第32話 小鬼夜市
満点の星空が美しいと気楽に思えたのはすべてが順調に行っていた頃のことで、さすがに四日間、出口を完全に失ってさ迷い続けると誰もが口をつぐみはじめた。
砂漠の丘の頂にぽつんと目印のように大岩がある。
その岩のくぼみで、仲間たちが身じろぎもしないで死んだように眠っている。
ずっと重くのしかかっていた砂漠地帯で道を失うことの重大さが、何よりも恐ろしい魔物となってみんなを飲み込もうとしていた。
星によって方角を確かめながら、ある台詞を思い出した。
この砂漠には魔物が棲んでいる――。
立ち寄った村で占い師の老婆が言っていた言葉だ。
老婆は村の入口に小屋掛けしていて、住民からは疎んじられているようだった。
小屋の前には魔よけの飾りがだらりと垂れ、その向こうで、仲間たちが気味悪そうにこちらを見ている。
「ここにいるのはね、心を乱す魔物だよ。私の妹もそいつに魅入られて連れ去られたんだ」
「魔物はどこにだっているよ?」
そうじゃない、そうじゃない。肌に直接小刀で彫りこまれたかのような皺だらけの口元を、もぞもぞと動かしながら繰り返し言う。
老婆は瓶に入った赤い染料を取り出した。
「魔除けのお呪いをしてあげる」
そう言って描かれた印は、腕の内側で今も鮮やかな赤色をしている。
思い出してむず痒さを覚えた。
どんな性質のものなのか、ときどきとても痒くなるのだ。
当てていた布を外すと――――。
「おお」
感心したような、驚いたような声をあげて、パーティの魔術師を起こしに行く。
眠たげな眼を擦りローブの下から這い出てきたのは、若く美しい青年だった。
艶やかな髪を長く垂らし、サテンのリボンで結んでいる。
その切れ長の瞳で睨まれると、何故か街の女の子たちがみんな
「見回りにいってくるよ、トゥジャン。魔物よけの結界を開いてよ」
「マジョアを起こさなくてもいいのか?」
若き魔術師の瞳が、岩を背にして胡坐をかいたまま寝込んでいる銀髪の剣士のほうを見やる。
仲間たちを励ますため、夜通し見張りをする、と言ったものの無理がたたったのだ。
「疲れているだろうし、僕だけでいいよ。ねえ見てよこれ」
メルの腕に描かれた《おまじないの印》……三角形を五つ組み合わせた図像は、金色に燃えて光っていた。
トゥジャンは眠たげな眼でそれを一瞥し、頷いた。
「なるほどな。それがあるから迷ったのか、何かの道しるべなのかはわからんが、気をつけていくんだぞ、メル」
「うん」
「マジョアはお前のことをオリヴィニスの守り神だと本気で信じているらしいからな、帰ってこないと寂しがるだろう」
「トゥジャンも寂しいくせに~」
「いなくなってみないことにはわからんな」
冷たいことを言いながら、結界の端に行く。
杖の先端で空中の何もないところを探ると、野営地を囲む透明なオーロラ色のカーテンが現れ、杖の動きにあわせてさっと一部が開いた。
メルはそこから飛び出して、トゥジャンに手を振ると駆けだした。
とりあえず岩場をぐるりと回り、
それは金属製の蓋だった。
腕とおなじマークが描かれている。
この岩場は何度も探ったはずなのに、この蓋にだけは気がつかなかった。
把手を掴むと、昼間の太陽に暖められているせいか、ほんのりと暖かい。
メルは力をこめて、その蓋を開いた。
*
日が落ちると同時に、地下都市にいっせいに明かりが灯る。
暗がりに闇を残した地底の明るさだ。
子供たちが走り回り、屋台の主人から丸い植物の皮に包まれた小さな明かりを買っていた。軒先に山と積まれた、なにかの花弁を縫い合わせて明かりを包んだ奇妙なランプは、時間がたつ毎に光を青や赤や黄色にかえていく。
何が輝いているのだろう、とのぞき込もうとして、後ろから伸びてきた手に通路へと引き戻される。
「あまりじろじろ見ないほうがいいよ」
振り返ると、仮面をかぶった若者が口を『ヘ』の字に曲げていた。
鮮やかな青の外套に身を包み、腰に割札を提げている。
同じものはメルの腰にもある。
これを出口でみせなければ地上には戻れない。大切な身分証だ。
「あれはね、妖精の羽をむしって、首に細い紐をかけてつくるんだよ」
