第12話
「あーっ! えらいがね! いくら山道でも、坂が急過ぎるがね!」
文句を言いながらも、パルはそこそこ軽い足取りでスタスタと坂道を登っていきます。ティグは、苦笑しながら後に続きました。先頭には、フィルがいます。彼は草木を踏みわけ、枝を切り払い、パルとティグが歩く道を拓きながら歩いています。
「フィルさん、やっぱり僕がやりますよ。道を作るなんて、そんなに楽じゃないですよね?」
フィルの年齢の事もあって気遣うようにティグが言うと、フィルは眼元を綻ばせ、穏やかな声で言いました。
「なに、心配は無用じゃよ、ティグニール。大体、君が先頭にたったところで、道がわからんじゃろう?」
「……」
まさにその通りなので、ティグはグッ、と黙りました。そんな彼を、パルが「どうする、ティグ兄ちゃん。自分からこの辺りの地図、買うかね?」とからかいます。それにティグが「買わないよ!」と反論すれば、パルは「じゃあ、やっぱりティグ兄ちゃんに先頭は無理だがや」と更にからかいにかかります。
子どもの喧嘩のような二人のやりとりを、フィルは微笑ましそうに見詰めます。
「パルペット、それくらいにしておいてやれ。……ティグニール」
パルを窘めてから、フィルはティグに視線を合せました。
「君の立場も、重要じゃぞ。もし背後から獣や賊に襲われた時頼りになるのは、君だけじゃ」
頼りにされていると言われれば、悪い気はしません。ティグは少々照れながらも顔を引き締め、辺りに気を配りながら再び歩き始めました。辺りを見渡すと、木々以外の物も目に入ります。山の中腹には、人が十人は乗れそうで高さは人の二倍はあるであろう巨大な岩がありました。他にも、雨水で穿たれてできたのか、奇妙な形をした岩がごろごろと転がっています。
「この山の……頂上にいるんでしたっけ? 次の魔獣は……」
「うむ」
ティグの問いに、フィルは簡潔に答えます。すると、その補足をするかのようにパルが喋り始めました。
「この山は、マジュ魔国の真北に位置しとるがね。配置やこの山の神様の話を考えても、まず間違いなくこの山に魔獣は住んどるがね」
「神様?」
場違いな単語に、思わずティグは首を傾げました。
「下調べが足りんぞ、ティグニール」
勉強嫌いの生徒を注意するようにフィルが言うと、自分はちゃんと調べていたのがよっぽど自慢したいのか、パルが口を開きます。
「この山には、何十年か前から神様が住んどるって話だがね。その神様は亀のような姿をしていて水を操り、日照りの時には雨雲を呼んでくれるって事になっとるがね」
「って事は……僕達はこれから、神様に戦いを挑むって事……!?」
唾を飲み込み、緊張した面持ちでティグはパルの返答を待ちます。すると、パルは馬鹿にしたような顔で笑うと、ティグの額にピン! とでこピンを喰らわせました。
「痛っ!? 急に何するのさ、パル」
「ティグ兄ちゃん、自分の話ちゃんと聞いとったかね?」
パルは、糸でも弄ぶように指をくるくると回しながら更なるでこピンの機会を狙います。額を両手でガードしつつ、ティグはパルの話を思い返しました。
「この山には何十年か前から神様が住んでいて、その神様は亀のような姿をしていて水を操る……亀のような姿の、水を操る神様?」
ふと、ティグは何かに思い至りました。亀のような姿という言葉と、その神様が水を操るという話が、妙に頭に引っ掛かります。
暫くの間歩きながら考え、ティグは思い出しました。数日前にフィルは話の流れの中でティグに言いました。
「君が見たのは、炎の鳥か。私の時は……水の亀だったな」
水の亀と、フィルは確かに言いました。そして、ヘイグは魔獣そのものを召喚する事もあるとも言っていたように思います。
「じゃあ、その神様って言うのは……」
「うむ。実物を見たわけではないが、まず間違いなくヘイグに力を貸している魔獣のうちの一匹じゃろう」
