第5話
耳の鼓膜に刺さるけたたましい電子ベルの音で目が覚めた。
フミがベッドの枕元に仕掛けた目覚まし時計の音である。低血圧のフミはいつもここからが長い。最低、二回は目覚ましを止めて、そしてスヌーズでまた鳴らしてを繰り返したあと、ようやく観念して布団から這い出るのだ。しかし、それは平日の話である。寝起きの鈍い頭でも、フミは今日が休日であることをしっかりと覚えていた。冬の朝に布団から抜け出すのはそれだけで体力が要る。陽が高くなってもう少し暖かくなってからでも良いじゃないか。
布団の中はいつもよりも心地よく感じられ、パジャマの裾から触れる毛布の起毛の感触が更にこれを後押しする。これにはとてもではないが抗えない。
フミは布団から片腕を出して手探りで目覚ましを探し始めた。狙うのは時計の上に付いたストップボタンではなく、サイドに付けられたスヌーズを切るスライドスイッチだ。元から切ってしまえば、この後一時間は寝ていられる。
目覚ましの音が止んだ。だが、フミはまだ目覚まし時計に触れていない。
……まあ、いいか。
止まったものは止まった。鳴り出したらまた止めればいいや、と寝ぼけるフミはまた夢の世界へ――。
「フミッ、朝ですよ。起きてください」
布団の中に戻そうとした手が、別の手に握られた。
予期せぬことに、フミの意識は急速に覚醒していく。
なるほど、目覚ましは二段構えだったのだ。
なつかしい柄のパジャマを着た、頭に犬っぽい耳の生えた目覚まし……その中央。
フミは握られた手をゆっくり解くと、ポンと目覚ましの頭に手を置いた。
「え、な、なんですか?」
「うん、なんとなく。――おはよう、クズミ」
頭に置いた手にまた手が添えられた。毛布の温度だ。
「はい! おはようございます、フミ」
二十分後、フミは台所の食卓に付いていた。しっかり者でいつも早起きであるフミの母親は、フミが休日はいつも寝坊してくることを見越して、先に朝食を摂ってしまっていた。けれどいつもより早くにフミが起きてきたものだから、今は急いでフミの朝食に目玉焼きを作っている。
鍋に差し水を入れ、蓋をしたところで、タイミング良くフミの背後にあるオーブントースタの音が鳴る。
フミは、立ち上がるとトースタの扉を開けた。食欲をそそる香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。焼き上がったばかりのパンをさっと指で摘まんで皿の上に載せた。
そしてフミの母は目玉焼きを蒸している間にホットミルクを作るべく、フミと入れ替わるようにオーブントースタの下に置かれた電子レンジを開け、牛乳の入ったカップをターン皿に置いた。ボタンをいくつか操作すると、電子レンジが低く唸りを上げながら動き始めた。
母はふと、思いついたように言った。
「クズミちゃんの餌どうするの?」
クズミのことは、フミが昨晩のうちにクズミを子犬として紹介して説得をした。
とは言え、フミの思った以上に母は厳しく、説得は難航した。
母はルーを例に取り、ペットを飼うことがどれだけ大変かをフミに示した。餌代だけではない。ルーが家にいたのはもう何年も前のことだ、当時使っていたペット用品などは大方処分されてしまっていたし、屋内で飼うにしても初期費用はかなり掛かる。それに散歩などで、今まで自分に使っていた時間を子犬に割かなければならないこと。しつけ、そして病気。
フミは捨て犬だと思ったクズミを一生飼うという覚悟をして拾った。これらのことを考えなかったわけではなかったが、実際に金額として数を出されると自分が甘い考え方をしていたと分かる。
「前に飼っていたことがあるから」という事実で都合良く蓋をした。そしてクズミの正体を知って、手が掛からなさそうなこと、ずっと居るわけではないことを知って更にハードルが下がったと勘違いしたのだ。
それに、クズミがいくら常識外れの存在だろうと、病気に罹ったりしないなどと言えるだろうか。狐のようであり、人のようであり、温かさがあって、行き倒れもする生き物が絶対無欠だと、そこまで勘違いするつもりなのか。
フミはその場で頭を切り換え、少なくとも自分で負える範囲の責任を負うと言った。世話も散歩も、そして餌代等はフミのお小遣いや貯金を使うと言い切った。これは「クズミが短期間しかいないこと」を知っているフミからすれば半ば嘘を吐いているようなものだった。だけど、これは秘密にしなければならない。言えないことは言えない。フミはどうやっても母と同じ位置に立って本当の覚悟をすることが出来ないのだ。その上で我を通そうとしている。
