第35話 橋




 なんだか嫌な予感がするなと思っていたら、雨の影響で冷たい地下水が噴き出した難所のど真ん中を突っ切ることになった。



 たっぷり時間をかけてなんとか抜け出したものの、濡れた足が凍えた。

 寒さは容赦なく体温を奪っていく、実体のない魔物だ。

 深いりしたのはあまりよくなかったな、と反省しつつ対岸を睨んでいたメルだが、諦めて野営の準備にとりかかった。


 このあたりの山中にグリフォンが住み着いた、という情報を得て七日。


 追跡に追跡を重ね、その姿を間近にしながらも、罠に使った馬肉で逆に警戒されたのか、すんでのところで逃げられてしまった。 

 さらに追うには荒れ狂う川を越えて対岸に渡らなければならないが、橋は朽ちて流れてしまっている。

 もともとこのあたりに人里はない。橋があるらしい、という噂があっただけで、こればかりは誰を恨むこともできない。


 少しでも暖をとるため、薪に使う枝の表面をナイフで剥いでいく。

 そうしないと、濡れて火がつかないのだ。

 なんとか起こした心もとない火にあたりながら、メルはこの先どうするかを考えた。


 食料にはまだ余裕があるが、帰りのことを考えるとここいらで引きあげたほうがいいだろう。

 ただ、そうしている間にまた、グリフォンはねぐらを突き止める前に飛び去ってしまうかもしれない。いや、それより、他の冒険者に横取りされる可能性を考えるべきだ。噂はもうだいぶ広まっている。


 グリフォンは巣穴に金目のものを貯め込む習性を持つ。

 難しい敵だが、上手く誘い出して盗めれば、いい稼ぎになる。

 逆に広大な大自然をさ迷い、時間と資金を無駄にすることもあるわけだが。


「むう……」


 うなっても、寒さで白んだ景色はどうにもならなかった。

 火にあたりはじめてしばらくすると、ずしん、という地響きがした。

 メルは剣を抜いてすばやく立ち上がり、周囲を警戒する。

 音は崩れ橋のほうから聞こえた。

 みると、巨大な手……といっていいのかどうか。

 苔の緑に覆われた手のようなものがふたつ、橋台のあった地面に被さっている。


「あ……」という音が聞こえる。地響きのような低い唸り声だ。「あー……あ、あー……」


 メルは凍えた掌を火に寄せて暖めた。

 手と手の間から、岩のような頭がせり出してくる。

 重たそうな瞼に覆われた瞳、丸い鼻、全てが苔に覆われている。

 橋の向こうは崖である。とてつもない巨人だった。


「トロールか……!」


 偉大な妖精の種族、亜人の上位種といわれているが、その生態系の詳しいことまではわかっていない。


「あー……お、おあ……」

「?」


 明らかに音が変化した。


「おあえ、あし……あたりあい……」


 メルは剣を鞘に戻し、トロールに近づいた。


「おあえ、あし……は、はぁし……」

「橋?」


 トロールはゆっくりと体を反転させ、遠い対岸を丸太のような指で示した。



     ~~~~~



 メルは巨人の肩で風を浴びていた。

 冒険者を肩にのせたトロールは、ゆっくりと川を横切っていく。

 人間には荒れ狂う大蛇のような恐ろしい濁流も、トロールにとってはちょろちょろと流れるじょうろの水だ。


 苔で滑らないよう気をつけながら、メルはこの大きな生き物が、たどたどしく話す声をきいた。

 こいつが長い間橋の下に住んでいたこと、橋が流されたので住みかを変えること、そして橋を渡る旅人――おそらくはメルと同じような冒険者と地元の人間――から少しずつ言葉を学んだことなどだ。。

 メルもまた自分がオリヴィニスから来たこと、グリフォンを探していることを話した。それは驚くべき経験だった。


 トロール種は短い音を発して仲間と会話らしきことをするが、知性は無いとされていた。でも違った。少なくともこの個体は異種族である人種とこうして話をすることができる。


 トロールはメルを対岸に運んだあとも、じっと地面に手をつき、苔に覆われて見えない瞳でメルを見つめていた。


「う、うりおん……」


 グリフォン、と言いたいのだろう。

 メルはじっと言葉の続きを待つ。


「うりおん……こ、こぉろす、の……?」


 グリフォンを殺すのか? そう聞きたいのだろう。


「お、ぼ、おえんしゃ……あぜ、なぁかまを、こぉ、ろうす……?」


 冒険者、何故仲間を殺す……?

 メルは答えた。


「グリフォンは殺さない。……でも、そうすることもある。君たちも人をさらうね。人は弱くて、身を守るためにそうしなければいけないときもあるんだ」


 メルは自分の答えに、喉にひっかかった魚の小骨のように飲み下せないものを感じていた。


 トロールはゆっくりと体を動かし、岸から離れ始めた。 


 メルはそのそばにかけより、瞼のあたりに触れた。


 人とは違う冷たい岩の感触が手の平を押し返す。

 物言わぬトロールは川下のほうへと足を向け、冷たい熱は離れていく。

 メルは追いかけるのをやめ、小さくなっていく背中を見送った。



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