フィルが頷くのと同時に、パルが更に蘊蓄を語ろうと口を開きました。人差し指をピンと立て、噛み砕くように言葉を紡ぎ出します。
「話によると、この山の頂上にある神様の祠にはマジュ魔国の紋章である一角髑髏が彫刻されているそうだがね。それに、祠に続く正規の道で山を下っていくと、一直線にマジュ魔国の北門にたどり着くがね」
「……魔獣を神様として扱っているのはマジュ魔国……そういう事?」
ティグが緊迫した顔で問うと、パルはこくりと頷きました。
「ここからは、自分の推測だがね。多分ヘイグは……魔獣を神様として祀る事で自分の味方に付けとりゃーす」
「? よくわからないよ。何で神様にすると魔獣が味方になるのさ?」
首を傾げてティグが言うと、パルは出来の悪い生徒を見るような目で彼を見ながらため息をつきました。その態度に少々ムッとしながらも、ティグはパルの言葉に耳を傾けます。
「よく考えやー。魔獣と一口に言っても、性格は魔獣によってバラバラだがね。恥ずかしがり屋で人前に出る事を嫌う魔獣もいれば、目立ちたがりで派手好きでおだてに乗り易い魔獣もいると思わんかね?」
「じゃあ、この山に住む魔獣は……」
「そう! 派手好きの目立ちたがり屋でおだてに弱い、ある意味とっても扱い易い奴だがね!」
つまり、小難しい事を考えたり妙に作戦を練ってきたりする事のない単純な魔獣だから、罠とかを考えなくても良い心理的には割と楽な相手だがね! と言いながら、パルは意気揚々と山を登っていきます。さっきまで坂道が急過ぎると文句を言っていたのは、もう忘れてしまったようです。パルの気持の切り替えの速さに驚き呆れながらも、ティグは周りに気を配りながら歩き続けました。
確かに、急な坂だとティグは思いました。歩けば歩くほど、息が上がっていく気がします。ティグはこれでも騎士です。騎士見習いとして訓練を受けていた頃は、他の誰よりも持久力があったと自負しています。
勿論、剣の技能だって最も優れていたと思いたいのですが、ここ数日の一連の出来事のお陰で自信がなくなってきてしまっています。だから、今のティグが誇れるのはただ持久力だけの筈です。そんな彼の息が上がってきてしまっているという事は、この坂道はよっぽどキツイものなのでしょう。
ふと顔を上げれば、パルが足取り軽く山を登っています。もっとも、彼女の場合は時折薄桃色の怪しげな液体を口にしています。流石に年齢的にも性別的にも職業的にも、何もせずに山を登り切るのは辛かったのでしょう。そんな彼女は、ティグが見ているのに気付くと薬瓶を振って見せ、「ティグ兄ちゃん、この薬に興味があるのかね? 今ならお安くしとくがね」と商売を始めようとします。
パルの言葉を適当に流そうとし、結局小瓶を一本買わされながら、ティグはフィルを見ました。彼は、息を切らす事もなく、ただ黙々と山を登り続けています。その顔には汗一つかいていません。七十代の老人で、本来ならば真っ先に登るのが辛くなるであろう筈なのに、です。そう言えば、フィルはイストドラゴンとの戦いの時も老人とは思えぬ身のこなしで戦っていました。それだけでも凄いのに、彼は巨大な魔獣を一人で倒してしまったのです。
そこでティグはふと、イストドラゴンの言葉を思い出しました。そして、急な坂を登る気を紛らわせるようにフィルに問いました。
「ところで、フィルさん……。フィルさんのその剣、イストドラゴンが〝聖剣セフィルタ〟って言っていましたけど……それってやっぱり、あの……?」
フィルは、答える事無く黙々と登っていきます。それに代わるように、パルが言いました。
「勿論、そうだがね! フィル爺ちゃんの持ってる剣は正真正銘の聖剣セフィルタ。ツィーシー騎国建国時から代々国一番の騎士に受け継がれてきた、闇をも切り裂く聖剣だがね!」
何故か、フィルよりもパルの方が誇らしげです。
「じゃあ、フィルさんはツィーシー騎国一の……」
