dead.15 God only knows.
親子連れの子どもの方は、すでにゾンビに噛まれ感染していたのだ。
そのことに気付いた佐治が最初に思ったのは、「聖水は? やっぱりあんなの効果が無かったのか?」ということだった。それとも効果が薄かったとか? 時間切れとか?
「ねえ、何が起きてるの!? ウイルスみたいなやつで、あの子もおかしくなってんの!?」
女子高生は、半狂乱で佐治に詰め寄った。
男の子は、ぐったりと動かなくなった自分の母親から離れると、ゆっくりと佐治たちの方を向いた。
「うぎゅうぅぅぅぅぅぅぅるううううううう」
子どもの声とは思えない、濁った低い唸り声を上げ、ゆっくりと立ち上がる。その目は完全に白目を剥いており、舌はだらしなく顎のあたりまで伸びきっている。ゾンビ化した人間の顔だ。
――戦うしかないのか? 勝てるのか? 矢野さんたちを守れるのか? さっきまで普通の子どもだったのに? 聖水は効かないのか?
時間にしてわずか二、三秒だが、思考が溢れ佐治は逡巡してしまった。
その間に、ゾンビ化した男の子は、佐治と二人の女子高生、そしてその奥にいる矢野と横谷に向かって一直線に進んできた。ゾンビでなければ、幼子が遊んでくれる大人を見つけて、はしゃいで走り寄ってきたように見えただろう。
佐治は一瞬生じた迷いを振り払い、女子高生と体を入れ替え、彼女たちの盾になるような位置に立った。
「矢野さん! 横谷さん! このお客さんたちをお願いします!」
叫びながら、護身用に持っていた掃除モップでゾンビ化した男の子を狙ったが、的が小さいせいか、それとも相手が子どもだから迷いが生じたのか、モップは空を切った。ゾンビ化した男の子は、まるで遊戯を楽しむようにモップをくぐり抜け、そのまま佐治の脇腹に抱き付いて歯を立てた。
「ああっ……!」
短い吐息のような呻きを上げ、そのまま佐治の体は崩れ落ちた。
※※※
ゴンゴン! ゴンゴン!
トイレのコンパートメントの扉を叩く音は、一層激しくなっていた。
その音に苛立ちながら、店長の関は便座に座り込んでいた。
さきほどトイレのドアを強くノックされ、外で客が厄介事を起こしているのかもしれないと思いドアを開けたのだが、開けたところに髪を振り乱した女性客がいたため、驚いて思わずもう一度閉めてしまったのだ。
しかし、その後もしつこくノックは続いている。関は、イライラしながら扉の外に向かって叫んだ。
「だから! ここは男子トイレなんですよ! 何があったか知りませんが、隣の女性用トイレを使ってくださいませんかー!?」
驚いて閉めた後にすぐ、ドア越しに男性用と女性用を間違えていることを伝え、何かトラブルでもあったのかと聞いてみたのだが、ノックばかりでまともな返事はなかった。他には時々、「あばー」とか「ぐるー」とか、不気味な声を立てるだけなのだ。
よほど大変な状態なのだろうか。実は妊婦さんで、今にも赤子が産まれそうとか。そんなことも考えたが、だとしてももう少し状況説明はできるだろう。気味が悪いので相手をしたくないな、と思っている内に、再び関の肛門から今にもウン子が産まれそうな気配がしてきたので、排便に戻ったのだった。
下腹に力を入れていきんでいる間、今度は店の方から何度か大きな衝撃音や叫び声らしきものが響いてきていた。
やけに今日は騒がしいな。ケンカか万引き騒ぎでも起きているのだろうか?
もちろん店舗責任者である店長としては、早く駆け付けないといけないのだが、ここまで来れば完全に出しきってからにしたい。
まあそれに、勅使河原や石尾がいるから大丈夫だろう。アルバイトも、今日はベテランの西原や大野、学生ながらしっかり者の矢野や佐治というメンバーだから、多少クレームやトラブルがあったところで、このメンバーなら何とかしてくれるのではないだろうか。唯一、ぼんやりしている文庫の横谷だけが心配だが、大野が付いていれば問題なかろう。他に何人かレジ担当のアルバイトも出勤しているが、それも慣れたメンツばかりだ。
うん、きっと大丈夫。スタッフのことを信頼するのも、良い店長の証だ。
みんなを信じて心静かに排便を行おう。多少時間がかかっても、こうして自分の健康状態を良好なものに整えてから、売場と言う戦場に戻った方が良いはずだ。急がば回れ、短気は損気。長い人生そんなに急いでどこへ行く。
しかし。
ゴンゴンゴンゴン!!!!
