嘘つきと、まれびとと。
殊更 ヒロユキ
第1話
十一月の週末。
図書室の自習席に腰掛けていた
フミは読みかけの本を近くにあった元の棚に返そうとして、しかし、その動きを止めた。黙考すること数瞬。そうだ、明日は土曜日で学校は休みになるのだった。
そのことを思い出したフミは本棚に戻しかけた本をまた引き抜くと、見返しに貼り付けられた紙袋から図書カードを取り出した。カードの空白の欄に自分の学年とクラス、そして名前を書いて荷物と一緒にカウンターに持って行く。
「先生っ、コレお願いします!」
暗い夜道は怖い怖い。だから早くに家に帰る事が出来る理由になる。バレないようにバレないように。自分自身にも嘯くように、フミは「暗くなる前に早く帰ることにした生徒」の体でやや早口に、カウンターの内側でパイプ椅子に腰掛ける壮年の女性教師に話しかけた。
しかし図書室の番をしていた奥田先生は、その浮かれたテンポにたたらを踏ませるかのように、いつもの通りゆっくりした調子でフミに言う。
「あら……、早津さんもう帰るの? カードは……そう、書いてあるのね」
先生はカウンターに置かれていた長方形の日付スタンプを取り出すと、軽く何度かスタンプ台に押しつけた後、ポンと手慣れた風にカードの貸し出し日欄に押印した。
「ふふ、また借りるのね。……面白い?」
カードをカウンター上の専用ケースに挿しながら先生はそう言った。カードには《早津文》という名が、二つ連続で並んでいる。それより前に借りた人の日付は驚くことに四年も前の日付になっていた。
「あ、ははは……。でも、主人公があたしよりも小さい女の子やのに、案山子とかライオンを仲間にして不思議な旅をするとか、なんかこう面白いやないですか? 何回読んでも楽しめるちゅうか……ええっと」
出来ればカードの名前も、それに本の内容だって気に掛けて欲しくはなかったのだけど。
フミは即興で場当たり的に感想を話そうとするが、途中で詰まってしまう。変に律儀なのが災いして、また結局醜態を晒している。
だが、奥田先生はそれで納得したようだった。
「名作だしねえ。色んなお話に触れるのは良い事よ。……でも、何をやるかはきっちりしなくっちゃ。勉強も頑張ってね」
カウンターからは、自習スペースも丸見えだ。きっと、フミが勉強を始めてから半時間も経たない内に、本棚を物色し始めていたことにも気付いていたのだろう。
「き、気ィつけます!」
フミは苦笑いで本を受け取るとぺこりと頭を下げて、そのまま逃げるように図書室を出た。
廊下は教室越しに弱々しい夕日が差し込んでいる。そこを足早に、フミは階下の下駄箱に向かう。
「ああもう……冬場の図書室は鬼門やわ」
思わず脳裏に浮かんだ言葉が口を突いて出る。
普段なら学校での独り言は自制しているが、今なら廊下に人気は無い。
しかし、階段を一つ降りた踊り場で思わぬ人に出くわした。
同じクラスの二橋ハヅキだ。彼女はまだ部活動中なのか、バスケ部のユニフォームを身に纏い、その上に学校指定の紺色ジャージの上着を着込んでいる。
「あ、ふーみ今帰るん? また月曜ね!」
「ぇうん! 月曜っ」
独り言を聞かれていないかどうかに気を取られたフミは、そう返すので精いっぱいだった。
ハヅキはそのまま、軽快に階段を駆け上がりバタバタという足音がすぐに遠くへ行ってしまった。
「さっきの独り言聞こえた?」などと今さらな問いを口に出さずに呑み込んで、聞こえていませんように、とフミはちょっとだけ祈っておく。
学校を出ると、もう陽は山の向こうに落ちていこうとしていた。フミは歩道に伸びる薄くて長い影を追うように家路につく。家は通っている中学から歩いて三十分ほどのところにあった。途中に小高い丘を迂回するように出来た坂道を登って、そこから少し下る。すると中学の周りがまだ古い町並みを残していたのに対して、丘を越えたこちら側は等間隔にどれも似たような四角い一軒家が建ち並んでいる。町の名前は「緑が丘」。中学のある「