「その話はやめてくれぬか、ティグニール?」
ティグの言葉を遮るように、フィルがぽつりと言いました。その顔はいつになく暗く、俯き気味です。
「パルペットも。セフィルタの話をあまり喜々として話さないでくれ。私は本来、セフィルタを持つような者ではない。それが、どこでどう間違ったのかこうしてセフィルタを携えておる。それをさも私が凄腕の騎士であるように言われては、私の立つ瀬が無い……そうじゃろう?」
フィルの言葉に、パルは不満そうに頬を膨らませました。そして、「ブーブー、だがね」と呟くと、その後はぱったりと喋らなくなりました。重苦しい沈黙の中、一同は黙々と歩き続けます。
やがて、ティグの眼前がパッと開けました。そこは木々に囲まれた広場のようになっており、奥の方には祠のような建物が見えます。恐らく、この山に住む魔獣を神として祀っている祠なのでしょう。その壁面には、パルの言った通り、マジュ魔国の紋章である一角髑髏が彫刻されています。それを暫く眺めているとやがて髑髏の黒い眼窩がじっとこちらを見詰めている気分になってきます。ティグはゾッとして辺りを見渡しました。
辺りに、動物はいません。勿論、自分達以外の人間もいません。ですが、そこには確かに何かがいると、ティグは感じました。
「フィルさん、ここ……!」
「君も感じたか、ティグニール」
ティグがフィルを仰ぎ見ると、フィルは頷きました。そして、フィルはパルに向き直ります。
「パルペット、例の物を準備しておいてくれ」
「了解だがね!」
ビシッと敬礼をして見せると、パルは即座にどこへともなく走っていきました。その手には、何故かスコップとツルハシを持っています。その後姿を見送ってから、ティグはフィルに問いました。
「この気配……やっぱり魔獣、ですか?」
「うむ。この泥水のような気配……間違いない。以前私が敗れた、奴じゃ」
フィルは、すらりとセフィルタを抜きました。それに倣って、ティグも剣を抜きます。
「あの時は良いようにやられたが……今度はそうはいかんぞ、〝水神〟ノスタートゥル……!」
〝ははっ! 何だ、やけに威勢の良い事を言う奴が来たと思ったら、あの時の騎士か。ご苦労なこった。今度こそ水圧で潰される覚悟ができたのか? ん?〟
「ほざけ。今度はお前が地に倒れる番じゃ!」
フィルの呟きに答えるように濁流のような声が聞こえました。更にそれを返して軽く舌戦を繰り広げ、フィルはセフィルタを構えます。
やがて、地鳴りが始まりました。どこからか、ちゃぷちゃぷという水の音が聞こえます。耳を澄ませると、どうやら水音は祠の中から聞こえてくるようです。
ちゃぷちゃぷという音はやがてドドド……という濁流音に変わり、次第に音が大きくなっていきます。まるで、すぐそこに濁流ひしめく大河が流れているのではないかとティグが思った、その時です。
「流されるぞ。横に跳べ、ティグニール!」
鋭いフィルの声が耳に届き、咄嗟にティグは真横に大きく跳びました。その一瞬後には祠から大量の水が溢れ出し、ティグとフィルが元いた場所を呑み込みます。
「水……!」
「言ったじゃろう、奴は水を操る神として祀られておると! 水のある場所は勿論、砂漠ですらどこからともなく水を湧き上がらせ操り敵を叩く……それがあのノスタートゥルじゃ!」
そう言って、フィルが指差した祠の上には、いつの間にか巨大な亀のような魔獣が佇んでいました。フィルの話に聞いた通り、身の丈はフィルの三倍はあり、一本一本の足が樹齢千年の大木のように太い巨大な亀です。身体は、真黒な甲羅で覆われています。
〝久しぶりだな、ツィーシー騎国の……名前は忘れちまったな。何だったか?〟
「お前に気安く呼ばれても良いような、安い名前は生憎持ち合わせておらん」
睨むようにフィルが言うと、ノスタートゥルは大地を揺るがして爆笑しました。