メルが眉をひそめると、トゥルマリナの商人・ミランは肩を竦めた。
ふたりのひそひそ話には目もくれず、全身を鱗に包んだ二足歩行の
子供たちは陽気な表情をした面をかぶり、明かりを手にして駆けていく。
ふさふさした
隣には水売り人の店がある。
山羊頭の売人の背丈より何倍も大きな甕に、澄んだ水、きらきら輝く水、緑の水、赤い水がたっぷり入れられ、注文が入ると
澄んだ水はなんてことはない普通の水で、キラキラ輝くのはほんのり甘い。
緑のを飲んだ客は気分がよくなり幸福感に包まれる。
赤いのを飲んだ客は、路地の隅で奇妙な笑い声を上げてよだれを垂らし、白目を
かと思えば、その隣には柔らかな桃色のカーテンで覆われた宝飾品の店があり、軒先には
そのひとつひとつに、複雑な魔法がかかっていた。
「ここは人間用の市場ではない。魔物たちの市場だよ。私たち商人のあいだでは《小鬼夜市》と呼んで、どんなにすばらしい魔法の道具を仕入れたくても、決して立ち入ってはいけないと言い含められているところのひとつだ」
とはいえ、その正確な場所を知っていて、割札を持っているところをみると何事にも例外はあるのだろう。
「それでは、私は先に地上に戻っているからね。必ず夜明けまでに出てくるんだ」
ミランは忠告し、来た道を戻って行った。
メルは、閉じ込められたセイレーンが「助けて、助けて」と歌う本を硝子の商品棚に陳列した本屋を通り過ぎ、おぞましい獣の臭いが立ち込めた広場に向かった。
亜人や獣人、幽霊や半死人、魔物たちがひしめきながら、ずらりと並んだ屋台で食事をしている。
広場の中央には、金属製の太い柱が立ち、砂漠で迷った誰ともわからぬ犠牲者が鎖で縛られたままミイラになっている。
数十年前、砂漠で迷子になったメルが目にしたのと同じ光景だった。
そのときメルは、この市場にもぐりこみ食料と水を手に入れ、ある人から市場の周囲を封じる結界の解き方を教わって命拾いをしたのだった。
メルは赤い小鬼の仮面をつけたまま、ある屋台に向かった。
そこでは、皺だらけの老女が木の椀に濃淡の無い紫色でどろっとした、汁気の少ないスープのようなものをすくい、客に出している。
発酵した芋の酸っぱいにおいが漂っている。
店主はメルでも名前を知らない一つ目の豚の魔物で、魔物と女の足は太くてボロボロに錆びた鎖で繋がれていた。
鎖には古びて錆が多ければ多いほど獲物が逃げ出せなくなるようにする強力な呪いがかけられていた。
メルは客がいなくなるのを待ち、屋台に近づいた。
「買いたいものがある」
それだけ言った。
豚の魔物は知恵があり、人の言葉を理解する。理解はするが、喋りはしない。
木腕を示されるが、食事が必要なのではない、と首を横に振る。
メルは、鍋をかき混ぜている老女を指で示した。
豚男は真っ黒な顔面を膨らませて、怒りを表明した。
この女は俺の奴隷だ、とでも言いたいのだろう。
「その代わり、黄金をあげよう」
懐から革の袋を取り出し、木のテーブルに載せた。
紐をほどくと、一掴みの黄金が現れる。
金に目がない豚男のひとつしか無い目は、すぐに金の塊に釘づけとなるが、首を縦にはふらない。
「この黄金は素晴らしいものなんだ、じっと見つめていてごらん」
革袋の内側から、さらさらと輝く砂金が流れ出した。
それは豚男が目をそらすたびに止まり、見つめ続ける限りあふれ出る。
魔物は黄金を凝視したまま動かなくなった。
メルは忍び歩きで女のほうに行った。
「おお、お前さんかい……どうしてここに戻ってきてしまったの、ぼうや」
女はしわがれ声を出した。
「あれからもう随分長いこと経ったんだ。来るのが遅くなってごめんね」
「そうなの、でももうここにいちゃいけない。この市場は魔物だよ。あたしもね、姉さんの忠告をちゃんと聞いておけばよかったと何度悔やんだことか。市場の華やかさに目を眩まされたのさ……」
悲嘆に暮れた瞳で涙を零す。初めて出会ったときも、彼女は泣きながらメルに砂漠からの帰り方を教えてくれたのだ。
彼女の時間は止まってしまっているのだろう。