フミが自分の家がある通りに入ると、丁度街灯に明かりが灯った。とは言え、辺りはまだそれほど暗くはなっておらず、たまにすれ違う住人の顔もちゃんと見えている。
そして「第二公園」という味気のない名前がつけられたその場所を通りかかったとき、彼女はその入り口に見覚えのある自転車が駐まっているのを見つけた。
「ソウタ兄?」
自転車のハンドルの支柱には、盗難防止用のハンドルロックが取り付けられており、挿しっぱなしの鍵には赤地の
「なんのための鍵やねん……」と小声で突っ込みながらも、しかしフミは心の中で軽くガッツポーズを作った。
ソウタの歳はフミの二つ上で、現在高校一年生だ。フミとは幼馴染みであり、今はここから四、五キロ程度離れた公立高校に通っている。
そして、ついでに言ってしまえばフミの片想いの相手である。ソウタが高校に上がってから会う機会がめっきり減ってしまっていた彼女にとって、これは久しぶりの「ソウタと話すチャンス」なのだ。
しかし、とフミは考える。ソウタは一体ここになんの用があるのだろうか。
そして入り口から公園の中を見渡した。
彼女の家はもうここからでも屋根が見える距離にあるが、ソウタの家はまだそこから更に五分ほど歩かねばならない。それにこの場所はソウタの家からは高校のある方角と反対方向だ。わざわざこっちにまで来ている理由が分からなかった。
まあ、それがフミとソウタが疎遠になってしまった一番の原因でもあるのだが。
「あれ? フミやん」
公園の中を眺めていたフミに真横から声が掛かる。
それはソウタだった。滑り台、シーソー、砂場、と遊具のある場所を順に探していたフミにとって見当違いの方向から彼はやってきた。家には一度帰っていたのか私服姿だ。
「ソウタ兄! ひ、久しぶり! こんなとこで何してたん?」
「あ、ああ、そこに……ぬが――ああいや、何もない。気にすんな」
ソウタは言い出した言葉を呑み込んで口ごもると、フミの横を通り過ぎて駐めてあった自分の自転車のスタンドを上げた。
まずい。フミは自身のボキャブラリィをフル回転させる。
素敵な話題。おもしろい話。もうちょっと話を長引かせる何か!
「あ……そういえば、どっか行ってたん?」
「んー?」
「ほら、それ。私服っ!」
しかし、ガラガラと記憶の福引き器を回しても、結局フミが引き当てたのはそんな言葉だった。きっとフミの
「ああ、これな。今日はうちの高校の創立記念日やねん」
「うーらやまし」
そしてソウタは自転車の籠に入っていた薄い冊子を取り出して、フミに見えるようにかざした。
それは映画のパンフレットだ。今テレビのCMでも人気だと謳っていたハリウッドなアクション映画である。
「まあそんで、友達と映画観に行ったそん帰りやねん」
「そうか女や!」「なんでや!」
その素早い切り返しにフミは安堵する。
よしきた、まだ一人もんです。
だがフミは同時に思った。久しぶりに会っても話すことがなにか取り調べのようで、それはそれで楽しくないな、と。
「男ばっかで映画って、なんやさびしいなあ」
そして出来ることなら、自分を誘って欲しかった。
「うっさいわ! そんなん言うんやったら、お前も彼氏の一人でも作って見せろや!」
「ちょっとソウタ兄、なんであたしに彼氏おらん前提で言うねん! ……どうせいーひんけどさ」
「知るか」
ひでえ。
「まあお前も、はよ暗ならん内に家に……つってもすぐそこか。――帰れよ。ほな」
そうして、フミの奮闘虚しくソウタは自転車に乗って帰っていってしまった。
「……久しぶりに会うてんから、もうちょっと話してくれたってええやんか」
その背中が薄暗い通りの向こうに消えていくまで見送った後、フミは呟いた。
二つも年が離れているというのは、不幸だ。自分の気持ちに気付いたときには相手は中学に行っていた。そしてようやく進学出来たかと思えば、あれよあれよという間に一年が経って、また距離が離れてしまった。
