第39話 夜魔術 《下》 △


 視界が開け、花畑が見えた途端にアラリドは走り出した。


 マジョアが止めるのも聞かず、なだらかな下り坂になった草原を誰よりも先に駆けて行く。まるで子犬のように柔らかな草原の上で転げまわり、笑い転げるその繰り返し……。

 ひとしきり遊び終えると、カタバミ色をしたローブに黄色や桃色の花びらをくっつけて両手を広げた。


「メル、おいでよ!」


 メルが走って来てくれることを疑ってもいない表情だった。


 少年のようでもあり、少女のようでもある中性的な容姿と、夜色の瞳と髪、それから有名な魔術師や大学からの紹介状を携えて、アラリドはオリヴィニスにやってきた。

 やがてマジョアのパーティに迎え入れられ、最初は何もかもが順調にみえた。

 けれど、アラリドには秘密があった。


 無邪気な子供のように遊んでいた若き魔術師は、草原の何もないところで立ち止まると、ぼんやりと何もない空間を見つめていた。


「どうしたの?」

「メル、僕たちの探している魔物はここにはいないって。東の森に巣があって、日暮れになると出てくるって言ってるよ」

「ここには誰もいないよ」

「いるよ。今もここに立って、ぼくと話をしているじゃないか」


 そういうとき、この魔術師の足元には、大抵ここで朽ち果てた亡骸が落ちていた。

 要するに、アラリドは稀有な夜魔術の使い手だった。

 それも生まれつきの才能によって、夜色の瞳で死者の国を覗きこみ、物言わぬ魂の言葉を聞くことができたのだ。


 それでも、仲間たちは誰もアラリドが邪悪な存在だとは思わなかった。

 転がっている鳥の死体に死者の魂を呼び込み、まるで生きているように動かせるとしても……メルは花畑をみつけただけで楽しげに駆けまわる子供のようなアラリドのことが好きだった。


 四人はどこにでも行った。

 深い森の奥、険しい山々を超え、沙漠を歩き、大海原を渡った。


 アラリドが仲間の命を助けてくれたこともたくさんあった。

 とくに魔物への知識が豊富で、メルにたくさんのことを教えてくれた。

 スキュラの五感は鋭すぎて、だからこそ地下でしか生きられないこと。

 亜人たちは体の構造が人間に似ていて、足の筋を狙ってやれば倒れること。

 グリフォンの急所や、それから……。


 思い出すのは辛い。

 メルは今、コルンフォリ王都の北東部、その外れまで来ていた。


 何もない荒れ野が広がっていた。

 乾いた風の吹く、人のよりつかない、寂しい場所だ。

 そこはありていに言ってしまえば、処刑場だった。


 目の前には命果てた罪人たちが、磔にされたまま晒し者になっている。

 やつれ果てて皮と骨ばかりになり、拷問のあとを隠そうともしない遺体だった。

 彼らは夜魔術師の結社に入っていた魔術師たちだ。

 夜魔術を使うからといってすぐに殺されることはないが、だが、近郊の村から赤子や子供がさらわれて消えたとなれば話は別だ。

 真偽のほどは定かではないが、彼らはその事件の首謀者とされている。


 死してなお檻に捕らわれ、無言のままの遺体を前にしたメルの肩を、不意に叩く手があった。


「おいメル。……やっと見つけたわい。老人になるとちょっとした旅でも辛くてのう」


 いつもの鎧姿ではなく、身軽な旅装のマジョアはわざと老人めかしてそう言った。


「だから宿で待っていろと言ったんだ。腰痛が出たら置いていくからな」

「そこまでヤワじゃない。お前さんとは鍛え方がちがう」

「どうだか」


 トゥジャンもあとから追いついてきて、くだらない言い合いをはじめる。

 ふたりはメルを支えるようそばに立ち、言い合いもまた、この寂しい風景に無理やり色を添えようとするかのようだった。


「……アラリドではなかった」


 メルは呟いた。

 マジョアは肩に置いた手に力を込めた。トゥジャンはその場に腰を下ろし、メルの小さな体を反対側から支えてやった。


 マジョアはあの頃からずいぶん老いた。

 トゥジャンも若い頃の美貌が嘘のようだ。


 時間はメルを置いて飛び去り、この場に、あの無邪気な夜魔術師だけがいない。


「あやつのことは忘れろ」とマジョアが言う。「ここに並んだ夜魔術師どもと同じに、二度と戻ってくることはない」


 その声音はメルを励ますようでいて、さりげなく仄かな憎悪がまじっている。


「魔術師は誰もが欲のかたまりだ。真理をみつけようとする道の途上で、人の理が邪魔になる。人の感情や理性がどうでもいいことのように感じられる瞬間が、誰しもある……アラリドはそれに逆らえなかった。無垢ゆえに」


