dead.10 血染めの便所
結局、薄毛の男が泣きだしてしまったので、勅使河原は警察を呼ぶことはやめ、厳重注意した上で店から追い出した。その間に、西原、矢野、佐治の三人で散らばった粉を片付け、今回の騒動はやっと終わるはずだった。
「ふう、思ったよりも、商品にゾンビなんとか? が、かかってなくて良かったわね」
ちりとりと箒を手に、西原が言った。
「ゾンビパウダーっすよ、西原さん。被害に遭ったお客様も、さっきの女の人だけだったみたいっすね」
佐治がそう返すと、その隣にいた矢野がぽん、と手を合わせて言った。
「あ、掃除もできましたし、さっきのお客様の様子を見てきますね」
榊原真理亜が女性用トイレへ走っていった際、矢野はすぐに追いかけようとしたのだが、西原が「ずいぶん慌てていたし、すっごく恥ずかしかったんじゃないかしら。ちょっと間を置いてからの方が良いかもしれないわよ」と、忠告したのだ。この忠告がなければ、最初の被害者は矢野になっていただろう。
しかし、自分の何気ない一言が矢野の命を救ったなど夢にも思っていない西原は、
「そうね。矢野さん、お願いできる? お客様、ゾンビになってたら大変だから」
と冗談混じりに笑った。
「あは、そうですね。いってきます」
何も知らない矢野もそう言って笑い、女性用トイレへ向かった。
書棚を曲がって矢野の姿が見えなくなったところで、わざとらしく頭をかきながら佐治がつぶやいた。
「あー……、自分も、お客様の様子見てくるっすわー。あの、あれです、けっこう血出てたみたいだし、男手いるかもしんないっすから」
西原に視線を合わせないようにして早口でそこまで言うと、佐治は足早に矢野を追いかけた。
佐治が矢野に惚れていることは、店中のスタッフが気付いている。バレていないと思っているのは佐治本人だけだ。西原は何かと矢野の気を引こうとする佐治の姿を、思春期の息子を見守るようにいつも微笑ましく眺めていた。だから今も、西原はくすりと笑い、「はいはい。いってらっしゃい」と見送った。
このわずか数十秒後、その淡い恋が血に彩られるだなんて、夢にも思わずに。
※※※
え。
女性用トイレで矢野が目にしたのは、すでにヒトでなくなっていた榊原真理亜が、かぶりついていた別の客の体をべしゃり、とトイレの床に投げ捨てた姿だった。
「お、きゃく……さま……?」
顔中を血で赤く染め、かきむしったように髪の毛は乱れ、濁った白目を剥き、しゅーっしゅーっと息とも声ともつかない異音を立てうごめく榊原真理亜を、矢野はそれでもまだ人間だと思っていた。それは、すでに生き物ですらなかったのに。
血にまみれた真理亜の口が、大きく開いた。
「あ、ばあああああいやあああああああ!!!!!」
榊原真理亜だったモノは、奇怪な咆哮を上げ、何の躊躇もなく矢野に飛びかかった。
何が起きているかも理解できないまま、矢野が噛み付かれそうになったその間際。
「矢野さん、危ない!」
女性用トイレに駆け込んだ佐治が、すんでのところで二人の間に飛び込み、便所掃除用のモップで元・榊原真理亜を一突きした!
「げへぇっ!」
「矢野さん、大丈夫!?」
佐治は顔だけを矢野の方に向け、続けて言った。
「てか、何これ!? どうなってんの、この人!」
「わ、わかんない」
矢野は震えてそう答えるのが精一杯だった。
「ぐじゅううううううう、ぶううううう」
元・榊原真理亜は唸りながら立ち上がった。倒れた体勢から手を使って体を支えることもなく、腰から下だけがグン、と宙に向かって伸び、伸ばした反動で、跳ね上がるように立ち上がる。その動きは、明らかに人間のものではなかった。
「え、なにこれなにこれ、ヤバいんじゃないすか、コレ」
半笑いで言う佐治も、口元が震えている。常軌を逸した状況に、思考が追い付かないのだろう。
「あぎっ、あぎっ、ひきぃ、……ぃぃいやばあああああああああああああああ!!!!」
呻きながら、何度か痙攣するように口を開閉した後、震える二人をめがけて、再び元・榊原真理亜は襲いかかってきた。
「うわああ! こっちくんなっ!」
佐治は力の限り、便所掃除用モップで押し返した。
「ぐうううううううう」
しかし、元・榊原真理亜も今度は倒れることなく、便所掃除用モップを両手でつかみ、佐治に圧力をかけてくる。
「ああああ! ちっくしょう! なんだこれえっ!!」
自分を鼓舞するように、佐治は叫びながら力を込める。だが、相手は貧弱な体躯の女性とは思えない力をしており、すでに便所掃除用モップはミシミシと軋み始めている。次第に力の差は明確になり、押し込まれながら佐治は冷や汗を浮かべた。
力比べに分が無いと悟った佐治は、バランスを崩そうと、相手の膝に向かって蹴りを放った。その狙いは効を奏し、ガクン、と元・榊原真理亜は体勢を傾けた。その隙に、折れかかった便所掃除用モップをもう一度押し付け、あらん限りの力で壁際まで、汚れを拭き取るようにして追いやる。元・榊原真理亜が滑った床は、レッドカーペットのように血で赤く染まった。
佐治はその血をよけるようにして、急いで入口まで戻り、矢野に声をかけた。
「矢野さん、逃げるよ!」
「で、でも」
「とにかく! 逃げて勅使河原さんたちに報告しなきゃ! 何が起きてるか分かんないけど、これヤバいっしょ!」
「でも、……あれ」
矢野は震えながら、壁際の元・榊原真理亜を指差した。
元・榊原真理亜は、佐治に蹴られた左脚が関節と逆方向に曲がっているにも関わらず、それを気に留める様子もなく、引きずりながら「あばー、あばー」と奇怪な声を発して、フラフラと歩き出そうとしていた。その姿は、糸がもつれて関節がどれも別々の方向へと向いた哀れなマリオネットのようだった。
「な、なんで、あれで歩けるの?」
矢野の言葉に、佐治も凍り付き、元・榊原真理亜を凝視した。
「もしかしてさ、これって……ホントに……」
掠れた、今にも泣き出しそうな声で、矢野は言った。
「ゾ ン ビ ?」
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