書店・オブ・ザ・デッド

野々花子

dead.01 惨劇の予感

 はじめに異変に気がついたのは人文書を担当する男性社員・石尾だった。

 やけに青白い顔をした男性客が、立読みをしながら書棚にごつん、ごつん、と頭を打ち付けている。客はネイビーカラーのTシャツにクリーム色のチノパンツをはいていたが、どちらもサイズが大きくだぼついて見える。髪は短く刈り込まれ、年は三十代前半といったところだろうか。

 店中に響くような音ではないものの、明らかに周りの客が避けて通っているし、本を傷められてはたまったものではない。こういう手合いの不審客というのは本屋にはつきもので、特に人文書のコーナーは奇人の溜まり場になりやすい。専門知識を詰め込みすぎた代償に一般常識を根こ削ぎ持っていかれたような輩からのクレームは日常茶飯事である。だいたいが無職か大学教授だ。同じようなものだが。

 人文書一筋二十年のキャリアを持つ石尾にとって、こういった手合いを速やかに、そして相手を不快にさせることなく追い払うのは朝飯前、いや書店員風に言えば棚入れ前、泣いた赤子の手をひねり、飛び出す絵本でひと笑いさせるよりも簡単な仕事だった。

「お客様」

 笑顔で声をかける石尾。

「お客様」

 返事がないので、一呼吸置いてもう一度。

 二度目の声かけで男は頭を打つのをやめ、石尾の方に向き直った。

 石尾はすかさず一礼して言った。

「恐れ入ります。あちらに座り読み用のベンチがございます。書籍の中身をじっくり拝見されるようでしたら、いかがでしょう、是非ご利用ください」

 頭を下げたまま、右手で他に利用客のいないベンチをゆっくりと指し示した。

 しかし、客が動く気配はなかった。

 いるんだ、こういう意固地な客。いささか慇懃過ぎたかと思いつつ、顔を上げたところで石尾は戦慄した。

 男は目の焦点がまったく合っておらず、白目に近い状態で、半開きの口元からは赤い赤い舌がだらしなく垂れ下がっていた。

 危ない薬でもやっているのだろうか。さすがに書店員経験二十年の石尾でも、麻薬中毒の客を接客したことはない。逃げるべきか、それとも店長や警備員を呼ぶべきか。

 石尾が恐る恐る一歩後ずさると、それを見咎めたように、ギュルリ、と男の眼球が一回りし、目の焦点が合ったと思った瞬間には、もう首筋に飛びかかられていた。


 ※※※


「今、何か聞こえませんでしたか?」

 夏の文庫百冊フェアを並べながら、横谷は隣の大野に言った。

「え? 何。私、特に何も聞こえなかったけど」

 大野は横谷の方を見もせずに、棚にどんどん本を並べていく。

 大野は早口で、仕事も速い。声が聞こえたような気がして、人文書などがある奥の専門書コーナーの方を向いている横谷を意に介すことなく、『金隠し』、『動力ピエロ』、『博士とBYEした葬式』、『海へと!寡婦が』を面陳列していく。

「横谷さん、ぼうっとしてないで手を動かす」

「すみません」

 言われて、横谷も作業に戻った。

 大野も横谷も同じアルバイトだったが、大野は八年目のベテラン、横谷は入ってまだ半年だった。大学出てすぐで二十三歳の横谷に対し、大野は今年で三十なかば。ともに女性で独身だったが、仕事が出来て社員や店長にも遠慮なく意見を言う大野は店内でも強い影響力を持っており、横谷は尊敬と怖れが半々の気持ちで一緒に働いていた。

 アルバイト採用後二ヶ月ほどは、レジと雑用しか仕事が回ってこなかったが、三ヶ月目から横谷は大野の下で文庫本を担当するよう配置された。はじめはあまりにも仕事が速く厳しい大野にびびりまくり、横谷は女子トイレで人知れず泣いたこともあった。レジはのほほんとした人ばかりで優しく丁寧に教えてくれたし、横谷自身も生来のんびりした性格で、これまでアルバイトの経験もあまりなかったものだから、大野の仕事に対する厳しさについていける気がしなかった。

 しかし、のんびりとはしているものの、真面目で意思の強い所もあった横谷は、「これが社会で働くということなんだわ。これくらい出来るようにならなくっちゃ」と涙を拭いて唇を噛んで、ついでに鼻もかんで、毎日頑張り、叱られても叱られても大野についていき、その後も何度か女子トイレで音姫を鳴らしながら咽び泣くことはあったものの、文庫本担当となって三か月が過ぎた今では、叱られる回数も減り、一人で随分仕事も出来るようになっていた。

