャグランは何の後ろだてもなく、宮廷魔術師クイユレルに弟子入りしたものの、実験に使う《ねずみの世話》という下働きのような仕事ばかりさせられて、任期である四年が過ぎたのだと、これも人の噂である。





 そこまでを文章にしたため、ジルエットは羽ペンをインク壺のほとりで休ませてやった。

 王陛下から宮殿への出入りを許されてから、もう二十年ほどとなる。その間、図書室はおだやかで、ジュイサンヌのいかなる乱痴気騒ぎとも無縁であった。

 シャグランは観察されているとも知らないで魔術書を積み上げ、ときおり、ねずみを入れたや空中のなんでもないところにじっと視線をやっていた。

 あまりにも地味で飾り気のない様子は大書店の下働きよりも目立たない。

 ジルエットは父親から引き継いだ《叡智の真珠》の彼の項目がやたらに薄くなるだろうことを心配した。

 趣味の記録であるから、誰に文句を言われるわけでもない。

 だが長いこと記録を続けているとペンを置くべきタイミングというものがわかるようになる。そのときは、シャグランの記述の終わりはここではないのではないか、という勘働きのようなものがあったのだ。

 そこに若者がやってきた。赤毛だが、上背があって、爽やかな顔立ち。クロヌで流行している当世風の服に、申し訳ていどに臙脂のローブを羽織っている。彼がエスカという名の魔術師で、同じくベテル皇帝に仕えているシャグランの同僚であることをジルエットはよく知っていた。叡智の真珠には既に彼の項目もあるからである。

 エスカはジルエットを見つけると、ひどく嫌そうな表情をしたが、結局、何も言わなかった。


「おい、シャグラン。悪い知らせを持ってきてやったぞ」


 若くぶしつけな声音は静寂を打ち破った。

 シャグランはまったくの無表情である。


「ミニヨン公爵夫人が夜会を開くことは知っているよな」


 シャグランは黙ったまま首を横に振った。


「おいおい。公爵夫人はこの日のために舞踏場をすべて改装して、大工事をしているんだぞ。硝子ばりをすべて鏡にして、クロヌの職人たちが丸一年食っていけそうな額をつぎ込んでいるんだ」


 エスカの評価は多少、下方に修正されているといって過言でない。公爵夫人が大演舞場に持ち込んだのは、大量の鏡ばかりではない。天井に煌めかせるための、クリスタルでできた素晴らしいシャンデリアや真新しい天井絵、美々しい銀の燭台もだ。使われた鏡も数百枚という規模だった。職人たちは一生食っていけるだろう。


「この夜会は俺たちの送別も兼ねている。お前も招待されているんだよ」

「悪い知らせとは?」

「これから仲間たちが、賭けをしようと誘いに来ることになる」

「私は夜会には行きたくない。賭けもしたくない」

「そうだろうな。だが公爵夫人は王陛下の妹だ。誰もお誘いを断ることはできない」

「そうかな」

「そうなんだ。それにみんな、故郷に帰ったらベテル帝の下働きだ。ベテル帝は領土を増やし、相変わらず熱心に敵を作り続けている。俺たちの魔術は侵略戦争やほかのもっとひどいことに使われることになるだろう……。みんな憂さ晴らしがしたいんだ。だけど、そのためにお前が使われるところは見ていられない」


 エスカの渋い顔つきや声音は、まるでこの世の終わりだと言わんばかりだ。

 シャグランはというと、この世界の終末にまつわる偉大な忠告を、まどろみの中で聞いているかのようだった。


「エスカ、君はいい奴だな。何も心配することなんてないさ」


 そう、春ののどけさで言った。

 エスカの言う通りになるまで、数分もかからなかった。

 ジルエットの見守る前でシャグランと仲間たちはささやかな若者らしい賭けをすることになった。

 すなわち、ミニヨン夫人の素晴らしい夜会に《いちばん美しい女性を伴って来るのは誰か》という、無邪気で残酷な賭けであった。

 むろんシャグランに女性を同伴する当てがないと知ってのこと。物笑いのたねにしてやろう、という心づもりだ。

 しかし、シャグランは意外にも負けを認めなかった。


「賭けは私の勝ちだ。私は魔術の力によって人間の女性を作ることができるのだから」


 仲間たちはそれを聞いて大笑いした。エスカはただただ驚いている。

 魔術によって生命を創造することは至高の極みをめざす魔術師の三大命題のうちひとつだ。古代には土人形に魂を込める術があったようだが、現在では失われてしまい、不可能の代名詞のようになっている。

