dead.03 在庫処分

 絶叫した横谷の周りには、人影が集まってきていた。

 男が大野を床に組み伏せ、激しく物音がした時点で、何人かの従業員や客が振り返り、近付いてきていたのだが、横谷は目の前の凄惨さに放心し、それに気が付いていなかった。

 気を失ってこそいなかったものの、恐怖で完全に体が言うことを聞かず、横谷はしゃがみこんだまま震えることしか出来なかった。見たくないのに目をそらすことも出来ず、動かなくなった大野に覆いかぶさって一心に血を啜り続ける男を凝視していた。

 その横谷の腕を誰かが掴んで、ぐい、と引っ張り上げた。そのまま横谷の顔は引き上げてきた誰かの胸元に当たり、そこに従業員の印であるネームプレートが見えた。

 『人文書担当 石尾』という文字を認め、彼女はようやく気を持ち直し、涙で滲んだ瞳を上に向けた。そこにはいつも柔和な石尾が、顔面を蒼白にして立っていた。彼も、異常な事態を目の前にして表情が固まっているのだろうか。

「助けてっ……、大野さんが、大野さんがぁ……」

 横谷は震える声を絞り出した。

「どうしよう、ねえ、石尾さん、どうしたら」

 一度口を開くと、堰を切ったように涙と一緒に言葉が溢れてきた。そのまま石尾に縋り付いて彼のエプロンを涙で濡らす。

 その時、横谷は、石尾のエプロンがぐっしょりと濡れていることに気が付いた。

 冷たい。濃紺のはずのエプロンは、何か別の色が混ざってドス黒く変色している。はっとして、横谷はもう一度石尾の顔を見上げた。

 どうして、気が付かなかったのだろう。石尾の目は焦点が合っておらず、首元からは、エプロンへと血が流れた跡があった。カッターシャツもエプロンも、血で赤く染まっているのに、石尾は顔だけを真っ青にして、強い力で横谷を抱きとめていた。

「ひぃ……やっ!」

 すぐさま、横谷は石尾の手を離れようと腕の中でもがいたが、石尾の腕は硬直しているのかと感じるほど強い力が込められており、脱出させてくれない。

 石尾の口がゆっくりと開いた。口腔内は赤黒くなっていて、唾液と血液が混ざったものが、口の端から滴り落ちている。顎が外れたかと思うほどに大きく口は開き、タガを外したようにだらしなく開ききっても、なお彼の目は焦点が合っていないままで、垂れ落ちる唾液と血液はどぼどぼと滝のようだった。下顎が今にも腐り落ちてしまいそうな石尾の姿に、横谷は「尾瀬の谷でシカなう」に出てくる腐りかけの巨神兵を思い出した。人生の最期の瞬間に思い出すのが、アニメのことだなんて。そう思った後に横谷の心に残されたのは、醜悪さへの嫌悪と恐怖だけだった。

 そして、焦点の外れていた石尾の目がぐるりと回って標的を定め、同時にただれ落ちそうだった顎が跳ね上がり、彼女の喉笛に襲いかかった。

「ぐばああああ!!!!」

 しかし、獣のような奇声を上げた石尾の口蓋がとらえたのは、横谷の首では無かった。

 横谷の細い喉に届く寸前、極厚の六法全書が、勢いよく石尾の口に押し込まれたのだ!

「ぐべえ!」

 うめきながら石尾が後ろに倒れ、その隙に横谷はその腕から投げ出された。床に落ちそうになった彼女を、石尾の口に六法全書を押し込んだ影が支えた。

「大丈夫? 横谷さん」

 優しく、そして力強い笑顔を見せたのは、横谷にもレジを指導してくれたベテラン主婦パート・西原だった。ラテン系中年女性もかくやという豊満な肉体で、いつもレジでは一人で二人分のスペースを占有している。しかし、誰にでも分け隔てなく接する太陽のように明るい女性で、男女や社員・アルバイトの別を問わず、スタッフ全員からビッグママとして愛されている女性だ。

「西原さん!」

「もう大丈夫よ、とにかく早く逃げましょう。立てる?」

 そう言うと西原は横谷を起き上がらせた。

「無理なら言うのよ、おぶってでも逃げるから」

 よろめきつつ、西原に支えられながら横谷は答えた。

「……大丈夫、です。歩けると思います。でも」

 そう言って、横谷は床で六法全書を咥えたままうめいている石尾をちらりと見た。それに応えて、西原は首を横に振った。

「残念だけど、石尾さんはもう駄目だわ。退治してしまうしかないわね。彼自身のためにも」

「退治って、そんな……一体何が起こってるんですか!?」

「横谷さん、今はとにかく安全な所に逃げるのが先決よ」

「でも、石尾さんも、そ、それに大野さんだって……」

 自分で言ってから横谷は気が付き、真っ赤な血の海に沈んだ大野の方を見た。いや、見てしまったと言うべきか。目にした瞬間、横谷はあまりに大量の血におぞましさを覚え、口元を押さえて、再び西原に寄り掛かった。

 その時、大野の血を吸い尽くした男がゆらりと立ち上がり、こちらに焦点の合わない目を向けてきた。横谷は、再び自分の膝から力が抜けていくのが分かった。

「に、にに、西原さぁん」

 横谷は震えながら西原のエプロンを掴んだ。西原はまるで実の娘にするように、優しく横谷を抱きしめた。

「大丈夫よ、一人じゃないから」

「で、ででで、でも」

 一人じゃない、と言われても、横谷の恐怖は拭えなかった。そんな彼女を見て、西原はさらにぎゅっと強く横谷を抱きしめ、そして不敵とも思える笑みを浮かべた。

「横谷さん、一人じゃないっていうのは――、私だって、一人で助けに来るほど向こう見ずじゃないって意味よ」

 西原がそう言った刹那、血だまりから起き上がった男の顔面に向かって分厚い書籍が飛来し、石尾の時と同様、見事に開いた口蓋にジャストミートし、打ち倒した。

 驚いた横谷が振り返ると、そこには細い眼鏡をかけた神経質そうな男が立っていた。

「『旧年度版 民事・刑法』――。返品し損ねて、どうしたものかと思っていたが、やれやれ、こんな形で在庫処分することになるとは思ってもいなかったぜ」

 男の胸には、『社会科学書担当 勅使河原』と書いたネームプレートが輝いていた。

「ね、一人じゃないって言ったでしょう?」

 西原は再び、力強く横谷に微笑んだ。

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