第3話
いつもより早めに入浴を終え、フミが自室に戻ってきた時には時計は七時をすこし回ったところだった。もうそろそろ、母親も帰ってくる頃だ。フミはそれまでに、拾ってきた子犬のことをどう説得するかを考えなければならなかった。まだ有効な口説き文句は浮かんでいない。
けれど、前にも犬を飼っていたことがある我が家だ。そんなに難しくはないはず。そう独り合点しながら、フミは自室のドアを開いた。
見慣れた自室。なるべく床にものを置きっ放しにはしないように、と努めたお陰で小綺麗に保たれている。本棚には少年漫画と少女漫画、あとは最後にいつ読んだかも忘れてしまったハードカバー小説。そして少しの参考書などなど。格好良いと言うよりは可愛いに寄った小物で彩られているこの部屋は、まさしく女の子然としている。
だからベッドの上で女の子がうずくまるようにして眠っていることを、フミは一瞬看過しかけた。
「……は?」
だが、流石に彼女もそこまで馬鹿ではない。
見るとその少女は、一糸まとわぬ姿だった。暖房が効いているお陰で風邪を引くことはないだろうが、たぶん今そんなことは重要ではない。
彼女はフミよりもまだ幼い体つきで、十才前後に思えた。眠りに落ちて表情を解いたその無防備な顔つきはフミにも素直にかわいらしいと思える。そして腰に届くほどの暗灰色の髪中からは突起のように三角の耳とふさっとした尻尾が……何故生えているのか。
そこまで眺めてフミはようやく混乱した。わけの分からないものが部屋の中にいるではないか!
ファンタジー・誘拐・泥棒・通報ッ!
ひとしきり無意味な思考をグルグルと回転させた結果、フミは少女の容姿に敵性を見つけられず、まず「警戒」の選択肢を外した。しかし、現実と非現実の混在したこの部屋で、フミには正解となる選択肢が分からない。
やがてぐつぐつと煮立って混濁してきた脳内で出た結論は「取りあえず触れてみたい」だった。
静かに眠る獣のような人間のような不思議な少女。近づいても起きる様子はない。
そっと耳をつまむように触れてみると、見た目の薄さにもかかわらず弾力があり温かい。すると耳がピクリと動き、それに驚いてフミは手を引っ込めてしまう。そして次に少女の頬を突く。フミは自分が我ながら怖いもの知らずだと感じた。好奇心の方が勝っているのだ。反応がないので何度も突く。
「んん……」
すると少女が唸りながらゆっくりと首を曲げ、パクリとフミの指をくわえた。獣ではない人の声だった。寝ぼけているだけのようでその指をかじるように甘噛みしている。指を引き抜く時にちらりと見えたのは紛れもない人間の歯。
多分この少女は恐ろしいものではない。フミはそう直感した。
「ただいまー」
その時、静かな部屋の中でフミの耳に聴き馴染んだ声が届いた。階下からだ。仕事から帰ってきた母親である。すぐにそれよりも大きくバタンとドアを閉める音が響いてきた。
「ふーみー? あんた、物騒なんやから鍵閉めとかんと駄目でしょが!」
ガタガタバサバサと生活感のある物音が響いてくる中、ひときわ大きな母親の声が。そして、足音が二階に上がってくる。
「お、お、おかえりーッ!!」
なんだなんだなんなんだ!