 大野の方も、そんな横谷を相変わらず厳しくは指導しつつも、内心とても気に入っていて、今後は大きなフェアを任せたり、出版社営業との飲みの席にも連れて行ったりして、書店の仕事の楽しみを伝えていきたいと思っていた。

 夏の文庫百冊を並べ終り、二人は少し下がって出来上がった陳列をチェックした。

 横谷は、去年まで何気無しに本屋で手に取っていた「○○社 夏の百冊」という帯がずらりと並んでいる書棚を見て、自分の仕事を誇らしく思った。

「この本とこの本は逆の方が見栄えがいいわね……」

 そう言いながら細かい手直しをしている大野に、横谷は嬉しくなって、

「大野さん、大野さん。私、だんだん本屋さんらしくなってきた気がします」

 と、恋したような笑顔で言った。

 その笑顔に大野も手を止め、殊勝な後輩を嬉しく思い、珍しく顔を綻ばせた。

 これまで、大野の元で働いてきた後輩たちは、厳しさに耐えられず辞めていった者がほとんどだった。それでも、大野はやり方を変えなかった。彼女なりに真剣に書店の仕事を愛し、誇りを持っているからこそ、後輩にも多くを要求してきた。そのことで、学生アルバイトたちから陰口を叩かれていることも、社員に少々煙たがられていることも知っている。だが、横谷のように、こうしてついてきて、心強く成長してくれる後輩が自分にも出来たのだ。

 そんな感慨を覚え、大野は慈愛に満ちた微笑みを横谷に向けた。

 しかし、その滅多に見られない大野の笑顔は、次の瞬間に凍りついた。


 真っ青な顔をした男が、横谷のすぐ後ろで、真っ赤に濡れた口を大きく開けて立っていたのだ。


 ※※※


 店長の関は、先月の売上報告書を見て溜息をついた。

 見ているだけで、おなかが痛くなりそうだ。

 今年で入社して十五年。齢四十を前にして、大型店舗の店長を任された。この店を軌道に乗せることが出来れば、おそらく次は営業本部で役職付きだ。給料も上がるだろうし、妻も喜んでくれるだろう。しかし、現状ではそう簡単には行かなそうだった。

 前店長に代わって就任したのが四月一日だったので、それからちょうど三ヶ月。アルバイトはじめ従業員たちはまだ自分を信頼してくれたとは言い難く、皆どこかよそよそしい。前店長が余程人望があったのか、何かと比べられるのは仕方ないにしても、最低限の指示には従って欲しい。特にあの文庫の大野ときたら、生意気にも程がある。忌々しい。

 もう一度、六月の売上報告書に目を通す。

 何度見ても同じだ。前店長時に比べ明らかに下がっている。もちろん代わってすぐに結果が出るものではないし、前店長時代から売上は緩やかに下がっていたのだから、全部が全部自分のせいというわけでもないのだが、上は果たしてどう思うか。ゴールデンウィークのあった五月にも大きく売上を落とし、さらに六月大きく落ち込んでいるのだ。

「俺が上の人間でも、店長が代わったせいだと思うわな~」

 他人事のようにつぶやいて、関は報告書をデスクに放り投げた。何度見ても同じなら、もう見たくない。

 こうして事務所にこもっているのが良くないのだろうか。前店長は、自分で棚の陳列をいじるのが好きな人で、あまり事務所にはおらず、店舗に出てアルバイトたちと直接コミュニケーションを図っていたらしい。前店長には、関自身も新人社員時代に指導してもらったことがあったので、その姿は想像に難くない。

 自分も今や管理職とは言え、書店員だ。棚をさわる喜びは分かっていたが、分かっているからこそ、余計な口や手を出さずに若いアルバイトたちに任せたいと思っているのだが。

 それに、店長の仕事は、他の社員やアルバイトがそうした書店の表舞台に立ちやすい環境を作ることで、そのために本部へのホウレンソウ、出版社や取次会社との渉外といった裏方を一手に引き受けることだと、関はそう考えていた。

 だが、それがどうも上手に伝わっていないらしく、アルバイトたちからは「新しい店長は事務所でさぼってばかりいる」などと非難される始末だった。

 考えるほどに、お腹が痛くなってくる。

 関はストレス性の胃炎持ちで、憂鬱な気持ちになるとすぐに腹を下す。この店舗に赴任してからというもの、腹の休まる時がなかった。

 腹をなで、ちょっと考えてから、関は立ち上がった。事務所を出て、そのままつながっている店舗に出て、レジの脇を通り抜ける。

「ちょっと店内の巡回にいってきます。何かあったら内線電話してください」

 レジのアルバイトにそう告げ、関はトイレに向かった。

「いらっしゃいませすぇー」

 擦れ違う客に声をかけながら歩いたが、腹痛に気をとられた関は、やたらと血色の悪い客が多いことに気が付いていなかった。

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