第11話 食事 ★
待って、置いて行かないで。
どんなに泣いても、手を伸ばしても、転んでひざをすりむいても、彼は立ち止まってくれなかった。
*****
あちこち青あざをつくり、ボロボロになって帰ってきた少年の姿を見て、かもめ亭を営む夫婦は一瞬だけ眉をひそめて「またか」というふうに顔を見合わせた。
真ん中通りにある冒険者の宿、かもめ亭は、風変わりな冒険者・メルの常宿だった。
その日暮らしの冒険者たちのうちでも、輪をかけてあっちをふらふら、こっちをふらふらと取り付く島もない生活をしていたメルが、孤児を連れてきたのが何年前のことだっただろう。
ルビノ、というらしい男の子は、十二歳に成長していた。
昼間は屋台市場の雑貨屋で店番をして、その合間にメルから冒険者のことをあれこれと教わる生活をずっと続けている。
他の冒険者にくらべれば、物腰も風貌も優しげなメルだが、その修行はそうとう厳しいらしい。
ルビノはいつも、前の傷が治らないうちに、新しい痣をつくって帰って来た。
「なんだって、うちの師匠はあんなに厳しいのかなあ」
かもめ亭の主人は誰もいない食堂で、けがの手当てをしてやりながら、眉をひそめた。
「あの子は呪われてるからね……」
メルがいつ頃からオリヴィニスに滞在しているのかはハッキリしない。
だが、何年経っても成長しない体なのだということは、宿の常連なら薄々勘づくことだった。
「それに引き換え、お前さんはあと三、四年もすれば背も力もメルを追い抜いちまう。対等な立場で教えてやれるのは今だけだ、そういうことだろうよ」
「……」
ルビノはそんなことは言われるまで思いも至らなかったらしい。
口を開けたまま、ぽかんとしていた。
しかし、それくらいの分別がついてもいい年頃ではあった。
「なあ、ルビノ。そんなにきついんだったら、冒険者なんてやめたらどうだい。ちょうど私ら夫婦には子供もいないし、うちで働いてもいいんだよ」
おかみさんが、夕飯の仕込みをしながら声をかける。
ルビノははっと我にかえった。
「ありがとう、おやっさん、おかみさん。俺みたいな孤児でも、そう言ってもらえるってのは、ほんとにありがたいことだって思うよ。でも……」
「メルのところがいいかい?」
「拾ってもらった恩を返したいんだ」
ルビノは、心優しい大人たちに心配かけまいと、にっと笑ってみせた。
そんな会話が交わされた時から、長い年月が経った。
遠くに、夕焼けの黄色い光に照らされたオリヴィニスの街が見えた。
木立の合間に切り取られた賑やかな街は、宝石よりもずっと冒険者たちの心を和ませる。
一人前の冒険者に成長したルビノは旧市街の廃墟からそれをじっと眺め、立ち上がった。
臙脂の長衣に白いズボン姿だ。焔の精霊の加護があり、見た目よりも頑丈なそれは成人祝いとして師匠から贈られたものだった。
旧市街はオリヴィニスのすぐそば、《迷いの森》にある遺跡のひとつだ。
オリヴィニスが完成するはるか昔に人間たちの拠点になっていた町で、魔物の襲撃をうけて、住人たちは一夜にして消えてしまったと伝えられている。
現在は廃墟である。
金目のものや家財道具などは持ち出されていて、家の中はほとんど空っぽだ。
ところどころ朽ちた建物は危険な場所もある。
しかし、メルメル師匠はこの場所を好んだ。
取り残されたテーブルや、壺なんかの装飾品を見つけると、当時の人たちの生活がしのばれるとかなんとか。
周囲にはもちろん魔物も出る。
ルビノの背丈が今の半分ほどだった頃、修行と称してよく連れて来られた場所でもあった。
丘の上に崩れた水道橋のアーチ部分が残っていた。
そのはるか頭上で、煮炊きをする湯気が見える。
