第4話


 フミはタンスの奥にまだしまってあった、自分がもう着れなくなった小さい頃のパジャマを出して、少女に着せた。丁度良い大きさだった。流石に穴を開けるわけにも行かないので尻尾はズボンを下げて出していた。

 それでようやく落ち着いて話が出来る状態になったとフミは思ったのだが、いい加減しびれを切らした母親が階下から大声でフミを呼んだ。

 フミはとりあえず、少女にくつろぐようにと言った。少女は「狐の姿に戻りますか?」と言ったが、フミにとっては人の姿だろうが狐だろうが、隠している以上大差なかった。お好きなように、と言い残し部屋を出る。そして階段を降りかけてその足を止めた。

 ――狐だったのか。

 毛色がフミの知る狐とは随分違うようだが、まあそう言うこともあるかと深く考えないことにした。相変わらず、事態はフミの想像から大きく逸脱しており、些末にこだわる事に意味があるとは思えなかったのだ。必要なことは多分、知ることだ。


 母親と夕食を作り、そのまま二人でテレビを流し観ながら食事を摂った。本来ならここでお手伝いの増量を申し出たり、子犬もとい子狐の可愛さなどを訴えることで母親を懐柔し、そのまま説得してしまうことができたはずではあった。だけど、それも今はひどく昔のことに思えた。

 食事を終えると、フミは勉強をするという名目で冷蔵庫から肉まんを取り出して温め、熱いお茶と一緒にお盆に載せて自室に戻った。

 部屋ではパジャマ姿の少女が、ベッドの中央で座り込んでいた。

「おまたせ」

 少女の目がその声に反応してフミを見つめ、次にその手の上にある肉まんにシフトする。

「食べる?」

「食べます!」

 彼女のその尻尾がばたばたと揺れる。

 フミはガラステーブルの上に肉まんとお茶を置いた。意外にも少女は軽い身のこなしで、ベッドを降りると足早にテーブルまでやってきて正座した。

「……いただきます」

 そして静かに手を合わせたあと、両手で持って中身の具の熱さに四苦八苦しながらも、一個丸々食べ切ってしまった。そして湯飲みをまた両手で抱えて一口飲んだ。

「はぁああ……ごちそうさまでした。ここ最近はまともに食べてなかったので、助かりました」

「どういたしまして」

 少女を見ていると、年下の妹を見ているようだった。フミには妹などいないのだが、その仕草の一つ一つに親しみを感じてしまう。だから、話しかける口調も自然に気を置かぬものになっていった。

「まず、自己紹介しとくわ。あたしの名前はフミ、ね? 早津文っていうの。あんたは名前、なんて言うの?」

 少女は一瞬考えるそぶりを見せたが、すぐに口を開いた。

「わたしは、クズミと申します。葛餅の〝クズ〟に弥生の〝ヤ〟でクズミです。フミさんには、行くところもなく途方に暮れていたところを助けていただいて、なんとお礼を言って良いやら」

「あー、ちょっと待って。ええんよ、そういうの」

 クズミの話を遮るように、フミは手を突き出して静止をかけた。

「ハイ?」

「敬語ッ。なんかむず痒いし。あたしとしては、ただ捨て犬やと思て拾っただけやってんし。それに純粋善意百パーセントで助けたわけやないし」

 確かにフミは確かに捨てられていた子狐を可哀想だと思ってはいたが、僅かにソウタとの接点になるかもしれないな、などという打算的な考えがあったのも確かだった。ソウタが捨て犬のことをどう考えていたかなど定かではないから、それは「たぶん叶わないだろう」という小さな希望として生きていた。だからこうもその当事者から諸手を挙げて感謝されてしまうと、フミにとってはなんだか居心地が悪いのだ。

