第11話
観覧車の乗り場から中央広場側に少し戻ったところには、カタツムリ型のモノレールが発着する乗り場があった。その出口近く。くの字型に折れた建物の壁に隠れて見えにくくなっている場所。
クズミを探してフミがその場所にたどり着いたとき、そこには子狐の姿になってうずくまるクズミの姿があった。クズミが消えたところからほど近い場所だった。
見つけてほっとしたのも束の間、クズミに触れようとして踏み留まった。
これもフミが壊したのだ。
ソウタを見ようとしなかったフミが招き、そして縋ったフミが追い詰めたもの。
そして今クズミを信じられなくなっている自分が近づいて、また傷つけようとしている。
間の抜けた電子ベルが頭上から降ってくる。見上げると建物の中からモノレールがゆっくりと離れていく。
視線を戻すと、同じくその音に気付いたのであろうクズミが顔を上げていて、フミと視線が合った。クズミは素早く後ろに跳びずさる。
「お願い、逃げやんといて!」
クズミは何も言わない。いや、言えないのだ。クズミはフミと話すことをためらっているから、獣の姿なのだ。そして、クズミを信じられないフミにはもうクズミの傷を癒やせる言葉がない。
「――逃げられたら、わたしまた一人になってまう」
言って、フミはまた間違えたと思った。
思いつくのも口から出てくるのも、クズミを傷つけるような言葉ばかりだ。
フミはゆっくりクズミの傍に行くと、クズミを抱え上げて入れ替わるようにその場所に座り込んだ。そして上着のファスナーを少し下ろしてその内側にクズミを入れた。クズミが驚いたように中で動いたが、すぐに大人しくなった。
「何も言わんでええんよ。クズミは何も悪くないから。ただ、わたしが馬鹿やっただけやねん」
クズミを抱え込むように膝を立てると、そこに腕を回して顔を埋めた。
腕に耳を押し当てて何も聞こえないようにする。風の音が消え、観覧車の低い駆動音が遠ざかる。時たま聞こえてくる電子ベルも意識の外に弾きだした。そして目を閉じて視界を絶つ。
「ごめんな。少しの間だけこうしてよ……」
薄暗くて滲んだ闇の中で、涙が溢れる。泣くのを止めようとしてもしゃっくりのような嗚咽が漏れてくる。お腹の部分でクズミがごそごそと動いて、フミの頬を舐め始めた。ふわりと柑橘の香りがする。
「ありがとな……ありがとう……」
ひどく疲れていた。眠くて、そのまま意識が遠のいていく。地面を滑るようにひやりとした空気が流れてくる。思わず身じろいで、背中に当たった壁もまた冷たかった。だからフミは逃げるように抱えた温かさにどんどんと没入していく。
「――んの馬鹿たれが!」
突然強く頭をはたかれて、フミは思わず頭を上げた。びっくりした拍子にクズミは服の中に落ちた。目の前にソウタが立っていた。疲れたように肩を上下させ、その目は怒りで鋭くなっている。
「どこが大丈夫やねん! 散ッ々、探し回らせた挙げ句こんな
ソウタは強引にフミの手首を掴むと、そのまま手を引いて立たせ、そのままフミの方は見ずにどこかへ歩き出した。
「え、ちょっと何……嫌やっ」
フミは服の中のクズミを落としそうになり、慌てて上着の裾を腕で押さえた。クズミが中でバタバタと暴れている。何とかその場に立ち止まろうとするが、ソウタは構わずフミをグイグイと引っ張ってゆく。
「何が、嫌やっ。お前はアホか! あんなトコで泣いてて誰が助けてくれんねん。昔からそういうとこはずっとアホのまま! バーカ!」
思いつく限りの罵倒を口にしながら、ソウタがフミを連れて行ったのは観覧車の下だった。
乗り場で待つ人の姿はもうない。ソウタはそのままズカズカと進んでいくと、それに気付いた係員が無人のゴンドラの扉を開く。ソウタはそのゴンドラにフミを押し込んで、そのまま自分も乗り込んだ。
「おや、また来たんや。今日二回目。楽しんどいで」
バタンと扉が大きな音を立てて閉まり、ロックが施された。フミ達の乗ったゴンドラがゆっくりと上昇を開始する。
「あの爺ちゃん、何言うとんねんやろ。またも何も一回目やっちゅうねん……」
ブツブツとぼやくソウタを横目に、動く密室の中でフミは混乱していた。ここにいると嫌でも先程迫ってきたソウタを思い出してしまうのだ。もう大丈夫だとは分かっていても、それを信じ切ることが出来ない。
「まあ、ええわ。……フミ」
名前を呼ばれて、思わず身体がびくりと震える。
「――泣け」
「……え?」
意図するところの分からないその言葉にフミは気が抜ける。
「ここやったら、泣いたって誰にも見えへんわ。それか俺に言いたいことがあるんやったら黙って聞いたる」
ソウタは片肘をゴンドラの窓枠に突くと、そこに顔を載せる。