「ああ、ほんっとにもう! ゴンゴンゴンゴンうるせえな!」
心静かに排便を行おうと思っても、すぐにこうして邪魔されるのだ。
たまりかねて、関はたまっていたストレスを一気に解放してまくし立てた。
「あなたも大変かもしれないけど、こっちだって大変なんだよ! 毎日のストレスでここ三ヶ月ずっと下痢っ腹なんだ! スタッフたちには疎まれるし、営業部にはイヤミ言われるし! 嫁は冷たいし! 給料は少ないし! トイレぐらいゆっくりさせてくれ!!!!!」
しかし、これが功を奏した。
ストレスを解放したと同時に、下腹のあたりのしこりがすとんと落ち、その後すぐに、驚くほどすっきりと便が出たのだった。
※※※※
ジャゴーーーーー
便を流し、トランクスとスラックスを上げ、関は穏やかな表情でトイレのカギに指をかけた。
「ふーっ。今出ますんで、少々お待ちくださいね」
これで、扉の外の不審な女にも優しく丁寧に接することができそうだ。やはり体調が悪いと心の余裕までなくなってしまうな、いかんいかん。
はたして扉を開けると、そこには髪を振り乱した女がいた。しかも、さきほどは気が付かなかったが、口元からは血も流しているではないか。
関は知る由もないが、彼女は最初にゾンビパウダーに感染した客・榊原真理亜、いや、元・榊原真理亜であった。
「これはお客様! 大変な状態のままお待たせしてしまって失礼いたしました、まさか怪我をされていたとは……。どれどれ、失礼して、お怪我の様子をみさせていただきますね」
関は介抱しようと女の顔に自分の手を近付けた。
元・榊原真理亜はその瞬間を逃さず、締め付けるように関の体にしがみついた。そしてそのまま、食い破るような勢いで関の顔面に向かってかぶりついた!
だが、動きはすんでの所で関の両手によって止められた。
「お客様! どうなさいました、そんなに興奮なされて!」
頬を両側から挟み込む形で、関は元・榊原真理亜の顔を押さえつけた。しかし真理亜は、それを押し返そうと唇を尖らせ、顔を近付けてくる。
「お、お客様!?」
関は、勘違いした。
「い、いけません! 怪我をされて心細く、男の優しさを求められているのかもしれませんが、私は勤務中でございます! そうでなくても妻のある身、お客様のご期待に応えるわけにはいきません! それにだいたいまだ手も拭いていない! 不衛生だ!」
元・榊原真理亜には、関の言葉など聞こえていないのだろう。押し返しながら血で赤く染まった舌を伸ばし、呻き声を上げた。
「ズズズ、ズルルゥゥゥゥブゥーーーーー!」
うわ、キモい! 女に迫られてこんなに嬉しくないのは生まれて初めてだ!
「おやめください、お客様!」
「プルップゥゥゥワァァァ!!!!」
真理亜が奇声を発するたび、血が混じった粘り気ある唾が、関の顔にかかる。
「汚い! おやめ、くだ……さい!」
「ぶうううううぅぅぅ!!!!!!!!」
「やめ……、やめろっつってんだろ! このブスが!!」
キレた関は、元・榊原真理亜の頭をトイレの壁に勢いよく、何の容赦もなく叩きつけた。
そして、その拍子に上の棚に置いてあったトイレ用洗剤が落ちてきて、元・榊原真理亜の体に一瓶分、まるまる降り注いだ。
その瞬間である。
「ぐぎゃああああああああああああああああ!!!!!!!」
元・榊原真理亜は悶絶し、しばらく手足をジタバタと動かし、しばらくしてぴくりとも動かなくなった。
「…………お客様? ……やべ、強くぶつけすぎたか?」
関は恐る恐る、動かなくなった彼女を指でつついた。関はしゃがみこみ、しばらくあごに手を当てて考えた末、立ち上がった。
「トイレから出たら、お客様が頭を壁にぶつけて血を流していた……、どうやらあまりの尿意に急いで走ってきたらしく、男性用と女性用を間違えた上、落ちていた洗剤に足を滑らせたらしい……。よし、このセンでいこう」
幸い、トイレには防犯カメラは付いていない。手に付いた血をきれいに水で洗い流し、鏡を見ながら「おい、みんな、大変だ! トイレでお客様が倒れてる!」と、驚いた演技の練習も済ませ、関は店内に戻ることにした。
※※※
賢明なる読者諸兄はすでにお気付きだろうが、付録の「聖水」にゾンビを撃退する効果などなかった。その効果を持っていたのは、トイレ用洗剤だったのである。
西原や勅使河原が使った「聖水」にいくばくかの効果があったのは、それをトイレ清掃用の霧吹きに入れて使っていたからに他ならない。
聖水を周りにまいたはずのバックルームに、子どもゾンビが紛れ込んでいたのも、バックルームの壁や床に散布した聖水は、もうかなりトイレ用洗剤の割合が少なくなっていたからなのである。
そのことにもしも勅使河原たちが気が付いていれば、結果は違っていただろうか?
――God only knows.(それは、神にしかわからない)
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