第10話

 ゴンドラが下端に到着し、扉が開けられたところで、フミは弾かれるように飛び出した。ステップを飛び降り、クズミを探す。ソウタの方は振り返らない。あれはソウタではなかった。


「フミー、こっちです!」

 観覧車から少し離れたところにクズミはいた。きっとフミのことを見守っていたのだろう。

 足早にクズミに近づいていくと、あと数歩のところでクズミの方から駆け寄ってきた。

「フミ、観覧車どうでし――」

 はしゃいでいるクズミを、フミは最後まで言わせずに抱きしめる。身体がとても冷たくて寒いのだ。だから温度を求める。実感が欲しかった。けれど、今自分の腕の中にあるものは一体何だろうか。現実? 非現実?

 けれど、確かめている暇はない。

「――とに……して」

 声が出ない。のどが上手く開かない。押し出すようにと力を入れて、それでどうにかか細く声が出ていく。

「お願い、ソウタ兄を……元に戻して」

 腕の中で、クズミの身体がびくりと動く。きつく抱きしめていた腕から逃れるようにクズミがフミの身体を押して少しだけ引き離した。

「そんな……どうして」

 困惑するクズミの表情がぐにゃぐにゃと歪む。泣いてしまいそうになる。だが彼女を傷つけてはいけない。こんなときにもフミの頭はどこか冷静で、それでも一番大切なことより他の何かに思考を逸らしていないと駄目になってしまいそうだった。

「あのソウタ兄は、……ただあたしに合わせて、あたしの想うように動いてくれとるだけ。ソウタ兄じゃ……なくなってる」

 それだけ言い切って、我慢していた涙がこぼれ落ちた。それがクズミの顔に当たり、その頬を伝って流れ落ちていく。

 クズミが呆然としている。……酷い顔をしている。

 違う。

「わたしが、糸を足したから……? わたしは……そんなつもりじゃ……」

 違う違う。

「そうじゃない――クズミのせいじゃない!」

 パンッ、と音が鳴り、腕の中からクズミの感触が消える。

 今までそこにいたはずのクズミがどこにもいない。

「クズミ……どこ? 待ってよ!」

 フミは上着の袖で構わず涙を拭って、場所も分からぬまま走り出そうとした。

 しかしそれを通りがかった人影が目の前で立ち止まり、フミの道を塞いだ。

「……あれ、フミ?」

 ソウタだ。様子が先程と変わっている。

「なんで、こんなとこに……いや、俺が誘った……はずやねんけどさ。ってお前、なんか顔赤くないか……?」

「え、っと……大丈夫」

 ソウタに見られないようにもう一度、きつく涙を拭う。何もなかった風を必死に装う。

 ソウタが元に戻っているのかが気に掛かった。

「おう、そっか……。つーかなんかここ入った辺りから記憶がぼんやりしてんねん。夢の中歩いてたみたいな……気付いたら観覧車の前で突っ立っとるし。なんやねん、これ……?」

「そ、ソウタ兄なんか今日調子悪そうにしてたもん。風邪とかかもしれへんし、ちょっとフードコートで休もっ」

「……そやな」

 フミはもう一度辺りを見回すが、クズミの姿は見当たらない。だが本調子ではなさそうなソウタもこのままにはしておけない。

 フミがそのままフードコートに向かって歩き出すと、後ろからソウタも付いてきた。


 そして程なくしてフードコートに到着すると、フミはソウタを適当な椅子に座らせ、飲み物を買ってくると言って売店へ向かった。コート内は人の姿がまばらになっていた。いや、それだけではない園内で見掛ける人の数もどんどん減ってきている。夕暮れを前に帰る人が出てきたのだろう。おそらくこれから夜になれば、また人が増える。今は丁度その境目に当たるのかもしれない。

 だがフミにとって、このまま終わらせるわけにはいかなかった。

 ソウタが元に戻ったかどうかだけでも確認しなければいけない。

 ――そしてクズミを探さなければ。

 全てが元に戻れば……例え間に何が起ろうとも、それが無かったことになるのであれば、まだ元に戻れるはずだ。フミは盲信する。そうとも思わなければもう動くことも出来なかったから。だからそれ以上考えないようにした。

