第2話
時刻は午後六時過ぎ。既に陽は落ちて、冷たく乾いた風が吹き始めた。この季節は夜ともなれば気温が十度を下回る。本格的に暖房を使うかどうかといった微妙な時期でもあり、周りの家々も窓を閉め切って何とか暖をとろうとしている。しかし早津家はある窓が全開になっていた。
「こらっ、大人しゅうしィ!」
三平方メートルほどの広さで、壁に白タイルが貼られた早津家の風呂場には、ずぶ濡れで泡まみれになった子犬とそれに悪戦苦闘するフミの姿があった。
フミは帰宅してすぐに自室に入り、犬を洗うために制服から普段着に着替えていた。今は濡れてもいいように七分丈のシャツと短パン姿だ。
冬のお風呂場は床が冷え切っていて、足の裏を接しているだけでも冷たくて苦痛である。だが子犬から漂ってくる嫌な臭いと冬の寒さ、どちらをとるかで迷ったフミは、結局自分も犬を洗った後すぐに風呂に入ってしまうことを思いつき、時折窓から吹き込む風に耐えながら、バスタブにもお湯を張り始めていた。
風呂場の中をうろついている落ち着きのない子犬を横目に見ながら、フミはため息を吐いた。今はバスチェアに座り、お湯の張られたプラスチックの
フミははしゃぐ子犬を捕まえると脚で挟んで押さえつけ、耳に洗液が入らないように注意しながら子犬を洗った。ペット用のシャンプーはもう取り置きしていなかったため、自分のものを使う。
そしてフミは一通り洗い終えると一度子犬を解放した。子犬はまた風呂場の隅に歩いて行ってしまう。
「うへぇ……ルーはもうちょっと大人しかったで」
早くも拾ってきたことをやや後悔し始めたフミは、また大きく息を吐いて何年も前に死んでしまった飼い犬の名前を口にする。しかし思い出の中のルーはもう老犬だ。ただ暴れる元気がなかっただけの可能性もある。
すこし休憩してからフミは風呂場の窓を閉めると、足下に転がるシャワーをまた手に取った。ノズルからは温めのお湯が出続けており、一緒にバスタブの方にもお湯を出しているため、その勢いは弱い。でも動物を洗うのならかえって丁度良いぐらいだろうと感じた。
「ほら、おいでえや」
あとは、泡を洗い流すだけである。
いい加減に子犬の方も暴れ疲れたのか、その場をぐるぐる回ったあと観念したようにフミの方へやってきた。
全身くまなく洗われ泡だらけの子犬は、今はオレンジの香りを放っていた。
フミは子犬が大人しくしているうちに、その泡をお湯で流していく。お湯をかけながら優しく掻くように撫でてやると、子犬は気持ちよさそうに目を閉じてしまう。
「初めからそうしてればええねん。――よし、終わり!」
リンスが必要かと一瞬考えたが今はそこまでする元気がない。
バスタブを覗くと、中のお湯は七分目程度。フミはバスタブとシャワー両方の蛇口を締め、用意してあったバスタオルで濡れた子犬を包むようにして拭く。
そこからドライヤーで粗方乾かしてしまうまでの子犬はまったく大人しいものだった。
そして終わってみれば、そこにはやや湿ってはいるもののツヤのある短毛をした子犬がお利口に〝おすわり〟していた。毛をかぴかぴに固めていた汚れは落ち、ぴんと立った耳から垂れ下がった尻尾の先までもうぴかぴかだ。おもむろに首元を撫でると、すっと体毛に手が通る。会心の出来である。
上機嫌のフミは子犬を抱き上げて、二階の自室に入った。六畳ほどの広さの部屋の内装は暖色で統一され、ベッドと勉強机に挟まれたフローリングの床の上には背の低いガラスの丸テーブル。そしてその上にはソウタが子犬にあげたポップコーンが置かれていた。子犬の入っていた段ボールは、今は折り畳んでベランダの外に出してある。
フミは床に新聞紙を敷くと、その上にポップコーンのカップを置いた。これで子犬もお腹が空けば勝手に食べるだろう。そして衣装ダンスから着替えを選ぶと、エアコンのスイッチを入れて部屋をあとにした。
誰もいなくなった部屋で彼女はしばらく部屋の中を歩き回って匂いを嗅いでいた。だがそれにも飽きてしまったのか、フミの置いたポップコーンのカップに器用に口を突っ込んで残りの更に半分ほどを食べた。遙か頭上では見慣れない機械がうなりを上げている。心なしか部屋の中が温かくなってきたように感じた。今日は昨日とは違った。ただ一日で訳の分からないことになってしまった。疲れてしまった。
心地の良い目眩。抗いがたい欲求。吸い寄せられるように目の前のベッドの上に乗ると、そのまま丸くなり目を閉じた。
彼女にとっては久しぶりの布団だった。
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