「もう泣かなくていいんだよ」
メルは優しく背中を撫で、荷物の脇に括りつけた手斧を下ろした。
刃に女神の紋章を刻んだ武器だった。
「《女神ルスタに祈る者。病は癒え、傷はふさがるだろう。祈りによって命は永遠となる。それゆえに、悪しき者の邪な行いは全て打ち砕かれる》」
聖句を唱えながら女神の紋章に触れると、紋章に一瞬の光が宿った。
豚男に気づかれないよう、慎重に斧を振り上げる。
「《裁かれない罪はなく、打ち砕かれない呪いもない。ルスタを讃えよ、光女神を讃えよ、その威光を賛美せよ》」
手斧を真っ黒な鎖に向かって振り下ろす。
パキン、と薄いガラスが砕けるような音がして、鎖は二つに割れた。
「ああ……なんてことだろう!」
老女は顔を覆って全身を震わせた。
「さあ、逃げよう!」
メルがその皺に覆われた手を掴む。
だが、返ってきた感触は滑らかな女のものだった。
振り返ると、皺塗れの女は美しい白い肌をした若いエルフの女の姿になっていた。そればかりか、彼女は眩しく輝いていた。
肌から発せられる光が、ほの明るく周囲を照らしているのだ。
騒ぎに気がついた豚男が悲鳴を上げた。
周囲の魔物たちが次々に集まってくる。
「鎖がほどけた! あたしはもう自由よ!」
女はメルの手をふりほどいて、叫び、喚きちらし、狂ったように踊りはじめた。
「《風よ踊れ、風よ踊れ、風よ踊れ》!」
その声に誘いこまれたように、閉め切られた市場の中に強い強い風が吹き込んできた。
風は竜巻になり、屋台を吹き飛ばし、魔物たちを放り投げた。
たちまち、あたりは大混乱となり、メルは女の姿を見失った。
また、時間も果てしなく過ぎ去っていく。
魔物たちが出口に殺到し、風は荒れ狂い続けた。
とても元来たところからは出れそうもない。
思案しているうちにどこかで鶏が鳴く声がした。
朝が来たのだ。
どうなるのかは知らなかったが、ここから出られずにいる魔物たちは絶望して泣き喚いている。
店の屋根に登って見渡すと、おぞましい光景が目に入った。
地下都市の壁が、それまで砂色をしていたのに、桃色の肉の色に変わっている。
肉の表面には牙の生えたいくつもの口があり、徐々に徐々に内側に向けて膨らみながら、魔物たちを食い漁っているのである。
メルは入り口とは反対方向に走った。
本屋の屋根をかけぬけ、大甕を飛び越え、ランプの店の路地を奥に入る。
さらに高いところに登り、大きく飛び跳ねて、天井の四角い蓋の把手に取り着いた。
岩場に通じる秘密の入り口だ。
身体を持ち上げ、天井に両足を突っ張って全力で把手を引きつける。
びくともしないとみるや、ナイフの刃を蓋と天井の境にこじ入れた。
眼下の風景はほとんどが肉壁に飲み込まれている。
とうとう、屋根まで桃色の肉の塊に変化し、メルの足も柔らかい肉に飲み込まれていった。
ここまでか、と諦めかけたとき……。
二の腕にむず痒さが走った。ナイフで服を切り裂くと、内側に三角形の図像が燃えている。
そして蓋に同じマークが浮かび、食われる直前で開いた。
荷物を放り投げ、メルは砂地に這い出した。
そこは見覚えのある岩場で、地平線まで砂地が広がっている。
メルが這い出した途端、グチャリ、という不快な音を立てて蓋はねじくれ、ひしゃげてしまった。
地下の全ての空間があの肉の塊に飲み込まれたのだろう。
入り口のあったところから、大量の赤い体液が溢れ、筋になってこぼれていく。
まさか、市場そのものが魔物とは思わなかった。
メルは安堵の溜息を吐いた。
あたりを見回すと、太陽の登っていく方角にあの女が踊っているのがみえた。
どうしようかと眺めていたら、地平線の方角から老婆がひとり歩いてくる。
あのときの村の占い師だ。
老婆と女は手に手をとって抱き合った。
老婆の姿もまた高貴な若い女の姿となっていく。
やがてふたりは大量の砂粒になり、風に乗って消えてしまった。
メルはようやく、あの屋台の老婆が占い師のさらわれた妹だったことに思い至ったのだった。
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