フミは真っ白になった頭の中で、今やるべき事を必死で考え、とりあえずは母の帰宅を迎えるべく大声で応えた。最後の方は若干声が裏返っている。
母親が来たらどうする。この獣少女を見てもらうか。いやそんなことをして何になる。やっぱり通報か。警察? 消防? そもそも何も悪いことは起こっていない。だけど、危険だったらどうするのだ。
そして振り返ったフミは見た。――起きている。両手を突いて上半身を起こした獣とも人とも判別の付きにくい少女。その色素の薄い光彩。はっきりと見開かれた瞳が――フミの事を怖れている。
ずるいな。フミはそう感じた。そのまま意を決するとベッドに近づき、布団捲り上げて少女を巻き込むようにしてその姿を隠した。
「いい? 大人しくしとって」
そう、言ってしまった。一体自分は何をしているのだろうか、と。
言い終えてから間髪入れずに部屋のドアがノックされる。
「ふみー?」
「は、はーい!」
だがフミがドアノブに触れるよりも早く扉が開く。
「アンタ、もう夜やってのに、なにおかしな声出しとるんよ?」
現れた母親は開口一番にそう言って、フミのことを訝しむ。
「あ、あー。えっと、ごめん。お母さん帰ってきたときに学校で友達から分けてもらったポップコーン食べててんけど、カラが喉に貼りついてしもて咽せててん」
フミは床の上に置かれたポップコーンを見えるように指さした。紙コップの中は最後にフミが見たときよりもその量を減らしていた。
「……そない無理しておかえり言ってくれんでもええんよ?」
「ああ、うん……あははははは」
フミの母親は呆れた様子で、しかしそれ以上疑うこともなく。それから夕食作りを手伝いにくるように、とだけ告げて階下に降りていった。
母親が一階の廊下の先にある台所のドアを閉めるのを音で確認してから、フミは静かに自室のドアを閉め、ベッドの方へと歩いて行く。
裏返した布団を元に戻すとそこには、一匹の子犬がいた。
子犬は何事もなかったようにお座りをすると、フミに向かって尻尾を振る。
「……いや、もう見てしもたし。――髪の毛の色、一緒やったでしょ?」
確信を持って、その子犬の目を見つめた。
子犬はその視線から逃げるように顔をうつむけるが、もう一度だけフミの顔を見上げると、布団の裾を鼻先で捲ってその中に潜り込んだ。布団がしばらくもぞもぞと上下する内にその体積が風船を膨らますように音もなく膨らんだ。そして中から現れたのは先程の少女だ。布団の裾を引っ張って身体の前を隠している。
「あんたは……誰?」
「何だ?」とは訊かない。人の姿をしているからには、この少女は話すことが出来るはずだとフミは直感している。
改めてその顔を見てみると、その浮き世離れした姿にまるで自分がどこか別の世界に迷い込んだような錯覚を起こしそうだった。ほっそりとした顔立ちに、薄い唇。好奇心の強そうな大きな瞳は切れ長の瞼に抱かれ、今は申し訳なさそうに伏せられている。腰元まで伸びる灰がかった髪の色は、染色されたものには見えず、天井から照らす蛍光灯の下でも直毛特有の光沢を反射していた。
「駄目かなあ。言葉、わかる?」
また数秒、沈黙の間が空く。緊張で呼吸の音が大きく聞こえる。深く大きく静かに繰り返す二人の呼吸が溶け合い、唐突に獣の少女が口を開いた。
「はい、解ります」
自然なイントネーションの日本語に、年相応のキーの高い声。
ふとフミは彼女が透明だと感じた。声だけではない、その特異な姿でさえも、フミの常識の範外にあるだけで少女にとっての自然な姿だと思えた。それだけに、目の前の信じられないはずのものが、上手く定義づけられない。形を保てずに今にも消えてしまいそうに思えた。
「庇ってくださってありがとうございます」
少女はそのままの体制でぺこりと頭を下げた。
「お母さんのことやね。でも、あたしも知ってしもたし。あんまし、意味なかったかな」
「いいえ。守ってくださったことです。意味はあります」
初めて少女はぎこちなくだが笑った。それでフミは、僅かに残っていた警戒だとか緊張だとかを根こそぎ奪われてしまった。
「そっかな、あはは……それでまあ、色々聞いてみたいこともあるんやけど」
フミは少女の姿を見た。少女の方は、その視線に意味も分からず首をかしげている。
「その格好のままってのは、ないよね」
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