 ひとしきり笑ってしまうと、シャグランがいつまでも変わらない無表情でいることに何かしら不気味なものを感じたのだろう。


「それが本当なら、やって見せてみろ」


 ひとりが不機嫌そうに言った。するとシャグランは、


「たとえ女を作っても、ドレスや靴、絹の手袋や、宝石を揃えてやる力がない。裸の女を夜会に連れていくわけにもいかないだろう」


 と言ってわざとらしいため息を吐いた。

 仲間たちはむしろ来るときよりも不機嫌になって、三々五々に散って行った。

 ジルエットも覗き見をやめてその場を離れたが、その後の顛末のことも、じきによく知るところとなった。

 というのもこの仲間たちとのやり取りがジュイサンヌの様々なところで噂されるようになり、ミニヨン公爵夫人の耳に入るここととなったのだ。

 王都で一番の洒落者である夫人はこれを聞き、すぐさま素晴らしい出来のドレスを仕立て上げてシャグランの元に届けさせた。高貴な青の生地に、ほんものの金剛石をふんだんにあしらった豪勢なドレスは話題をさらい、評判を呼んだ。

 さらに、その評判を耳にした高貴な人々はこぞって夫人の真似をして、我先にとシャグランの元へと贈り物をしはじめたのだった。

 キャナリ伯爵はお抱えの職人に舞踏用の靴を作らせ、ダビエン夫人は絹織物の産地から取り寄せた特上の生地でグローブを作らせた。極めつけには王陛下自らが、王家の宝物庫から、先祖代々の秘宝である宝石を持ち出して首飾りに仕立て、貸し与えた。噂を聞きつけた街の商人たちも、今こそ名を売るときとばかりに繊細な細工の扇やら、耳飾りや髪飾りやらをまだ誰も見たことのない貴婦人のためにと贈ったのである。


 かくして、満を持して執り行われた《星芒の宴》は、人と交わるのを好まない魔術師を彩る唯一の説話となった。


 当日、シャグランはひとりの婦人を伴って夜会へと現れた。

 それも彼女を見た百人の男たちすべてが、ひどく美しいと感じ入り、惚れ惚れとため息を吐くような女性だ。

 澄んだ薄氷のような瞳に濡れた真珠のように輝くまぶた。

 鼻や唇、ほっそりとした顎の造作は、天才彫刻家が純白の大理石を彫りあげたのではないかと思うほど。長いまつげは繊細な銀細工のよう。

 何よりも、とろけるような亜麻色の長い髪がすばらしい。

 結ってなお、腰のうしろまでまっすぐに伸びる髪が絹の旗のように翻るのは、まるでこの世のものとは思えない。また振舞いは深層の姫君のようで、金で買われる類の女のようにも思われなかった。

 いずれにしろ、一夜にして王都に現れた女性であることは間違いなかった。このように高貴で魅力的な女性がクロヌにいたならば、噂好きの貴族たちが見逃すはずはないし、あちこちのサロンから引っ張りだこに違いないからだ。

 招待客はすっかり虜になってしまった。

 幸いだったのは噂の真偽を確かめて、その正体を暴いてやろうなどという下世話な輩がいなかったことだ。

 仕掛けがわかってしまった夢や幻ほど興ざめなものはない。


 それに何より、ふたりの仲むつまじいこと……。


 ふたりが舞踏場の真ん中までやって来ると、誰もが最上のお辞儀をして場所を譲った。

 ふたりは向かい合わせになり、手に手を取って踊りはじめた。

 女はシャグランよりも背が高く、まるで姉弟のようだったが、気にするようすもない。

 見つめあって、まるでこの舞踏会に自分たちだけしかいないとでも言いたげな……。

 笑いさざめきお互いの耳もとにひそひそと話しかけては、おかしくて堪らないと身をよじり、ステップははねる子鹿のようで、ふたりを見守る誰もが自らの初恋を思い出して恥じらった。

 少なくともシャグランが微笑んでいるところを見た者は、この夜宴の招待客しかいなかったはずだ。


 向かい合わせの鏡に無限に映し出される舞踏であった。


 幾千幾億の人工の星々の下で、ふたりは永遠にくるくると回っているのではないかと誰もが考えたが、そんなことはなく、名残惜しくも楽士たちが最後の一音を情感をこめて弾き終えた。


 二人は王陛下とミニヨン公爵夫人に挨拶をし、いずこかへと消えていった。


 彼女は夢か幻のようなものと世間で思われているが、ジルエットだけはそれが間違いであると知っている。


 彼は《叡知の真珠》に星の一夜を踊った女の名前を記している。


 デゼルトの貴族、ルナール家のフェイリュア。


 シャグランとフェイリュアは恋人同士だったとも書かれている。シャグランはクロヌに旅立つとき、真新しいドレスと絹の手袋、宝石と靴を贈り届けるので、そうしたら結婚しようと言って別れたのだとも。

 デゼルトからクロヌまでは今も昔も変わらず、どれだけ急いだとしても丸ひと月はかかる距離にある。けれども陛下がフェイリュアのために宝物庫を開けたのは、せいぜい四、五日前のことだ。


 ジルエットは華やかな舞踏場の隅に腰かけ、星灯りの下ですべてを記すことなく筆を置いた。

 《叡智の真珠》に残された記述も中途半端に終わっている。

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