それに去年の今頃には、ソウタの受験勉強のせいでもうほとんど会えなくなっていたのだ。自分が図書室にこもりだしたのもこの頃からではなかっただろうか。
だから、ちょっとだけでも話せた今日は幸運だったのだ。
そう結論づけて、フミは家に帰ることにした。
しかし、ふと思い出す。ソウタは一体この公園で何をしていたのだろうか。
ソウタが歩いてきた方には遊具どころかベンチの一つも置いていない。あるのは輪切りの丸太を模した飲み水用の水道だけだ。なら、水を飲んでいたのか? とは言っても自転車なら彼の家まではそう時間は掛からないのに、わざわざ公園に一度立ち寄る必要はないような。
それに、よくよく考えてみればあの言い淀み方もおかしい。
「ん?」
見ると水道器の陰に何かが置かれているようだった。そして近づいていくと、それが一抱えほどの大きさの段ボールであることが分かった。水道に寄りかかるようにしてその蓋の開いた中身を覗き込む。
「わあ、犬や」
箱の中には重ねられた新聞紙が敷かれ、その上で灰色の子犬がうずくまっている。
「生きて……る?」
フミのその声に反応するように、子犬は小さな三角形の耳をピクピクと動かした。
捨て犬だろうか。それにしてもやけに汚れている。そして、鼻に刺激するケモノ臭。
ふと視線を横に移すと箱の中にはもう一つ、トールサイズの青い紙カップに入ったポップコーンが置かれていた。それで、フミは大方のことを理解した。
「ソウタ兄のやね」
このデザインのカップは茅地町の隣、
ソウタはフミ以上の犬好きだった。ソウタの家はアパートだからペットは飼えなかった。だからフミの家の愛犬ルーが生きていた頃は、遊びに来る度に散歩に行ったりと可愛がっていた。
そこまで考えて、フミはソウタが変わってないな、と思った。
その場でかがみ込むと、そっと子犬の頭を撫でてみる。それに気付いた子犬は頭を持ち上げると、彼女の手の臭いを嗅いで舐め始めた。
「……お前は素直やね」
撫でる手は子犬の首元に移動する。子犬は口元から首、腹にかけては毛色が白くなっているようだったが、所々に茶色い汚れがこびりついていて、体毛もベタベタと固まっている。そしてそのせいか撫でる感触はゴワゴワしていてあまり気持ちのいいものではない。しかし子犬の方はそうでもないらしい。フミの手の位置に自分の掻いてもらいたいところを向けるように動き、気持ちよさそうに尻尾を振っている。
ポップコーンは一見したところ塩を振っただけのプレーンなやつだった。フミは試しに数個摘まみ取って手のひらに載せ、それを食べさせようとしてみたが、子犬は匂いを嗅いだだけで食べようとはしない。とは言え、ポップコーンの量も半分ぐらいに減っているので、子犬ももう十分に食べている可能性もある。なぜなら、子犬が食べていなければソウタのポップコーンがこんなにも減っているはずがないからだ。
ソウタはポップコーンが嫌いだ。口の中に殻が残る感触に馴染めないと言っていた。それでも買ってしまったのは、友だち付き合いかそれとも。
なのでソウタにすれば、これは子犬にエサをやったのか、それとも苦手なものを押しつけたのか微妙なところである。拾うことは出来ないため、餌だけやって帰ったのだろうか。
「あたしにもキミのこと相談してくれたって良いやんか、なあ。そう思わへん?」
子犬はフミを見つめたまま首をかしげた。
「まあしゃーないし」
一体何がだというのか、フミは内心自分に突っ込む。
「うん。うちにおいで、コレも何かの縁やし。頑張ったげるわ」
そう言うと、フミは子犬の入った段ボールを両手で抱えた。
子犬は突然のことに驚いたのか、それか宙に浮いた段ボールの居心地が悪いのか、狭い箱の中を右往左往している。そしてより顔の近くに子犬が来たことで、動き回って巻き上がった強い臭いが鼻を突き、フミは思わずむせてしまう。
両親を説得するにしろ、まずはこの汚れをどうにかしなきゃいけない。
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