「やから。敬語とか別に使わんでもええし、そう、友達にするみたいな、ね? それで名前も呼び捨て。もう、フミでええよ」

「……フミ?」

「うん」

 おそるおそる、それを口に出したクズミにフミは頷き笑いかけた。

「そんな感じ。歳もそんな変わらへんのでしょ?」

「あ……それは、その。ええっとですね」

「え、ちゃうの?」

 見た目には十才前後に見えるクズミだが、それはそれで人っぽくなったり狐っぽくなったりする不思議な存在である。見た目など問題ではなく、もしかしたらものすごく年上なんてこともあるかもしれない。

「……半年なんです」

「へー……ええッ!?」

 半年とは六ヶ月のことか。六ヶ月ってなんだ。

「それ、生まれてから半年ってこと?」

「はい」

 今日のフミは夕方から驚き通しである。狐がキツネ耳の少女に変身したことで、もうなまなかな事では驚かないと思っていたが、予想が甘かった。

 クズミの言葉を信じれば、生まれてたった半年でこの姿だ。この世界一体どうなっているのか。

「なんか、色々反則やなあ……」

「すいません」

「いや、謝ることやないし」

 クズミは手に持ったままだったお茶を更に一口飲むと、深呼吸をして語り始めた。

「わたしは、ですね……人の言うところの神さま、その御使いになります」

「みつかい?」

「そうですね……解りやすく言えば、神社に奉られている神さまのお手伝いをする者のことです」

「あ、なるほど」

 そういうものかとフミは軽く頷く。

「……うう、素直に納得されても困るんですが。フミは信じてくれるんですか?」

 フミはクズミの言うことをとりあえず信じてみることにしていた。どちらかと言えば、クズミがまだ敬語で話していることが気になるのだが、そういう性格なのかもしれないと結論づける。

「うん、どうせ確かめようもないし。それに、目の前に信じても良いかなー、っていうのがおるねんし」

「ああ、どう言えば良いんだろう」

「気にせんでええんよ。続けて続けて」

 フミにとってみれば、知ることはそのまま安心に繋がっていた。真偽はこの際、どちらでも良く。ただ「信じられる」、筋道が通っており疑うことなど関係ない。そういう理解へとたどり着きたがっていた。

 クズミはやけに呑み込みの良いフミに戸惑いながらも話を継いだ。

「神社というのは古く昔からあるものが多いのですが、場合によっては新しいものを建てることもあります。今、長野の水部みずのべ村で建てられようとしている稲荷神社もその一つです」

 フミにとっては、稲荷神社と言えば狐の像が置かれた神社という印象だ。茅地町にも一つあるし、全国に幾つも稲荷神社があることもかろうじて知っていた。ソウタの自転車に付いている交通安全祈願のお守りも、中学から自転車通学をしているソウタのために彼の母親が茅地町の神社からもらってきたものだ。

 クズミは湯飲みを机の上に静かに置くと、少し上を向くように遠くを見つめた。

「水部村は元々今ある場所から五キロほど離れた山間にありました。でも、二十年以上前にそこにダムを造るという計画が持ち上がって、それから村との話し合いの結果、住民の方は別のところに新しい水部村を作って移り住むことになったんです。移住自体は三年ほど前にみんな済んでしまって、今はもう新しい村として動き始めています。そして今回、ようやく以前の水部村にあった神社も新しい村に移すことになったんです」

 テレビのニュースで見掛ける「ダムに沈んだ村」という文句はなんともイメージの悪いものだが、もちろんそこに住まう人ごと沈んでしまうわけではない。新しい生活がある。

「神社を別の場所に移す場合、人がせんさいを行うことで神さま――うちの場合はウカノミタマノカミ様という女神様ですね。神さまと、そして神社の機能を新しい神社に移します。ですが今回、遷座するに当たって、長らくお仕えしていた御使い達がその役を降りて彼の地に残ることになりました」

「って、え? それ沈んじゃうやん!」

「いえ、神社のある場所自体は村から離れた高い位置にあってダムからは少し離れているんです。神社を移したあとも鳥居と小さなお社は残すことになっていて、先達もそこから土地を見守る意向のようです」