 フミは並ぶこともなく売店のカウンターの前に立った。注文するものはもう決めてあった。


「おまたせ」

 フミがトレイにそれを載せて戻ると、ソウタは開いていた携帯を閉じてポケットにしまった。

「おお、サンキュ。というか、ゴメンな、せっかくの休日やのに、なんかおかしなことになってしもて」

「ソウタ兄のせいじゃないよ。ほら、ちょっとでも元気出るように食べてしまお」

「そやな」

 フミはトレイを机の上に置いた。買ってきたのは、先程ソウタが買ってきたものと同じだ。

「……ポップコーンか」

 トレイの上に乗った四角いパッケージの中身を見て、ソウタはあからさまに嫌そうな顔をする。

「ごめん、嫌いやった?」

「うーん、俺がコレ苦手なんお前も普通に知ってると思っててんけどな」

 つたない反応でしかなかった。だがさっきとは明らかに違う。戻ってきた。ソウタが元に戻ったのだ。

「あ、ははは……そやったわ。ソウタ兄、確かに嫌いやったよね。食べた感じが嫌やー、とか言うて。うん」

「そうそう」

「ごめんな、ちょっとなんか別の買うてくる」

 そう言って席をもう一度立とうとしたフミを、しかしソウタは引き留めた。

「いや、ええよ。唐揚げみたいなんもあるし。それになんか、そんな食べれそうもなくてさ」

 実のところを言えば、フミも先程ここで食事を摂ったせいで、それほどお腹は空いていなかった。

 だけど、一応の区切りは付いたかと思うと気が抜けて、何かを口にしようかという気にもなってきた。これで一安心だ。


「じゃあ、俺紅茶の方もらお」

 トレイを上から眺めていたソウタが、パッケージで判断してミルクティーを手に取った。

「……コーヒーと違うん? 子供ん頃から、粋がって飲んどったやん。砂糖とかミルクとか欠かさん癖に」

「それは覚えとんねんな」

 ソウタは当時を思い出し、クツクツと笑う。

「でも、まあ最近はずっとこっちやな。美味いし。……もう何年も経ってんねん。好みやって変わるわさ」

「そう……やね…………そう」

 これは……なんかダメだ。

 フミの頭の中でそれがカチカチと音を立てながら組み上がり、目を背けたいものなのが分かっているのに瞬く間に明瞭に像を結ぶ。分かりたくなかった。だから考えたくなかったのだ。


 ――でも、そうか。


 フミはそれに気付く。

「そう……やったんや。あ、はは――」

 ああ、これは駄目だ。もう、どうにもならない。フミはそう思った。

 どんなに酷いことになっても、どんなに悪いことをしてしまったのだとしても、それでも元に戻れると思った。そして実際にそうなっている、はずだった。


「フミやってほら、何かしら変わってるはずやろ。例えばお前、椎茸食べれるようになったか、とかさ。はははっ。こうやってまともに話すのやって何年ぶりやねんって話やのにさ」

 ソウタとは一体何だったのだろうか。フミにはここにいる人が一体何者なのか、分からなくなっていた。そして、フミは全てを諦める。


「そうやね……でも、あたしは何も変われんかったよ」

「は?」

 ソウタが面食らったような顔をするが構わず続ける。

「何も変えたくなかったし、変わるのは怖かった。だからそうやってソウタ兄にも何も変わらへんことを押しつけてた」

「フミ、ちょい待て……意味が分からん」

「気付いたらもう……何が本物なんか分からんくなっちゃった」

 フミはソウタに色々を押しつけて虚像を作り出していた。彼はこうだ、こうあるはずだ、と思い込み、フミの中のソウタは何年も前からずっと止まったままだった。自分が願い、クズミの力で叶えたそれは、フミを夢から醒ましたがその代償は大きかった。


 クズミがソウタを元に戻したと言っても、今のソウタを知らないフミにはもうそれを判断することが出来なかった。


 フミが、そのエゴで壊したのだ。

 

 だからもう、ここにはいられない

「ごめん……ごめんなさいっ」

 目頭が熱くなり、涙が上ってくるのを感じて、フミは俯いたまま席を立つとその場から逃げ出した。

「おい、こらどこ行くねん!」

 フミは走った。ソウタの声よりも遠くへ、届かないところへ。

 もう、これは誰にも直せない。事実がどうあったのだとしても。フミの信じる現実が壊れてしまったのだ。フミの知るソウタの境界が曖昧になる。

 どこまで自分のエゴが流れ込み、その事実の侵していたのだろうか。何者でもないソウタを前にフミは何も思い出せない。全てが嘘で塗り固められているように感じた。必死で守ってきたもの、作られた虚像。自分が好きだったソウタとは一体何を見てのものだったのか。

 フミは現実と非現実の間でしるべを失った。

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