dead.17 Bitch of the Dead

 矢野は、固く瞑った目をゆっくりと開けた。

 死を覚悟し、恐怖から目を閉じたが、一向にゾンビが襲いかかってこない。死の瞬間に時間の感覚が狂い、一秒が永遠のように引き伸ばされているのだろうか? そんないかにも文学少女のようなことを考えながら、恐る恐る、目を開けた。

 目の前に立っていたのは、ゾンビではなく、血まみれの佐治だった。

 足元には、五体のゾンビが倒れている。

「……佐治、くん?」

 つぶやきに、全身真っ赤になった佐治が返した。

「矢野さんだけは、俺が守るって……決めたんす……」

 その手には、大型の看板やポップを作るときに使う、業務用断裁機のカッターが握られていた。ダンボールや型紙も簡単に切れる優れ物だ。

 力無く膝を床につき、そのまま佐治は前のめりに倒れた。その体を矢野が抱きかかえ、支える。

「佐治君!」

「ごめんなさい、矢野さん、これ、殺人っすよね……? お客さんにこんなこと……俺、捕まんのかな……」

 ゾンビ化した男の子に噛まれた後、佐治は最後の力を振り絞って立ち上がり、バックルームにあった業務用断裁機のカッターで、ゾンビ化した客の頭を後ろからかち割り、矢野を救ったのだった。

「せ、正当防衛だよ! 相手は、相手はもう人間じゃないんだもん!」

 そう叫びながら矢野は佐治を抱きしめた。

「でも、きっと……誰も、ゾンビなんて信じてくれないっすよ。……漫画じゃないんすから」

 足元のゾンビたちはもう動いていなかった。いくらゾンビでも、頭を割られれば活動できない。

 これは勅使河原も西原も、佐治もそうだったのだが、いくら相手がゾンビだと言っても、ついさっきまで人間だったと思うと、殺す勢いで攻撃することなどできなかった。そもそも普段、本気で人に暴力を振るったことがある人間など、一人もいないのだ。襲われたからと言って、いきなり殺す気で戦えるわけがない。

 しかし矢野が、好きな女性が、目の前で殺されようとしているのを見て、佐治の中でそうした倫理感や迷いが消えた。自分がもう死ぬと分かっていたせいもあるだろう。

 それでも、佐治の罪悪感は消えないだろう。それを分かって、なお泣きじゃくりながら矢野は叫んだ。

「事故なんだから! 全部、悪い夢なんだよ! だから、佐治君は悪くない、悪くない……、だって、だって……ありがとう、私を、助けてくれて、ありがとう」

 それを聞いて、少しだけ佐治は救われたのかもしれない。軽口が口をついた。

「……あー、死亡フラグ、回収しちゃったな」

「え?」

「……なんでもないっす」

 佐治は、そのまま意外と大きい矢野の胸に思いきり顔を埋めたまま永遠の眠りにつきたいと思った。

 けれど、その前に言わなくてはいけないことがあった。

「矢野さん」

「なに?」

「俺、あの男の子に噛まれたんです。だから、きっともうすぐ、ゾンビになっちゃいます。矢野さんを、襲うかもしれない。だから、だから……俺を、殺してください」

「そんな! そんなことできないよ!」

「でも、分かるんす……なんか、妙に体が熱くて、変に、気持ちいいっていうか……なんか、変なんです、熱出てるみたいな、でも、やたらドキドキして、たぶん、俺、人間じゃ、なくなる……」

「馬鹿! 馬鹿! 死ぬな! ゾンビにもなるな!」

「ごめん……無理っぽい……」

「死んだら許さない! ゾンビになっても許さないから!」

「あー……、でも、矢野さんの胸で死ねて……満足、っす。俺、矢野さんのこと――」


 言いかけた佐治の口を、矢野の唇がふさいだ。


「……ばか、知ってたよ」

 矢野がそう言うと、佐治は笑った。

「最高の、冥途の土産……っすね……」

 そのまま、佐治はゆっくりと目を閉じた――、が、矢野はそれを許さなかった。

 閉じかけた目を強引に開かせ、矢野はもう一度佐治にキスをした。今度は、舌もがっつり入った大人のキスだった。佐治の口内をたっぷり舐め回してから唇を離し、矢野は叫んだ。

「体が熱いのは、ゾンビになるからじゃない! 死ぬからなんかじゃない! それは恋だよ! 性欲だよ! 愛だよ! 冥途の土産と言うなら、死にたく無くなるようなことしてやる!」

 矢野はそのまま、佐治の体に覆いかぶさり、首から順に愛撫を始めた。

「ええええ!? ちょっ……矢野さん!? 俺、死ぬんすよ!? ゾンビになるんですよ!?」

「知らない知らない知らない! 童貞のまま死ぬなんて人生損してるって教えてやる!」

「どどど、どうていちゃうわ!」

「嘘つけ!」

 言いながら矢野は素早く佐治のシャツのボタンを上から三つ外し、乳首を舐め、同時に左手でズボンの上から男性器をソフトタッチした。ソフトタッチしながらジッパーを下げることなど、矢野とっては朝飯前、いや、フェラチオ前だった。

「うはぁっん! ……ご、ごめんなさい! 童貞です!」

「分かれば良ひ! ……ぺろっ、ひにはふなふなるよふな、ひょーひもちいいころ、しれあげる、から、ね」

 あんなところやこんなところを口に含みながら、矢野は言った。


「あ……ああ……ああ」


「ああああ、おう、おう、あ、あああ、らめっ」


「ああ、あ、あああ、あああ、死んじゃうううううううううう!!!!!!」


 佐治の断末魔がバックルームに響いた。


 ※※※


 さて、吊り橋効果というものをご存知だろうか。「吊り橋を一緒に渡る」などの危険を二人で乗り越えた者同士が、生命の危機のドキドキを恋のときめきと錯覚し互いに恋に落ちるという、よく知られた心理現象である。

 また、同様の心理現象の極端な例として、生命の危機に追い詰められた者は、種の保存の本能から、性行為に及ぶというものもある。

 瀕死の佐治に対する矢野の行為を、吊り橋効果と断じるのは簡単だろう。だが、それだけでは説明が不足している。そこには、矢野という女性の生来の特質も大きく関わっていることをお伝えせねばならない。

 随分前に述べたように、矢野は、大学二年生で、眼鏡におさげという典型的な文系女子のルックス。しかし、小顔で整った目鼻立ちをしているせいか、野暮ったくはない。目立たないが、実はクラスの地味系男子から絶大な支持を受けていそうなタイプである。

 そして、バイト先では本性を隠していたが、実に性に奔放であり、すでに大学ではサークルを五つほど崩壊させている。


 ――矢野は、世に言う清楚系ビッチだったのである。

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