dead.02 血に濡れた本棚

「ぎゃっ」

 石尾の短い悲鳴は、分厚い人文書棚に阻まれ、誰の助けも呼ぶことはなかった。

 首筋に噛み付いた男はさらに深く歯を食い込ませ、流れ出した血が石尾の白いシャツと群青色のエプロンを濡らした。血の赤が染みこみ、エプロンは群青から黒へと色を変えていった。

 数秒の間、石尾は自分の身に何が起こっているのか、全く把握出来なかった。突然白昼夢に放り出されたような心持ちだった。しかしそのうちに、指先からゆっくりと痺れていくような感覚とともに、だんだんと意識が戻ってきた。

 まず、首の鈍い痛みに思い至り、次に自分の呼吸が荒くなっていることに気が付いた。そして、自分の肩に男の生温く激しい鼻息がかかっていることに気が付き、体中から一斉に嫌な汗が吹き出、同時に体が震え出した。

 だらん、と下がった腕から左手の指先へと、何か水が滴ってきているが、手汗と混じり合ったぬるぬるしたその液体は、どうやら自分の血ではないか。

 確かめたいが、左手に力は入らず、指先がぶるぶる震えるだけだった。怖くなって、自分の眼に涙が浮かんできたのが分かるが、やはり動けないし声も出せない。男を突き飛ばしてしまいたいが、体が全然動かない。

 石尾に噛み付いた男は、まだ首元から離れず、ちゅっ、ぢゅっ、ぶぅーっ、と音を立てながら血をすすり、十分にすすると、ごくっ、ごくっ、と飲み下している。


 血を吸われている! 私の血を飲んでいる!


 理解した瞬間、石尾の体から完全に力が抜けた。膝から落ちそうになった石尾の体を、男はすかさず後ろの書棚に押し付け、さらに血を吸い続けた。背が高く細身の石尾に中肉中背の男がかぶりついている姿は、痩せた老木にずんぐりとした巨大な黒い甲虫がとりついて樹液をすすっているようだ。

 全身の力が抜けたまま血を吸われていると、視界が端の方から泡のように白くなっていくのが、石尾には分かった。

 何だこれは? 夢か? それにしては、趣味が悪いな。ああ、このまま自分は気を失うのか。これは貧血のときと同じだな。そう思うと何故か石尾は安堵を覚えた。気を失えば、この悪夢から覚めるだろうと思ったのだ。

 安堵感はやがてゆるい快感を伴い、石尾は最期に妻・香菜子の肌を思い出し、その幻を愛撫した。

 噛み付いた男は、足元に散らばる血に濡れた平丹社車洋文庫を意にも介さず、石尾の血を啜り続けていた。


 ※※※


 横谷は体に強い衝撃を覚えた。

 突然の痛みと視界の暗転の後、目を開けると、そこにはどんな厳しい指導の時よりも険しい表情をした大野の顔があった。

 違う、険しいのではない、大野さんは痛みを堪えているのだ。

そう理解した瞬間、横谷は今自分を襲った衝撃が何だったかに思い至った。

 大野が、自分を突き飛ばしたのだ。

 その大野は、大柄な男に組み伏せられ、首筋を噛み付かれ、血を流している。そして痛みを堪えながら横谷を睨みつけ、搾り出すようにうめいた。

「横谷さん、逃げ、なさい……!」

 大野が男に組み伏せられているのは一瞬前まで横谷が立っていた場所だった。大野は横谷の背後に立った男を見て、瞬時に危険を察知し、咄嗟に突き飛ばすことで後輩の身を守ったのだ。

 自分が代わりに襲われるという、代償を払って。

「い……、いやあああ!!!!!」

 しかし、横谷が出来たのは、逃げることではなく、叫ぶことだけだった。

 大野に噛み付いている男は髪が逆立ち、目は赤く血走っている。大野の首元からは止めどなく血が流れ、それをうじゅる、うじゅる、と音を立てて男は啜っていた。啜り切れずに床に零れた血が、小さな水溜りを作っている。

「あ、あ、おお、お、大野さんっ、大野さんっ」

 男のあまりのおぞましさに横谷は震え出し、逃げることも大野を助けることも出来ずにいた。突き飛ばされた姿勢から立とうとしたが、上半身は起き上がったものの、下半身に力が入らない。

「……早く、逃げて、助けを……」

 なおも大野は横谷に声をかけながら、なんとか体をひねって男から離れようと試みていた。大野は、突然の出来事に対しても現実を見据え、意志を持って抵抗をしていた。理不尽な暴力に恐怖を覚えつつも、それを抑え込んでなお、勇気を持って戦っていた。

 犯されるのだろうか? それとも殺されるのだろうか? だが、そんなわけにはいかない。私には、可愛い後輩が出来たんだ、一緒に本の仕事が出来る、可愛い一生懸命な後輩が! やっと! だから、殺されたり汚されたりするわけにいかないんだ!