 過去を思い出したか、トゥジャンは目を細め、言い添えた。

 そこには一言では語り尽くすことができない、三人の過去があった。


 アラリドが魔物や獣に詳しいのには理由があった。秘密の工房に獣たちを集めて死体に変え、夜魔術の《実験》をくりかえしていたからだ。


 それだけならまだよかった。


 処刑された者たちが起こしたことと、まったく同じことが起きた。

 それはマジョアたちの知るところとなり、ある日、アラリドはオリヴィニスから消えてしまった。


 以来、同じ事件が起きるたびに、メルはあの夜魔術師の姿を探して刑場に足を運んだ。


「なぜ探すのだ、メル……みつかったところで、再びやつがオリヴィニスの門をくぐることなはないだろうに」

「わからない。悪いことだとわかっているのに、悲しいと思うのはなんでだろう」


 マジョアは馬鹿馬鹿しい、というふうに首を横に振った。


「悪人にも良いところはある。どんな悪人でもな」


 吐き捨てるような言葉を聞きながら、メルの氷の双眸から透明なものが零れる。

 彼はそれでも誰とも知れぬ亡骸を見つめつづけた。



     ~~~~~



 どこかの小さな村。

 依頼されていた魔物を倒し、仲間たちは食堂で遅くまで飲んでいた。


 夜に煌々と灯る明かりと、楽しい音楽が階下で鳴るのを感じながら、アラリドは寝台に敷かれた藁をひとつまみ取っては、香りをかいでくすくす笑っていた。


「もう寝よう、アラリド。明日は早いよ」


 上のベッドの底を下から叩き、メルが声をかける。

 すると、アラリドが答える。


「ねえ、メル。光女神の威光はあまねく世界を照らすのに、夜が来るのはどうしてだと思う?」


 黒い瞳には好奇心の光が灯って、きらきらと輝いている。


「光女神はあらゆる病やけがが癒えることを約束しているのに、人が死ぬのはどうして? 治癒の魔術がきかない不治の病があるのはなぜなのだと思う?」


 夜魔術師は寝間着のまま降りてきて、眠たげなメルの顔を覗き込んだ。

 答えてやるまで、寝ようとはしないだろう。

 こうなると、アラリドは少し面倒くさかった。


 そのか細い体の中には、世界に対する疑問がいっぱいで張りつめていて、いつでも少しの息抜きを必要としているのだ。


「そうだな……それは、わからないけど……きっと、光女神の邪魔をする悪いものがあるのだと思う」


 月明りに照らされて冷めた横顔はしばらくの間、沈黙を湛える。

 それから、ゆっくりと答えを紡ぐ。


「メル、みんなそう言うけれど、ぼくはね……光女神がいるからだと思う。この世にはほんとは闇しかない。だけど光女神が照らすから、闇が闇として現れるんだよ。光が照らすところに影ができるみたいにね」


 だから、光女神のいないところに、影や夜はできない。

 ずっと闇が続いているだけで、それはあたりまえのこと。

 光のない世界で、闇を闇だと思う人はいない。

 それはメルの想像したこともない、アラリドが見つめている世界の姿の話だった。

 善悪ではなく、アラリドは生まれたときからずっと、そういう世界で生きているのだとメルは思った。


「メル……君はひとりだけ、女神のいないところにいるんだね。君にだけ死や老いが訪れないのは、そのせいだと思う。老いが怖い?」

「いいや」


 メルは少し考えた。

 マジョアやトゥジャン、それからアラリドが大人になるのと同じに生きられたら、それはそれで楽しいだろう。

 世界をめぐる楽しさは、人ひとりの命がどうあるかとはかかわりが無い。

 だから終わりがあるということも、終わりがないということも、メルにとっては同じことだった。


「メル、ぼくは君の呪いを解いてあげたい……」


 アラリドはメルの額を優しく撫でた。

 そうして、上のベッドに戻っていった。


 それから間もなく、

 マジョアとトゥジャンがアラリドを連れてどこかに行った。


 あの無邪気な夜魔術師がメルの隣に戻ってくることは、なかった。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る