「そんなん……泣け言われて泣けるわけないやんか、アホ」
強引にソウタに引っ張り回されている内にフミの涙は引っ込んでしまっていた。
本当は心に整理が付くまで、クズミと一緒にずっとあそこにいたかったのだ。
「もう、どうすれば良いって言うねん」
「知るか。お前が落ち着くまで何周でも一緒に乗っといたるから、その間に考えたら?」
ソウタは視線をわざとフミから逸らして、窓の外を見つめたまま事も無げに話している。
それはソウタの演技で、だから心配してくれていることが伝わってくる。
「――馬鹿」
それからゴンドラの中でフミはまた泣いた。
悲しさなのか恥ずかしさなのか。顔を見られたくなくて押しつけたパーカーの袖に涙が吸い込まれていく度、フミは泣いている理由がどんどん分からなくなっていった。
真っ暗な視界のどこかで風が吹き込んでくる音がする。頭に昇った血液とゴンドラの揺れが混ざり合ってなんだかぐるぐるする。そんな暗闇の中でフミは逃げるように対面に腰掛けるソウタの方を意識する。姿は見えない。息づかいも風の音にかき消されて聞こえはしない。顔を上げさえしなければ、彼の存在は希薄でとても不自然だった。
そしてそれは、多分彼が意識的にフミを見ないようにしているからで、つまりその静けさはフミのものでもあった。そう思うと少し嬉しいような気がした。
しばらく泣き続けて、ようやく引き付けのような呼吸が治まってきた。
フミの頭の上にソウタの手が優しく置かれる。
「落ち着いたか?」
「……」
フミは無言で腕を使い、ソウタの手をそっと払い落とした。
「うわー、なんちゅー可愛げのない」
「うるさいわ。ヒトのこんなとこ無理矢理見といて――もう、何なんよこれ……」
涙は引いたが、フミの頭の中では恥ずかしさやら言い難いむず痒さがごっちゃになって、早く外に出たくて仕方がなかった。
「ふん。お前ってホンマ泣くの下手くそやよな」
「な、何がさっ」
「……いっつも泣くタイミング外して。言いたいことも言わんまんま抱え込んで。自分が泣きたいんかも分かってなかった」
だがその言葉は、さっき泣いているフミを見つけたソウタにしては話が噛み合わない。
「それ、一体何の話なん?」
「はあ? あんなことあったのに忘れたんか、バーカ」
「だから! 何の話しやって言うんよ!」
話しが見えずに食ってかかるフミをソウタはハイハイ、と適当にいなす。
「そんだけ元気なら大丈夫やな。――それじゃあここ、最後に来たのいつか覚えとるか」
ソウタの唐突な問いに、フミは記憶を探る。この遊園地はソウタの家と家族ぐるみで幼稚園の頃から何度も来ていた記憶がある。
「小二……やったかな?」
「小三。俺が小五のとき。んで、その年に何があった?」
「え、そんなん急に言われても……」
小学校の、それも低学年の頃のことなどすぐに思い出せるはずがない。
「ルーが死んだやろ」
「あ……」
その言葉で、フミは当時の記憶に行き着く。
ソウタはフミの様子を見守った後、頭を指で掻きながら続きを話し始めた。
「あの頃はよく一緒に散歩にも連れてったよな。ルー、だいぶ年取ってたし。犬的にも大往生やったんちゃうか」
ルーは老衰で死んだ。ある日学校から家に帰ると動かなくなっていた。初めは寝ているだけかと思っていた。だが時間が経っても起きる気配がなく、身体も冷たくなっていた。フミは慌てた。まだ死という言葉を意識したことがなかった頃だ。
当時から共働きだったフミの両親は、夜まで帰って来なかった。何かの病気ではないかというどんどん心配が膨らんでいくのに、どうすれば良いかわからなかった。
「俺んちまで走って呼びに来たときは、何事かと思て流石にビビったわ」
そう、フミは電話を使えば良かったことにも気付かず、ソウタの家まで走って行った。
そして、ソウタと、ソウタの母を連れて戻り、そこでルーがもう死んでいることを聞かされた。
「あの遊園地行きは、お前を皆で元気づけるためのもんやってん。ルーが死んだ後のお前は酷かったからな。ほとんど笑わんくなったし、やっと笑ったと思ったらすぐに黙り込むし。それでも、ちゃんと悲しんどるのかと思ったら、ずっと陰鬱な顔して泣きもせえへん。……正直、俺が泣けへんかったのって、近くにお前がおったせいやわ。俺やってルーのこと可愛がっとったのに」
もっと酷い顔したのがおったからな、とソウタは付け加える。
そうだ、ソウタはいつもフミの家に来てはルーの世話を焼いていた。よく散歩にも行っていた。
そしてその隣には自分もいた。覚えている。だからソウタはフミ以上の犬好きなのだ。
フミはその時の遊園地のことはほとんど覚えていない。ただ一つ記憶にあるのはこの観覧車だ。