 しかし、その抵抗はむしろ男を刺激しただけだったらしく、大野の身体はより強く押さえ込まれた。押さえ込まれ、ぐっ、と重みが増したと同時に、大野の首筋に熱が走った。力任せにストーブに押し付けられたように、大野が「熱い!」と思った瞬間、それは激痛に変わり、耳元でぶちゃり、という音が鳴った。音とともに彼女の首は弾け、水風船が爆発したかのように血液をぶちまけた。

 ぴしゃり、と横谷の頬にも血がかかり、それを合図に再び絶叫が響いたが、大野にはもう聞こえていなかった。


 ※※※


 便座に座りながら、店長の関はその音を聞いた。

 何だろう? ファミリー客の連れた幼児が店内で泣き叫ぶことはままあるので、またわがままな子供が喚いているのだろうか?

 それにしても、トイレの個室にまで聞こえるとは相当だ。一体親の躾はどうなっているのか。時々、子供が泣こうが、迷子になろうが、本にべたべた唾液や鼻水をつけようが、平気な顔をして立読みを続ける親がいるが、あれには神経を疑う。「泣いてもママは知りませんよ」という子供へのアピールなのかもしれないが、周りの客や店員の迷惑も考えてほしい。

 関自身は子供好きで、早く自分の子が欲しいと思っているが、妻の方はなかなかそういう気になれないらしく、結婚して五年になるが、まだ子供はいなかった。そのうち、だんだん夜の夫婦生活もおざなりになってきていて、最近では帰宅後、一人でこっそり見ているアダルト動画の履歴が増えるばかりだ。

 ああ、結婚もして、旗艦店の店長にもなったというのに、人生楽になるどころか悩みが増える一方だ。

 溜め息から、そのままの勢いでいきんで下腹に力をこめるが、もう出し尽くしてしまったらしく、水一滴出ない。だのに、腹のしこりは消えず、尻の穴もじんじんと痛む。痔は患っていないのだが、ひどい下痢の時は、出口に過度の負荷がかかるためか、熱を持って痛むのだ。

 この尻の痛みがあるうちは油断できない。ここでもう大丈夫だと思って引き上げると、またすぐにトイレにこもることになってしまう。何度もトイレと事務所の往復をしていては、またアルバイト達にさぼっていると陰口を叩かれてしまう。今この時が勝負の時。ナウ・イズ・ザ・タイム、トゥナイト・ザ・ナイトだ。

 しかし、関が気合いを入れたその時、コンコン、とトイレのドアをノックする音が鳴った。

 店員専用のトイレは無く、客用のトイレを使っているため、本来、長居はできない。店長としてはお客様にトイレを譲り、速やかにノーストレスで排便を済ませてもらい、よく手を洗ったら、再び良い気分で買い物に戻って欲しい。そして、なんならお高いばかりで場所をとる文学全集あたりを大人買いしていただきたい。普段ならそうだ。お客様は神様、店員は奴隷。そして俺は奴隷の代表である店長。トイレは当然お客様に譲るものだ。

 だがしかし、今は勝負の時。事情が違う。

「入ってマース」

 関は出来るだけ冷淡に言った。ちょっと遠いけれど、地下二階のカフェの横にもトイレはあるから、あきらめてそっちに行ってくれ。

 しかし、再び、コンコン、とドアはノックされた。

 おいおい、そんなに切羽詰っているのか? 俺も胃炎持ちとして気持ちは分かるが、こっちだって今戦っているのだ。

 ゴン、ゴン、ゴン。

 ノックの音はだんだん鈍い音に変化してきていた。握りこぶしでドアを叩いているような音だ。

 おいおい、君、そんなに我慢できないのか? もしかして、もう少し出てしまっているのか?

 以前別の店舗で、子供が店内でお漏らししてしまった事件や、酔客が閉店間際に吐瀉物を撒き散らしていった事件があった。もしかしたら、ドアの向こうでももう何らかの事件が始まっているのかもしれない。それはいけない! これ以上余計なトラブルは御免だ!

 そう思った関は、まだ半分ずり下がったスラックスを引っ張り上げながら、急いでドアを開けた。

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