〝言うようになったじゃないか。あの時溺れそうになって必死に水から逃げ回っていた奴とは思えない。そう言えば、随分老けたな。ん?〟
馬鹿にするようにノスタートゥルが言いますが、フィルは何も言いません。じっと相手を睨み付け、出方を探っているようです。
「フィルさん……まずは僕がいきます」
半ばこう着状態となっているこの事態を打開しようと、ティグはフィルに言いました。それに、フィルも頷きます。
「うむ。……無茶はするなよ、ティグニール」
ティグはにこりと笑って、ノスタートゥルへと足を向けました。剣を構え地を蹴り、あっという間にノスタートゥルの懐へと入り込みます。
「はっ!」
気合と共に、剣を振り上げます。ガキン、という鈍い音がしました。見上げれば、剣はノスタートゥルの黒い甲羅に阻まれ、敵に傷一つ負わせる事ができずにいます。
「硬っ……!」
思わずティグが呟くと、ノスタートゥルは再び地を震わせて爆笑します。
〝当たり前だ。神の甲羅だぞ? そんじょそこらのひよっこ騎士の剣なんかに貫けるものか〟
そう言って、ノスタートゥルは太い前足を一本、のっそりと持ち上げました。身の危険を感じ、ティグは咄嗟に飛び退きます。持ち上げられた足はすぐさま地面を打ち、巨大な揺れを引き起こしました。すると、地面からじわじわと水がしみ出し始め、段々地面が液状化してきました。着地したティグの足元も、ぬかるんでズルズルと滑ります。ティグは、滑って崩れそうになったバランスを何とか保ち、再び剣を構えました。しかし、泥だらけの地面は少しでも気を抜くとすぐに足元をぐらつかせます。これでは、走る事はおろか歩く事すら容易ではありません。
「これじゃあ、近付く事もできない……。それでなくても剣が効かないのに……!」
「焦るな、ティグニール。打開の道はまだ残されておる」
気落ちしそうになったティグに、落ち着いた声でフィルが言いました。彼はセフィルタを軽く一振りすると、その切っ先を地面に突き立てます。
「私がこの足場を何とかしよう。君は、ノスタートゥルに攻撃をしてくれ」
「え? 何とかって……どうやって、ですか?」
怪訝な顔をしてティグが問うと、フィルは顔をしかめながら柄を握る手に力を込めました。
「ツィーシー騎国一の騎士でもない私がこの剣本来の力を扱うのは非常に不本意じゃが……こうなっては頼らざるをえまい」
呟きながら、フィルは剣を地面に突き刺したまま振り抜きました。シャッと地面に一筋の線が入ります。すると、その線から次第に地面が乾いていきます。リスが隣の木に移る程度の時間で地面はあっという間に乾き切り、すっかり元通りになりました。
「パルペットが言っておったじゃろう? セフィルタは闇をも切り裂く聖剣……勿論、地にしみ込んだ魔獣の魔力とて切り裂き、消し去る」
ティグがどういう事かを問う前に、フィルは淡々と言いました。そして剣を地面から抜き、腰に結わえた飾り布で乾いた泥を拭い落とします。
〝……生意気な技を使うようになったじゃないか。だが、俺の事を傷付ける事ができるのはこの場ではそのセフィルタのみ! そのセフィルタを地面を乾かすのに使っていたら、一生俺を傷付ける事はできないだろう!〟
そう言って、ノスタートゥルは再び地面を踏み鳴らしました。再び水がしみ出し、地面はぬかるみと化します。フィルが再びセフィルタを地に走らせれば大地は再び乾きますが、ノスタートゥルが足踏みをすればその場でまたぬかるんでしまいます。
「キリがありませんよ、フィルさん! それに、あいつに僕の剣は効きません! 攻撃するなら、セフィルタじゃないと……!」
しかし、そのセフィルタは今足場を保つ事で一杯です。とてもノスタートゥルを攻撃するのに使えるような状況ではありません。悲鳴のような声でティグが叫ぶと、フィルは落ち着き払ってティグに言いました。
「うろたえるな、ティグニール。君でも、ノスタートゥルに攻撃する事はできる筈じゃ」