だからフミは本当にクズミが捨て犬で、ずっと家で飼うことになったとしてもそう出来るかを自分自身に改めて訊いた上で、そう強く言い切った。緩い覚悟で大見得を切ったなどとクズミに思われたくはなかったからだ。
それでようやく母は、熊本へ単身赴任中の父親を説得することごと「子犬を飼うこと」を承諾してくれたのだった。母が首を縦に振れば、もう父は承諾したも同然だった。
「餌はこの後買いに行くつもり。子犬用のやつやよね?」
フミは昨日の半ば死闘だったものを振り返りながら、母親に答える。
この町にペットショップはないが、茅地町まで出れば小さなホームセンターがあった。
「そうそう。餌皿はルーのを残してあるから……。そや、車で行って大きな袋で買う?」
「ううん、最初は色々自分で考えて選んでみたいし」
フミはクズミと一緒に店に行き、彼女の好みのものを買えば良いかな、と考えていた。
「あら、残念。ああでも、あんま高いの買うてきたらあかんで? 安いの食べてくれんくなるから」
「うん。……そやっ、あと夕飯の残りとかあげてもええ?」
「フミィイ? アンタ……自分で餌代出すとか言うておきながら、そういうとこで節約図ろうとすんのはお母さんどうかと思うねん」
「ちゃ、違うわ!」
フミからすれば、人の姿にもなれて、肉まんを美味しそうに食べていたクズミを見るからに味気ないドッグフード――餌缶は価格的に範外――ばかりにするのは可哀想だと考えての何気ない一言だったのだが、母親はそれを知るよしもない。
「まあ、ええけど。あんましやるとおデブになんで?」
フミの母はコンロの火を止めて、フライパンの蓋を取る。鍋を食卓まで持ってくるとフライ返しで目玉焼きを掬い、それを皿の上に載せた。白身の外側はパリッと香ばしく、中央には薄く白い膜が張った半熟の黄身、その上からは塩こしょうが振りかけられている。その刺激的な香りに混じって微かに漂ってくるのは熱された油の臭い。
「それは……嫌やなあ」
フミはマーマレードジャムを薄く塗った食パンを一口かじる。堅くなった食パンの耳は乾いて苦い。微妙に削がれてしまった食欲では、これだけでお腹いっぱいという気がしてくる。
フミの母はフライパンをコンロの上に置いた、そして食卓に置かれていた今日の新聞をすぐ横に除けるとその下にあった二枚の千円札を手に取り、フミの前に置いた。
「はい、これ餌代」
「お母さん、あたし自分のお金使うって……」
「なにいっちょ前に言うてんの。――出所は同じ」
「そりゃ分かってますけどォ」
それでも、昨日の今日で前提を崩すのはフミとしても納得がいかない。コツコツ守ってきたお年玉でさえも母の目を欺くため、使うかどうかイマイチ分らないペットグッズの数々に使うこと決めていたのだ。
「餌代の分はアンタのお小遣いがアップ。それでええでしょ。貰えるときに貰っときィさ。やけど他に使たらきっちり減らすで?」
「分かってますぅ」
フミは口を尖らせながらもわざと恭しくお札を受け取ると、部屋着のポケットにそれを入れた。
それからフミの母は洗い物に戻り、フミはボソボソと朝食を咀嚼していく。
考えてみればおかしなことに、昨日フミが犬を飼うことを許した後、母親はその態度を一気に軟化させたのだった。フミが一階に連れて行った子狐姿のクズミを、やや語弊はあるが母は嫌と言うほどに猫可愛がった。そのあと、フミは困ったことがあったときなどは絶対に相談することと約束させられた。
クズミの方も母親のことは気に入ったようだった。フミにしてみれば、あの溺愛と言ってもいい可愛がりようは自分ならば辟易していただろうと思う。
……試されていたのだろうか。
フミの脳裏にそんな考えが浮かぶ。だが確かめようはない。
朝食を食べ終えて、まだ半分ほど残ったホットミルクだけは、自室に持って行くことにする。フミは食べ終えた食器を、洗い物をする母の横から流しに置いた。
「あたし、ちゃんと世話するから」
そしてそれだけ言うと、そそくさと二階へ上がって行ってしまった。
母はその食器を手早く洗剤の染みこんだスポンジで洗うと、お湯で流して食器乾燥機の中に並べる。
「……ちゃんと出来るの知っとるから、心配なんやんか」
最後のお皿に付いた泡が流しの排水溝に呑み込まれていく。
その独り言もまた、蛇口から流れるお湯の音に紛れて、誰にも聞かれることなくどこかへ流れていった。
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