dead.16 絶望
はやく。できるだけ、はやく。
はしらなきゃ。
それだけを思って横谷は、地獄絵図と化した店内を逃げ回っていた。
横谷の後ろを付いて走っているのは、バックルームで生き残った二人の女子高生。彼女たちは目に涙を浮かべ、息を切らせて、必死で走っている。
そして彼女たち三人を、ゾンビたちが追いかけてくる。追い詰めてくる。動き自体は遅い癖に、不意に予備動作無しで飛びかかってくる上、とにかく数が多い。近付いてくる一体をかわしても、また別の書棚の陰から、ゆらりと別の一体が襲いかかってくる。
彼女たち三人がバックルームを飛び出して、まだ一、二分しか経っていない。しかし、その間に襲ってきたゾンビの数は、すでに数えられない。勅使河原や佐治たちのように戦う気は、彼女たちには毛頭なかった。ただただ悲鳴を上げて、逃げ惑うだけ。出口を目指して走っているが、ゾンビの攻撃を避ける内に、どんどん出口とは違う方向に追い詰められていく。いつやられてもおかしくない。
それでも。
なにもかんがえず、はしる。ただただ、はしって、はしって、にげる。はしる。にげる。でぐちまで。
横谷はそれだけを思う。壊れたように、それだけを。
後ろを付いてくる二人の女子高生を気遣う余裕も、残してきた佐治と矢野を思う余裕も無かった。
泣き叫ぶ女子高生二人と対照的に、横谷にはもう表情というものが無かった。
※※※
バックルームでゾンビ化した男の子に佐治が噛まれて倒れた時、真っ先に判断を下し、行動したのは矢野だった。
「佐治君!!」
叫んだ矢野は、崩れ落ちる佐治と、彼に噛み付いたまま血を啜る少年の奥に、さらにおぞましいものを見た。少年の母親をはじめとした、すでに噛み付かれていた客たちが、「ううばるぅぅぅぅ」と奇怪な音を漏らしながら、ゾンビ化を始めていたのだ。
――このままバックルームにいたら、みんな殺される。
直感した矢野は、手にしていた聖水入りの便所掃除用霧吹きを横谷に押し付け、バックルームの扉を開けた。そして、呆然としている横谷を叱るように叫んだ。
「逃げて! お客さん二人を連れてすぐに! もう全速力で出口まで行くしかない!」
「えっ」
「走るの!!」
もう一度叫ぶと、横谷と女子高生二人を強引に外へ押し出し、今度は中からドアを閉めた。
「え? えっ!? 矢野さん!?」
ようやく状況を飲み込んだ横谷は、閉じられたバックルームのドアを開けようとノブを回したが、すでに鍵がかけられていた。
「矢野さん! 一緒に逃げないの!?」
泣き出しそうな横谷の声に対して、ドアの向こうから、すでに何かを悟ったように落ち着いた矢野の声が返ってきた。
「ここのゾンビが外に出ないように、私が時間を稼ぎます。私のことを思うなら、今すぐ出口まで走って、生き残ってください」
――そんな……! 横谷が言葉を失った瞬間、背後で声がした。
「きゃああああああああああ!!!!!!」
横谷たちに気が付いた外のゾンビが近付いてきたのだ。女子高生二人は、叫びながら横谷に縋りついてきた。
横谷も振り向いた。
しかし、体は震え、自分には逃げることも戦うこともできない気がした。
無理だ。無理だよ。殺されちゃうよ。勅使河原さんは? 西原さんは? 佐治くんは? 矢野さんまで? みんな、みんな、助けて、お願い。こんなの、怖い夢だ、いやだ、助けて。
その時、横谷は気が付いた。
目の前の、自分たちに襲いかかろうとしているゾンビ。それは、
「…………大野、さん……」
――私を、かばってくれた、助けてくれた、厳しかったけど、だいすきな、せんぱい。
大野は、長かった髪をぐしゃぐしゃにして、血まみれのエプロンで、口を限界まで開ききって、獣のような血走った瞳で、どろどろと血と唾液を垂らしながら、横谷にゆっくりと迫ってきた。
彼女は横谷のことなど、もう分からないようだった。
それはもう、大野では無かった。
時間が止まったような気がした。
自分でも気が付かなかったが、横谷は笑っていた。それはとても美しく、悲しい笑顔だった。
その笑顔とともに、何かが決定的に彼女の中で砕け散った。
時間にすれば、一秒にも満たなかっただろう。横谷は笑ったあと、持っていた聖水を霧吹きごとすべて、ゾンビ化した大野に迷い無く投げつけ、その隙に女子高生二人の手をとると、出口を目指して走り出した。
「あばっぁあぁああああぁぁぁあああ」
走る背中に、大野だったものの断末魔が聞こえたが、横谷は振り返らなかった。
それから彼女は、もう出口へ走ること以外の思考を失くした。
※※※
横谷たちが走っていく足音を、矢野は背中のドア越しに聞いた。
そう、それでいい。それで良いんだよ、横谷さん。せめて、あなたとあの二人のお客さんだけは生き残って。外に助けを呼んで。
矢野が横谷たちを助けたのは、自己犠牲の精神では無かった。責任感でも無かった。
自分だって、当たり前に怖い。死にたくない。今すぐ逃げ出したい。だけど。
「だけど――、自分を守ってくれた男の子を、置いていけないよ」
そう矢野は小声でつぶやいた。
矢野は佐治の気持ちを知っていた。とっくに気が付いていた。
だって、いつも私とシフトを合わせてくるし、話しかけてくるわりに、目をなかなか合わせてくれないし、西原さんたちにもからかわれていたし、何よりあの時、女性用トイレで必死に守ってくれたし。
私みたいな女、好きになったって仕方ないのに。
だから、矢野は逃げることができなかった。顔を上げると、その佐治はすでに床に倒れ、ゾンビ化した少年に無惨に血を啜られている。
仇を取るなんてことも、一緒に死んであげることも、きっとできない。どうしたらいいかなんて分からない。だけど、私は佐治君を置いていくことはできない。
ゾンビ化した男の子が佐治から口を離し、立ち上がった。他のゾンビ化した客たちも、ゆっくりとこちらに這い寄ってくる。全部で五体のゾンビ全員が、矢野を標的に定めた。
矢野は大きく息を吸い、叫んだ。
「っ……来なさいよ! 死ぬまで逃げ回ってやる! こんな、こんな馬鹿みたいなこと、終わりにしてやるんだから!!」
矢野は、返品台車に山と積まれていた本を、手当たり次第にゾンビたちに投げ付けた。文庫、ハードカバー、雑誌、料理書、専門書、辞書、絵本、参考書、詩集、漫画、なんでもかんでも、無茶苦茶に投げ付けた。
いくつかの本がゾンビに当たり、そのたび動く屍は耳障りな呻き声を上げる。投げる本には事欠かない。だってここは本屋で、大型書店で、その在庫や返品がダンボールいっぱいに押し込まれているバックルームだ。
「あああああああ!!!」
無我夢中で叫びながら、矢野は本を投げ続けた。
それでも、じわりじわりとゾンビたちは近付いてきた。
その距離は、縮まってきた。
気が付くと、もう目の前までゾンビたちは迫っていた。取り囲まれた、と思った瞬間、矢野の手が止まった。
あ、私、死ぬんだ。
矢野の体は硬直した。手に取りかけていた本は掌から滑り落ちた。
本が床にばさり、と落ちる音を合図に、五体のゾンビは示し合わせたかのように矢野に飛びかかった。
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