「どうやって!? 僕の剣では、ノスタートゥルに傷一つ負わせる事ができないんですよ!?」
少し非難めいた声でティグは言います。すると、フィルはゆっくりと、ティグに思い出させるように言いました。
「落ち着け。先ほど、パルペットから薬を一瓶買ったじゃろう? あれを使え」
「パルから? ……けど、あれは……」
首を傾げながら、ティグは先ほどパルに買わされた薬の小瓶を取り出しました。掌の中にすっぽりと収まってしまうほど小さな瓶には、薄桃色の液体が揺れています。
「君はその薬を単なる体力回復の薬と思っているかもしれんが、パルペットの薬はその程度で終わるような代物ではないぞ」
言いながら、フィルは再びセフィルタを地面に突き立てました。刃の刺さった地が、薄っすらと乾き始めます。
「その薬を飲めば、一時的に身体が強靭になり体力も回復する。だが、それは人がその薬を口にした場合の話じゃ」
「どういう……事ですか?」
フィルの話の真意が読めず、ティグは問いました。フィルは三度セフィルタの柄を握る手に力を込めながら、言いました。
「人が飲めば身体が強靭になる。道具にかければその道具が丈夫になる。その薬は、それだけの効力を持っておる」
「そうなんですか!?」
思わぬ話に、ティグは驚きました。それに、フィルは頷きます。
「パルペットは他にも、思いも寄らぬ効果を持つ薬を沢山作っておる。興味があれば、一度聞いてみるのも良いじゃろう。それに乗じて売りつけられるかもしれんがな」
苦笑するフィルの言葉を聞きながら、ティグは再び薬に視線を落としました。本当にこの薬をかけるだけで道具が丈夫になると言うのなら、一時的にとは言え、ティグの剣も強化される筈です。
ティグは心の中で、「本当かな」と疑いました。しかし、フィルがこのような場で嘘をつくとは思えません。それに、パルの薬の効果は身をもって知っています。以前肩を負傷してパルの作った薬を飲んだ時は、本当にあっという間に治ってしまいました。パルの薬作りの腕は本物なのだろうと、ティグは思います。
「一か八か……やってみるしかないか……!」
決意して呟くと、ティグは瓶のコルク栓を抜きました。うっかり数滴こぼしてしまった後、慎重に薄桃色の液体を刃に添わせるようにかけ流していきます。心なしか、剣の輝きが増したような気がしました。
〝何をやっても無駄だ。人間の振るう人間の作った剣に、人間の作った魔法薬。そんな物で俺に傷を負わせるなど、何百年かかっても無理な事だと思い知れ!〟
嘲り笑いながら、ノスタートゥルは幾度も地面を踏み鳴らしました。ぬかるみが更に酷くなり、辺りは遂に湿地と化しました。ティグとフィルの足が、次第に泥に浸かっていきます。
「いけ、ティグニール! 地面は私が引き受ける。足元を気にする事無く、突っ走れ!!」
足首まで泥に浸かりながら叫ぶフィルのその言葉が合図であったかのように、ティグは地を蹴り、走り出しました。フィルがセフィルタを三度地に走らせ、地面が一瞬乾きます。その瞬間、ティグは足に力を込め、思いきり跳躍しました。先ほどうっかりこぼしてしまった数滴の薬が足に付着していたのでしょうか? 妙に高く跳躍したようにティグは感じました。
ティグはノスタートゥルの頭上に躍り出ると、落下の勢いを味方に付けて思いきりよく剣を振り下ろしました。ノスタートゥルはすぐさま甲羅の中に首をしまい込みます。
しかし剣はその黒い甲羅をかち割り、中に収まっていた頭部に直撃しました。脳天から黒い血が吹き出し、ノスタートゥルは祠の屋根から地へと墜ちました。代わりに祠の屋根に着地したティグに、ノスタートゥルは呪うような声で言います。
〝まさか、人間如きにこんな力が……。くそっ! 神である俺がこのような辱めを受けるなど……!〟