 新たな生活を選ぶものもいれば、その逆もいる。人でも神さまでもそこは変わらないのか。

「ミタマノカミ様もそれを強く止めることはなく、そして新たにお移りになられる神社に土地の地霊を呼んで新たな御使いとしました。……その一人がわたしなのです!」

 クズミはその手を誇らしげ自分の胸に当てた。

 生まれてから半年というのはそう言うことなのだろうか。

 自分よりも年下にしか見えないクズミが、しっかり自分の役目を持ち誇っている。それがフミには何だか格好良く思えた。

「で、そのあんたがなぜここに……しかも、行き倒れてって、長野って何百キロも離れてるよ?」

 そう言うと、一転クズミの顔は曇り、耳と尻尾もしょげてしまった。今にも泣き出しそうだ。

「わっ! あ、あたしなんかマズいこと言ってしもた!?」

 思わず手が伸びて、子狐の姿の時にやった調子で頭を撫でる。クズミの頭に触れる感触は間違いなく人のそれだが、載せた手を挟むようにして生えている耳は狐のものだ。触ってみたい衝動に駆られるが、とりあえず今はクズミをなだめることに専念する。

 しばらくそうしていると、彼女はようやく落ち着いたのか、お茶を一気に飲み干した。コツリとテーブルに置かれた湯飲みが気味良い音を立てる。

「えっと……新しい実豆辺神社は近隣の町にも近く、以前よりもたくさんの人がやってくることになります。その上村の人たちからすれば、神社は遷座しただけで奉られる神さまは変わりませんし、社も新しくなって今以上の御利益を期待しています。でも、実際には中で働いていた御使いが全ていなくなってしまったことで、新しい御使い達は途方に暮れています」

「ああ……」

 そう、それは例えば部活で言えば、ある日突然先輩達が全て退部し、入部したての一年生だけになってしまったようなものだろう。これでは流石に顧問の先生の手には余る。

「はい、このことにはミタマノカミ様も悩んでおられます。全国の稲荷を引き受けておられますので、こちらばかりを気にかけるわけにはいきません。それで、遷座祭の行われる来年四月までに、と一旦わたしたちに暇を出し、一年掛けて諸国で神社の〝のうはー〟を学んでくるように、とお言いつけになったのです」

「の、のうはー……? って、もしかしてノウハウか! 横文字!? あんたちゃんと意味解って使ってるん?」

 クズミが使ったその単語は、イントネーションが「ゴルファー」と同じであり、フミは一瞬それが何のことか分からなかった。

「はい! お仕事のうまいやり方のことだと聞いております。ミタマノカミ様はたまにムツカシイ言葉をお使いになられますので、勉強になります!」

「いや、なんか……もうええわ。というか、ノウハウなら前の神社におった人らに聞けばいいんちゃうん?」

 しかし、クズミはかぶりを振る。

「旧村に人がいなくなったことで、彼らはまた元の地霊に戻りました。地霊はその土地に生きるものから自然に湧き出る生命の残滓のようなものです。それらが、何かの目的に沿って集まらないと、こうして会話することも出来ません。例えば御使いが人に働きかけるためにあるように、ですね」

 つまり、クズミは先輩に教えを請うことも出来ない状態で、顧問からも言葉少なに武者修行に出されたのだ。何も分からない状態で、ただ方法を知っていくのではなく、知るための方法までも考えていかなければならない? それはとても、難しいことではないだろうか。

 深刻に考えてしまっているフミに気づいて、クズミは特に元気な口調で続けた。

「ええっと、わたしは最初の半年は東日本を中心に人間の暮らしを観察しつつ、各地の神社のご厄介になって勉強をしていました。この姿では目立ちますので、人里に降りるときは基本的に狐の姿をとっていましたけど。……でも、今ならやろうと思えばまくどなるどの注文も余裕です!」

「……そっかー、えらいなあ」

「えへへ」

 フミの中で、神さま像がどんどん崩壊していっていることは言わないでおく。

 クズミは自分が働きかけるべき「人」に褒められたのが嬉しいのか、それともフミに褒められたのが嬉しいのか、ひとしきり尻尾を振りながら照れたあと。少しだけ視線を床に逸らした。