「せっかく遊園地来たんに、ちっとも楽しそうちゃうから、驚かせよう思てお前だけ連れてこれに乗った――」
フミが観覧車に乗るときはいつもフミかソウタの両親の誰かが一緒に乗っていた。フミが高いところが苦手だったからだ。
「それやのに、お前はまた無反応。ええ加減馬鹿馬鹿しくなってムカッときたから――「」泣け、って……言ったよね?」
フミに科白を奪われて、ソウタは、ああ、そやな、とつまらなそうに同意した。
「あの時、あたしももう段々と死ぬってどういうことか分かってきててんやと思う。ある日いきなり動かなくなって、もう一緒におられへん。でも、なんでルーがってずっと考えてた」
ルーは愛犬で、かけがえのない家族。ソウタが遊びに来たときに一匹と二人で散歩に行くのがいつもの散歩とは違う感じがして、それにルーも元気よく歩いてくれて。だから楽しみだった。
何もしなくても当たり前のようにいつまでも一緒だと思っていた。だけど実際には、昨日まで元気にしていたはずのルーが次の日にはいなくなってしまった。
フミはその時初めて現実に相対し、しかしそれを受け入れることができなかった。
「泣け言うても全然泣かへんし」「当たり前や」
「それ、今説得力があるとでも?」「なら、泣いてみる?」
フミの脅しに、ソウタは両手を挙げて「いいえ」と降参のポーズを強調する。
「でも、それでお前もようやく口開いたよな。もうルー散歩行けへんのか? って」
フミは思っていた。自分は何か悪いことをしてしまったのだと。だから特別なはずのルーがいなくなった。何も理由無しにいなくなるはずはないのだから、と。
だが、実際にはそんなことは起こらない。それに答えられる者は誰もいないのだ。だからフミは一番それを答えられそうなソウタに訊いた。
「ソウタ兄、あたしになんて言ってくれたか覚えてる?」
「……忘れたわ「」俺らが死んだら、天国でまた散歩に行けばええやん」
「ちっ、性悪」「はぁ、都合のええ記憶力……」
小っ恥ずかしいことを思い出させるな、とソウタはそっぽを向いてしまう。
だが、その非現実な言葉を幼いフミは真実として捉え、現実を受け入れたのだ。
フミは思い出した、ルーのことを悲しい思い出で終らせずに済んだのは、ソウタのお陰だったことを。フミはそれを忘れていた。フミと、フミの心の中のルーはそれで救われたのだ。
天国なんて存在をフミが信じなくなる頃には、その優しい嘘はどこかに消えてしまったが、それでもフミの中のルーとの日々は侵されることなく、いい思い出として残り続けた。
だから……。
「ソウタ兄」
「なんや? って、うわ!?」
フミは上着の中から大人しく縮こまっていたクズミを両手で持ち上げ、ソウタの方に差し出した。
「なに入れとんのかと思たら、犬か? 怒られんぞ! ……っていやちょっと待て。つーかこいつ、……公園のん――まさかあれ連れてったん、お前なんか」
フミは驚くソウタに目を合わせて頷くとまたクズミを抱きかかえる。
「教えて、ソウタ兄。なんであの日、公園であたしにこの子のこと教えてくれへんかったん?」
それは今のフミにとって確信があった。なぜ、ソウタは餌だけクズミに与えたまま何も言わずに去ってしまったのかという、ちょっとした謎。
「そりゃ、お前……あんなことがあったら、お前に犬の話しよなんて思わへんやろ」
フミは目を閉じた。分かったのだ。
自分もまた彼の中で時間が止まっていたことに。
「もう、大丈夫やよ」
フミはおもむろに、ソウタの膝の上に置かれた彼の左手を手に取った。
「お、おい、なにすん――」
その手は自分よりも大きくて、温かい。それを自分の胸のところに寄りかかっているクズミに触れさせた。
「この子はちゃんとここにおるし、あたしも。もう大丈夫。……もう大分前から、ずっと。ソウタ兄のお陰で悪いもんは吹き飛んでてん」
「……そっか」
「うんっ」
フミは遠い日の忘れ物を手に入れた。それは現実と非現実の狭間に残る、ただのフミの真実。状況は何も変わっていない。相変わらずフミには信じられないものだらけだ。それでも、一番最初のそれが残っている限り、もう迷わないとフミは思った。
「しっかし、この観覧車えらい長くないか?」
「確かに……あれ、でも時間まだ一〇分ぐらいしか経ってへんよ?」
観覧車は、ちょうど天頂にさしかかるところだ。時刻は四時過ぎ。暗くなるまでにはまだ時間があるが、見下ろす町並みは既に傾いた陽光が差し赤みがかっていた。
もう帰る時間だ。
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