そう言うと、最後の力を振り絞ったのか、ノスタートゥルの周囲に大量の水が集まっていきます。その光景に、ティグはハッとしました。この水の量は、最初にノスタートゥルが攻撃してきた時とは比べ物になりません。
〝人間など、一人足りとも生かしておくものか。人間も、人間の作った街も国も、全て濁流に呑まれてしまえっ!!〟
言うや否やノスタートゥルは全ての水を解き放ち、そのまま力尽きたのか動かなくなりました。自由を手に入れた大量の水は、全てを呑み込もうと一気に下界へと流れていきます。
「フィルさんっ!」
地にいるフィルを身を案じ、ティグは叫びました。すると、ティグは心配無用とでも言うようにセフィルタを構え、濁流に向かって振り上げます。濁流はたちまち割れ、フィルの周囲にだけ水が無くなりました。
それを視認してホッと安堵した後、ティグは再びハッとして下界を見ました。このままでは、大量の水が下界へと流れていき、街や人々を呑み込んでしまいます。この真下にあるのは憎きマジュ魔国ですが、憎むべき相手はマジュ魔国の王ヘイグただ一人であり、マジュ魔国の民には罪はありません。そう言えば、最初の攻撃の時に現れた水はどうなったのでしょう? あれもまた、下界に流れ落ちて人々に被害をもたらしてしまったのでしょうか?
「なあに、心配ご無用! だがね!」
突如、どこからかパルの声が聞こえてきました。慌ててティグが周囲を見ると、山の中腹にある巨岩の上にパルが佇んでいます。その手にはいなくなった時と同じようにスコップとツルハシが握られています。
パルは水がまっすぐに自分の方へ向かってくるのを確認すると、思いきりよくツルハシを岩に叩きつけました。恐らくパル自身もツルハシも先ほどの薄桃色の薬で強化しているのでしょう。岩は難なく割れ、その場に巨大な門ができあがりました。水はまっすぐに山を流れ落ち、その門をくぐっていきます。
すると、門をくぐっていった水がパッと消えてしまいました。門より向こうには、何も起こっていません。地面も乾いたままなら、水流で折れた木も流された岩も見当たりません。
全ての水が消えると、パルは岩を降りてティグ達の元に駆け寄りました。そして、自慢げに胸を叩いて見せるとティグに言います。
「見たかね、ティグ兄ちゃん? 岩で門を作って、そこを通った水を全部海に流し込んでやったがね。これが、空間を操る魔法使い、パルペット・セレ・ゼクセディオンの実力だがね!」
「うん……凄い。本当に凄いよ、パル!」
本当に感心した様子で、ティグは顔を綻ばせて言いました。見れば、山の中腹から麓にかけて、たくさんの門が出来上がっています。きっと、マジュ魔国の民達を巻き込まないよう、懸命にツルハシやスコップを振るったのでしょう。血豆ができてしまい、泥と血にまみれているパルの両手を、ティグはハンカチで軽く拭いました。
「お疲れ様、パル」
「ティグ兄ちゃんも、お疲れ様だがね。自分、ちゃんと見とったがね。ノスタートゥルに向かって剣を振り下ろす姿なんか、本当に騎士! って感じでカッコ良かったがね!」
パルの褒め言葉に顔を赤くしながら、ティグは慌ててかぶりを振りました。
「やめてよ、パル。あ、それよりもさ。またすぐに魔獣を倒しに行くんだよね? 今度は、どんな奴? 今度はちゃんと下調べするからさ。教えてよ」
「それが……今度の奴は自分もよくは知らんがね」
ティグの問いに、パルは困ったような顔を作って言いました。
「順番を考えれば、次はマジュ魔国の西だって事はわかるがね。けど、西のどの辺りに魔獣がいて、その魔獣がどんな名前でどんな奴なのか……フィル爺ちゃんがちっとも教えてくれんがね」
パルは、不満そうに頬を膨らませました。それを宥めるように、フィルは苦笑します。
「そうだな……ノスタートゥルも倒した事じゃし……今夜にでも教えてやろう。だが、まずは山を下って宿に入らぬか、パルペット? お前もティグニールも、腹が減ったじゃろう?」