「でも、わたしも少し天狗になっていたのかもしれません。向こうである程度の手法を修めたあと、今度はそれを使って実際に困っている人や願いのある人を助けようと、心に決めてこちらにやってきました。だけど、自分からそういう人を探すのは思った以上に難しくて、……しかも狐の姿じゃ話をすることも出来ませんし」

 狐の姿をしていれば、毛色も違うことから子犬にしか見えない。まさかその姿で話しかけるわけにもいかないし、だけど中途半端とも言えるこの人の姿では耳と尻尾が邪魔になる。

「それで結局、目当ての人を見つけられないまま時間だけが過ぎてしまい、諦めてどこかの神社に行こうとしたのです。でも、今がちょうど旧暦でいう神無月にあたりまして、神社にも誰もいなくて……ここ一週間ほど神社を巡って歩きつづけたせいでお腹も空いて――でも、途方に暮れていたところをフミに助けてもらったんです!」

 大げさに尻尾が左右に揺れる。その振り幅は感情表現の度合いだ。

 本当に嬉しかったのだろう。

 だから、少しは助けになれていた。その事実が、未だにフミの心に刺さったままの打算による負い目の棘を少しだけ緩める。

「クズミ」

「はい?」

「あんたの話は分かった。でも、これからどうするかは決めたん?」

「いえ、神無月の終わる来月中旬ぐらいまではどこに行っても同じような状況なんです……」

 それはそうだ。行く当てがあればここまで喜んだりはしないのだから。

「オーケィ。意地悪な訊き方してゴメンな。でもそれぐらいの期間やったら、クズミさえ良ければ、うちにおらへん?」

「え、そんな……ご迷惑になりますっ」

 だが、フミにしてみれば、一時は曲がりなりにも一生面倒を見るかと言うところまで考えてはいたのだ。あと半月程度、なんと言うことはないし、それに一度は犬を飼っていたこともある我が家。父や母の性格を鑑みても、説得出来る自信はあった。

「ええよ。それに言うたやん? 初めはあんたのこと捨て犬やと思て拾てん。うちで飼えるかどうかも判らへんってのに。……お母さんとか説得出来ひんだら、また箱ごと公園に持って行ってたかもしれへん」

 言いながら流石にそれはないかな、とフミは自分では思っていた。いくら何でも、一度自分の考えで拾ったものをまた無責任に放り出すようなこと、フミだってしたくはない。そんなことをする前に、別の飼い主を探すなどしたはずだ。

「……フミはどうしてそんなに自分が損をする言い方をするのですか?」

「言うたやん。純粋善意百パーセントで拾ったわけやなかった。クズミももしかしたらもっとええ人に助けられてたかもしれへん」

 そう答える脳裏にソウタの顔が浮かぶ。何故だろうか。今回に限っては、ソウタは捨て犬のクズミをフミの前で放っていってしまったというのに。それなのに何故かそうではないと信じている自分がいる。何かを思い出しそうな気がする。

「いいえ、フミはいい人です」

 だが、それを思い出す前に、思考はクズミの強い声で遮られる。

「たとえ百パーセントじゃなくても、九十九パーセント良い人だったら、もう良い人で良いじゃないですか」

 クズミの言いように、フミは思わずクツクツと笑いを溢す。

「そんなに良くないわ、バカ。甘めに見て八〇ぐらいや」

「それでも! フミは良い人です!」

 ああ、本当に……。

 フミは思った。意地の悪い自分がいて、だけどそれを真顔で全肯定してくれるやつがいる。それはどうにも居心地が悪いのだ、と。

 だから持て余した心が無意識に手を伸ばし、これでもかと言うぐらいに優しくクズミの頭を撫でていた。

「フミ……なんかくすぐったいです」

「うん。ありがと、ね――ようっし、そうと決まればさっさとお母さんを説得したろやん」

「はいっ! フミの願いが届くように開運させます」

 そういうと、クズミは目を閉じて柏手を打った。

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