石作りでごつごつした壁が、登って来いとルビノを誘っている。
メルメル師匠は腹をすかせた十歳の子供にも同じことをやって、それを聞いたかもめ亭の夫婦によく怒られていた。
今ではかもめ亭の夫婦は引退して、甥っ子夫婦が継いでいた。
岩のとっかかりに指をかけ、くぼみに足を入れて体を引き上げる。
慎重に繰り返し、一番上に指がかかると、のんびりした声が聞こえた。
「良い頃合いだよ」
メルメル師匠は鍋の蓋を開ける。
ふわり、と湯気が溢れて、甘い香りが漂う。
卵がふっくらと膨らむ姿は気持ちを和ませ幸福にさせる。
鍋の中身は卵と鶏肉と、現地調達の野草と秘密の調味料。
それを炊き上げた米に乗せれば、メルメル師匠がどこか異国の旅人に教えてもらってからというもの、気に入っているレシピの完成だ。
メルは器をルビノに差し出した。
「みみずく亭を休んでよかったの?」
「あっちは当分休業っす。……卵なんて、どこから手に入れたんですか?」
まさか、オリヴィニスからここまで運んできたわけでもあるまい。
「それはとっておきの秘密。冷めるよ」
メルメル師匠は勢いよく食事をかきこむ。
異国の謎の食事道具、箸を器用に操っているのは、流石だというべきか。
ルビノはスプーンを柔らかな黄色い表面に差し込んで、少し躊躇った。
「メルメル師匠。俺、今度、ドレイクに挑戦しようと思ってるんす」
メルは不意に箸を止めた。
風が吹いて、去っていくと、メルの呆気にとられた顔があった。
ドレイクは竜種のひとつで、翼を持たない火竜を指す。
難敵で、これをひとりで倒すと確実にクラスがひとつ上がる。
冒険者としてはひとつの到達点、いつかは成し遂げたい夢の形でもあった。
「……君にはまだはやい」
メルはまだ信じ難い、という表情だ。
それでいて、久しぶりにルビノが一緒に旧市街に行きたい、と言い出したのはこのためだったのかと察しているようでもある。
「もう決めました。今週末です。パーティに入ってもらう面子とも打ち合わせ済みっす」
「僕の言うことが聞こえなかったのか? 君にはまだはやいって言ったんだ」
「あのね、師匠。そんなこと言ってたら、俺は爺さんになっちまう」
その言葉にメルは強いショックを受けたようだった。
ルビノもそれだけは言いたくなかったが、彼にとっても切実だった。
冒険者として、肉体的にも精神的にも充実していられる時間は長くはない。今でなければできないことがある。
メルとは時間の流れが違うのだ。
「僕も一緒に行く。報酬はいらない」
「それはダメっす」
メルは捨てられた子供のような、頼りない表情をしていた。
ルビノはその表情を見て、この話を持ち出したことを後悔した。
言わなければよかった。黙って出て行けばよかったと思ったのだ。
かつて、メルはここで食事した後、ルビノを置いてさっさと帰ってしまった。
ルビノにひとりで森を抜ける知恵と力をつけさせるためだ。
どれだけ一生懸命追いかけても、メルは足が速くて、しかも気配を消すのが上手すぎて絶対に追いつけなかった。
最初は寂しくて、泣いてばかりいた。
森を抜けたら、またひとりになってしまうんじゃないかと考えたこともあった。
幼いルビノには心の弱いところがあったから、矯正するためでもあったんだろう。
それが、いつの間にか逆になっていた。
今度は自分がメルを置いて行く番だ。
「大丈夫、師匠に似て逃げ足だけははやいんで、絶対に戻って来るっすよ」
師匠と弟子。
二人の関係のあいだに、無慈悲に遠ざかっていく時間の流れが横たわっている。
複雑な内心を隠し、ルビノは満面の笑みを見せた。
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