フィルが言った途端に、ティグとパルのお腹がぐーっと大きな音を立てました。その音に、三人は思わず笑い出します。
「それじゃあ、まずは山を降りて宿屋を探すがね! ティグ兄ちゃん、街で宿屋を探す時は、まず第一に美味しそうな匂いがする場所を……」
言い掛けた言葉を途中で切り、パルは突然上空を見上げました。ティグも、つられて空を見ます。しかし、そこには何もありません。ただ、冷たい風が吹き、雲を流しているだけです。
「……何? どうしたの、パル?」
「……」
ティグの問いに、パルは答えません。ジッと睨むように、空を見詰めています。その様子に、フィルの顔も険しくなりました。
「……あいつだがね……」
パルが、ぽつりと言いました。そのいつにない憎しみをこめた呟きに、ティグはギョッとしてパルを見ます。
「パル? どうしたの、一体……」
ティグが言葉を言い終える前に、上空から衝撃とも言えるような突風が吹きつけてきました。風は木の葉や砂を巻き上げ、木々を盛大に揺らします。あまりの風に、ティグは思わず目を細めました。
その細めた視界に、何か白いものが入ったようにティグは感じました。顔を覆うように掲げた腕をずらし、少しだけ目を開きます。
そこには、雪よりも白い毛皮を纏った、巨大な虎がいました。
白い毛皮の上には闇夜のような深い黒が線を描き、銀色の爪は地を掴み、金色の眼がこちらを見ています。
あまりに突然の光景に、ティグは息を呑みました。そして、ハッとすると慌ててパルの方を見ました。自分やフィルならともかく、魔法使いで接近戦に向かないパルは、もし今ここで虎に飛びかかられたりしたらひとたまりもありません。
しかし、パルは虎の存在に怯えても驚いてもいませんでした。それどころか、顔をぐしゃりと歪め、これ以上ないほどの憎しみに満ちた目で虎を睨み付けています。まるで、そこにいるのはパルの姿をした別人なのではないかと思うほどです。
「四年……いや、五年ぶりだがね……」
腹から絞り出したような声で、パルが言いました。その手には、いつの間にかツルハシではなく魔法の杖が握られています。
空気が、ピリピリとします。それだけで、パルの気が高ぶっている事にティグは気付きました。
「パル……」
何かが起こる前にパルを制しようと、ティグは声をかけました。しかし、それが逆に合図になってしまったようです。パルは杖を振り上げると、がむしゃらに振り回し始めました。辺りの倒木や岩が宙を舞い始め、それが虎目掛けて飛んでいきます。
「お前だけはっ! お前だけは絶対に許さないがねっ!!」
パルは顔を赤くしながら叫び、杖を振り続けました。ティグとフィルはなすすべも無く、ただ流れ矢のように飛んでくる岩や木を避けることしかできません。
「落ち着くんじゃ、パルペット!」
「これが落ち着いていられるかね、フィル爺ちゃん! 父ちゃんと母ちゃんの仇を目の前にして、落ち着けるわけがないがねっ!!」
フィルの言葉に、パルは怒鳴るように返しました。その目には、涙が溜まっています。そしてティグは……ティグは、言葉を失いました。
「……仇?」
ティグがやっとそれだけの言葉を紡ぎ出した時、白い虎は三人に背を向け、そのまま西へ向かって駆け去ってゆきました。
「待つがねっ!」
必死の形相で、パルがそれを追いかけます。
「待つんじゃ、パルペット! 深追いしてはならん!」
慌ててフィルが制止しますが、パルの耳には届きません。フィルは軽く舌打ちをすると、すぐさまパルを追って走り出しました。ティグも、それに続きます。
「待つんじゃ、パルペット! 待て! 無茶をしてはならん!」
フィルの声が、空しく辺りに響きます。一体何が起きているのだろうと考える余裕も無いまま、ティグはただひたすら走り続けました。
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